現在は川口市の高校で教壇に立ち、サッカー部を指揮する岩井氏。独自の哲学でチームを強化する。写真:河野正

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 企業の人事部が受け持つ福利厚生の一環だった日本サッカーが、プロへ移行する過渡期を経験したひとりにDF岩井厚裕がいる。日本リーグの全日空を経て、Jリーグでは横浜フリューゲルスとアビスパ福岡でプレー。引退後は地元埼玉で公立中学の教員を長らく務め、現在は公立高校に異動してひと世代上の生徒と向き合っている。

 それは東京の名門・帝京高で、もうすぐ2年生になるという3月の練習試合だった。CBの先輩が怪我でピッチの外に出た時、古沼貞雄監督から「おい、お前が行け」と、ベンチのすぐ横でボール拾いをしていた岩井が選手交代を命じられた。

「先生は僕の名前も知らなかったはずなのでびっくりしました。相手CFを見ろと指示され、負けることの許されないチームでしたから、足が血まみれになろうが止めなきゃいけないと必死に戦いました。思えば古沼先生のあのひと言が、私の人生を決めたといっても過言ではありません。先生の一番近くに座っていなかったら、出場機会など巡ってこなかったかもしれませんからね」

 岩井はこれをきっかけに2年生からCBのレギュラーとなり、第62回と63回の全国高校選手権連覇に尽力。両校優勝となった63回大会では主将を務め、島原商高との決勝で同点FKを決めている。

 高校時代の忘れ得ぬ出来事のひとつが、東京選抜で臨んだ3年の奈良国体だ。準々決勝で神奈川選抜に敗れたが、宿泊先の公民館で面倒を見てくれた地域の人びとが応援に駆けつけ、「負けたのにすごく褒めてもらったんです。人の温かみを感じて自然と涙がこぼれ落ち、生まれて初めて号泣しました」と懐かしむ。

 複数の候補の中から、関東大学リーグ2部の東海大を選択。高校の練習が大変だったこともあり、東海大は練習も上下関係も厳しくないと帝京高の先輩、前田治から聞いた。中学の恩師に教育職員免許状の取得を勧められ、教職課程も履修していた。

 東海大では1部に昇格した2年生からポジションを掴み、いきなり関東大学リーグで初優勝。4年生では順天堂大と優勝を分け合い、全日本大学選手権初制覇に貢献している。

 日本リーグに所属する大手企業数社から勧誘され、教員になる前に社会人サッカーを経験したいと思い、1989年に全日空に入った。プロ契約も交わせたが、「引退後の選択肢が広がると考え、社員として入社しました」と説明。午前中に業務をこなし午後から練習したが、社業では苦労が絶えなかったそうだ。
 
 配属先の予約センターでパソコン操作に大苦戦した。「飛行機の予約電話がきてもパソコンなど触ったこともなかったので、打ち込むのに時間がかかりました。お客様はイライラしたと思います。間違って予約を取り消してしまったこともあり、上司に何度説教されたことか知れません」と苦笑する。

 日本リーグでは無冠に終わったが、1年目から主力となり3シーズンでリーグ戦60試合に出場した。

「全日空時代はサッカーも仕事も中途半端でした」。93年にJリーグが開幕することを受け、コーチだった木村文治から「プロでどうだ?」と打診される。どっちつかずではいけないと思い、熟慮を重ねた。当時の全日空は超人気企業で、「選手でいるより引退後の人生のほうがずっと長い。辞めたらもったいないぞ」という声が圧倒的だった。

 一方で帝京高の恩師・古沼監督は「まだ先がある。まずサッカーで頑張ってみたらどうだ」と進言。岩井は「あの言葉が背中を押してくれました」とプロでの挑戦を決断する。
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 全日空から生まれ変わった横浜フリューゲルスでプロフットボーラーの道を歩み出し、92年のJリーグナビスコカップ、翌年のJリーグ開幕という日本サッカーにとって画期的な出来事の当事者となる。

 横浜Fのコーチだったズデンコ・ベルデニックが、ゾーンプレスという戦術を採用。岩井は「ズデンコから守備を学んだほか、Jリーグが誕生したことで自分はもっとうまくなれました」と語る。世界各国の名手が続々と日本にやって来たからだ。

「浦和レッズのウーベ・バインにはまったく予測できないコースにパスを通され、自分の動きを見透かされているようでした。横浜マリノスのラモン・ディアスは、はっと思った瞬間にマークを外されシュートを打たれた。ガンバ大阪のエムボマは爆発的な速さが脅威で、同僚のアマリージャと紅白戦をすると動きだしの間合いが絶妙で、いつ、どこで相手を見ているのか不思議でした」

 30年前を回顧しながら、岩井はこう付け加えた。「達人とやり合ったおかげでさらに上達し、より考えながらプレーするようになりました。自らの成長を実感できたんですよ」。

 横浜Fで3年間レギュラーとして活躍し、96年にJリーグ昇格を果たしたアビスパ福岡へ移籍。声をかけてくれたゼネラルマネジャーの泉信一郎は、横浜Fを運営する全日空スポーツの元社長でもあった。
 
 1年目から主将に指名され、清水秀彦監督の信任を得た。パチャメ監督と馬が合わなかった2年目は出場数が減ったが、森孝慈監督になった3年目は再度主将として奮闘する。

 福岡は97、98年の総合成績で最下位となってJ1参入決定戦に回った。1回戦を勝ち抜いたが2回戦で敗れ、最終1枠の第3参入決定戦でコンサドーレ札幌に連勝し、薄氷を踏む思いで残留を果たした。岩井はこれを置き土産に引退を決意する。

 98年というのは因縁めいていた。現役を退いた年に横浜Fが消滅。運営母体のひとつだった佐藤工業が経営から撤退したことで、横浜Mに吸収合併されたのだ。

 ことが公になった後の11月7日、第2ステージ第16節が横浜Fのホーム最終戦。福岡で3年目の岩井は慣れ親しんだ三ツ沢球技場で古巣と戦った。「まず驚き、次にまさか嘘だろと思いました。お世話になったクラブがなくなるのですから、衝撃でした」と述懐し、表情を曇らせた。
 30歳を過ぎた頃から引退後を思案し、大学進学時に描いていた教師を最優先に考えた。98年は日本が初出場したワールドカップ・フランス大会のため、Jリーグは5月初旬から7月末まで中断していた。

 同年7月、クラブには内緒で受けた埼玉県公立学校教員採用選考試験に合格。県教育委員会の記者発表前日、さすがに隠し切れなくなり、テクニカルアドバイザーの菊川凱夫に事実関係を伝えた。もうこの時、ユニホームを脱ぐ腹は固まっていた。

「でも来年からまったく違う仕事に就くと思うと、身体はきつくなりかけていたがまだできるんじゃないか、なんて思いはじめ、寂しさが出てきました。同時に少し不安も感じましたね」

 99年4月、新米教師は母校の川口市立神根中に着任。この1か月前、中学時代の恩人に頼んで授業を見学させてもらったほか、神根中でも複数の先生の授業を見て学んだが、「教え方というのがすごく難しく、初めは声が震えていました」と振り返る。同時にサッカー部も指導したが、顧問は岩井だけだった。

 神根中に3年奉職し、蕨市立東中に6年、その後はいずれも川口市立の学校で、芝園中に2年、戸塚中に7年、芝中に3年勤務。「運動はほぼなんでもできましたが、それをどう教えるのか、なかでも保健の授業は特に苦労しました。教師として部活動の顧問として、ようやく流れに乗れてきたのを感じたのは、蕨東中に転勤した頃です」と回想する。

 川口市は中学と高校の人事交流が盛んで、中学教諭が高校に異動することがよくある。2020年、岩井は川口市立の3校(川口、川口総合、県陽)に統合され、18年に開校した川口市立高へ転勤する。違う環境での挑戦を考え希望を出していたのだ。

 授業でも部活動でも高校生へのアプローチの仕方は、一段大人になっただけに中学生とは違った。

 プロ選手は観客に喜びを提供することが使命だが、今は教師として「教えたことを生徒がマスターしてくれた時に喜びを感じます。人のために尽くすのは大変ですが、やりがいでもありますね」とうなずいた。
 
 高校サッカーの指導は初めてのため、強豪校の練習を見させてもらい勉強もした。赴任2年目の秋には人工芝グラウンドが完成。現在は山田純輝、岩橋壽弘という有能なコーチが参謀役となって補佐する。

 全国高校選手権埼玉予選は、昨秋のベスト16が最高成績だ。「うまくなりたい、強くなりたいと思ったら何が足りないのか、ここを伸ばすには何をすべきかを自ら考えないといけない。言われたからやるのではなく、自分から課題を持って取り組むべき」との持論を述べる。

 岩井は中学・高校時代、足を速くしようと俊足の先輩がつま先で歩いているのを見て真似をし、筋力強化のために自転車は片脚でこいだ。大学では月、水、金曜の筋トレを4年間続け、全日本大学選抜の合宿では筑波大のDF井原正巳の長所を参考にした。プロ入りすると、当時世界最高のCBと言われたフランコ・バレージだけを見るためにセリエAの観戦に出掛けている。

 チーム作りの哲学を問うと、「周りの状況をよく観察して常に考えながら動き、最良の判断を選手が下せるチーム」と即答した。

 サッカー人生で一番の思い出を尋ねた。高校、大学での日本一やJリーグ開幕にも立ち会うなど、数多くの経験をしてきたというのに、返ってきた言葉に意表を突かれた。

「1−0で勝っていた全日本少年大会埼玉予選準決勝で、自分の反則からFKを与え失点してPK戦負け。中学でも全国大会につながる埼玉予選準々決勝で、自分がGKとの1対1を外して敗退したんです。余計な反則をしない、1回のチャンスを大切にする。これこそが自分の原点。指導者になってからも、選手にはこのふたつを伝えています」

 岩井は小さい頃から失敗と反省を糧にし、一流選手へと栄達した。

(文中敬称略/名称はいずれも当時)

取材・文●河野 正