11年夏の日大三エースとして活躍した吉永の知られざる今に迫る【写真:楢崎豊】

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11年夏の日大三エースの知られざる今、引退危機の大怪我から起こした「30%の奇跡」

 今年も乾いた金属バットの音色が、青い空に映える季節がやって来た。蒸し暑さが覆う、JR東日本グラウンド。顔を見るなり、その男は17歳の頃と変わらない優しげな口ぶりで、笑いかけてきた。「今の僕が、記事になるんですか?」。名前は、吉永健太朗という。アマ野球ファンなら、ピンと来るだろう。かつて高校野球の聖地で主役になったエース。年を聞いて「もう、25歳になりました」と笑ったが、この時期が来ると、8年前の夏の雄姿をなお、思い出す。全国の球児が日本一を目指す今、聞いてみたい。

 あなたにとって、最強の甲子園優勝投手は誰ですか――。

 平成でいえば、松坂大輔は別格だろう。斎藤佑樹は決勝再試合で伝説になったし、島袋洋奨、藤浪晋太郎の春夏連覇も凄かった。答えなど、一つではないことは知っている。そのマウンドをどこで、どう見て、どんな思い出に彩られているか。オンリーワンの記憶とともに語られるべきではないか。初めてテレビで観た甲子園のヒーロー、職場・クラスの話題をさらった時の人、「熱闘甲子園」で泣いた人間ドラマ……理由は様々だ。そんな理屈に照らせば、筆者は吉永健太朗がその人だった。話は、少し逸れる。

 2011年、夏。圧倒的な強さを誇った日大三の背番号1が決勝のマウンドにいた。当時、スポーツ新聞社の記者1年目。光星学院戦、先輩記者から「10年前の優勝メンバーを探してコメントを取れ」と命じられ、客席を歩き回った。三塁側アルプス席から田村龍弘(現ロッテ)、北條史也(現阪神)ら強力打線を「左投手のカーブのように曲がる」と評された宝刀シンカーでなで斬る姿は、輝いて見えた。取材者として初めて目撃した甲子園優勝投手。私の「最強の――」が生まれ、以来、その姿をずっと追ってきた。

 しかし、あれから8年。25歳となり、メディアから名前が消えた吉永健太朗の今を知る人は少ない。だから、ここに記す。

 大学生活の船出は順風満帆だった。早大1年春から東京六大学リーグ戦で活躍し、日本一を達成。誰もが3年後のプロ入りを信じた。歯車が狂い始めたのは、2年秋。「もとから安定しにくかった」というフォームが乱れた。最初は小さかった誤差が日増しに大きくなっていく。気づけば、本来の投げ方を忘れてしまった。直球が140キロに届かない。右肩を痛め、ベンチすら弾かれた。

「4年間を振り返ってみると、苦しい大学生活でしたね」と寂しそうに笑い、「都の西北」で過ごした記憶を呼び起こした。

「高校時代に戻ろう、戻ろうとしていた。シンカーを投げることをすべての軸に考えてしまい、フォームが変わっていく中で、投げ方そのものがわからなくなった。だんだん直球も行かなくなる悪循環。甲子園がある種の理想になっていたのかな。西東京大会決勝で負けていたら、変わっていたかもしれない。終わり良ければすべて良しと言うけど、自分の4年間は最初だけだったから」

 甲子園の輝きに、自らががんじがらめになり、抜け出せなくなった。大学通算11勝10敗。日大三の同級生だった明大・高山俊(現阪神)、慶大・横尾俊建(現日本ハム)、早大の同僚だった茂木栄五郎(現楽天)、重信慎之介(現巨人)らがプロ入りする一方で、高校時代に「世代No.1投手」と注目を集めた男はプロ志望届を提出することなく、ひっそりと社会人のJR東日本に進んだ。

 一度失った輝きは、そう簡単に取り戻せなかった。思うように結果が出せず、1年目のオフ、野手転向を打診された。幾多のプロ選手を輩出した名将・堀井哲也監督が「打撃センスが良い。足も速い。ショートとして鍛えれば、2年後にプロ入りもある」と可能性を見い出した。しかし、吉永は頑として首を縦に振らない。普段は朴訥として気の優しい男が、指揮官に真正面から主張した。

「野手になるくらいなら、野球を辞めます」。必死に言った吉永は「投手をやりながら、ではダメですか」と食い下がった。堀井監督に「そんな気持ちじゃ、野手も無理だ」と一蹴されると「分かりました。野手を100%やるので、それ以外のところで投手をやらせてください」。最初は「投手を思い出させることはしたくなかった」という堀井監督も「そこまで言うなら……」と折れた。

 消えなかったマウンドへの情熱。説得した恩師が、説得された。ただ、この挑戦が結果的に壮絶なドラマの引き金となった。

復帰確率「30%」の大怪我…時に苦しめられ、時に助けられた「甲子園の記憶」

 突然だった。3月。野手で出場したオープン戦、一塁走者で牽制球に頭から滑り込むと、激痛が走った。右肩亜脱臼。靱帯も一部断裂した。投手の生命線に負った致命的な怪我。保存治療を試みたが、一向に良くならないどころか、一度ブルペンに入れば、腕が1週間上がらず。投手はおろか、野手の送球すらままならない。やがて、選択を迫られた。手術するか、否か。医師は言った。

「手術をした場合、投手としての復帰まで1年はかかる。復帰できる確率は30%です」

 突きつけられた現実。それも「30%」は、中高生を仮定して弾き出された数字だ。プロも注目するレベルの投手が、野手に起こりやすい肩の脱臼で手術するなんて前例がない。堀井監督は思った。「確率は30%よりも、もっと低い。投手として復帰できれば、奇跡だ」と。「70%」に転べば、野球人生は終わる。しかし、本人は「30%」に賭けた。9月、生まれて初めて肩を手術した。

 手術後、環境が変わった。リハビリに充てる1年間は戦力になることができない。野球部に籍を残す代わりに、休部扱いとされた。復帰へ、課された条件は一つ。「1年後に1イニングでいい。試合で痛みなく、全力で腕を振る姿を見せること。それができなければ、翌年はない」(堀井監督)。平日は午前9時から午後6時まで社業に没頭。東京支社の総務部社員として働くことになった。

「なんで、自分が……」。本意ではなかった野手挑戦で負った怪我。社内の雑用に追われ、チームメートが出場する都市対抗の選手名鑑作りに励んだこともある。堀井監督は「甲子園優勝投手にとって、泥水をすするようなもの」と言った。それでも、諦めれば即、野球人生の終わりを意味する。仕事を終えて午後8時から遅くまでリハビリに励み、土日を使って休みなく体を動かした。

 頼りになったのが、社会人で再会した“あの夏”の女房役だった。日大三でバッテリーを組み、一緒に甲子園優勝を味わった鈴木貴弘が同僚にいた。手術から10か月、ブルペンに立てるようになった頃、「受けてほしい」と声をかけたのが、10年来の盟友だった。練習を終えて疲れている鈴木に頼み、夜な夜な、球を受けてもらった。ただ、二人三脚の道のりもトラブルが連続した。

「今日は調子がいい、いける」。そう思ってグラウンドに来てもらった直後、急に肩が上がらなくなり「ごめん、やっぱり投げられない」と断ることもざら。その時その時で言うことを聞かない肩で、振り回してしまう。それでも、盟友が嫌な顔をすることはなかった。中学で初めて対戦し、高校は同僚となり、同じ東京六大学を経て、24年の人生の半分を共にしてきた。鈴木は言う。

「練習を1日やり切って、本来、ゆっくりしたい時間に行くことはしんどかった。でも、お願いする方だってしんどいはず。そのくらい覚悟があったと思うし、何より頼めるのは自分しかいなかったと思うから。本人が一番つらい思いをしていたはず。人一倍の努力をしていたし、もう一度、マウンドで投げる姿を見たかった。だから、お願いされた時は『いいよ』という答えだけだった」

 かけがえのない友の支えを受け、「なんとかギリギリ」で間に合った11月。現役続行か、引退か。野球人生をかけたテストに挑んだ。オープン戦2試合に登板。1イニングずつを投げ、抑えた。数日後、チームの勇退者が呼び出された。“上がり”と言われ、構想外の選手に事実上の引退を通告されるもの。その日、吉永が呼ばれることがなかった。これが「現役続行」の知らせだった。

 怪我をしてから、1年8か月の歳月が流れていた。一度は普通の会社員になり、野球も取り上げられた。エリート街道を歩んだ野球人生最大の崖っぷち。心が折れるタイミングは幾らでもあった。

 なのに、なぜ、そんなに頑張ることができたのか。

 少し間を置いて、吉永の口からこぼれた言葉に、息を呑んだ。「それは、やっぱり、いい時代を知っているからですよね」――。「いい時代」が指し示すのは、もちろん、あの夏に他ならない。

「そういう喜びをもう一度、経験したいという思いが、心のどこかにあったから。あの夏、シンカーで三振を取れたことが一番、楽しかった。左打者が来たら、ほぼ取れる感覚。なんで、あんなに投げられたか、今はもうわからない。でも、結果として優勝できた。そういう経験がなかったから乗り越えられなかった。良い思いを知らなかったら、頑張れない。想像だけじゃ、きっと」

 甲子園の記憶に苦しめられた男が、甲子園の記憶に助けられ、人知れずに起こした「30%の奇跡」だった。

24歳で結婚、都市対抗から目指す復活「結果で見せるしかない、『吉永はまだいるぞ』って」

 実は、もう一人、復活を支えてくれた人がいる。昨年12月、早大の同級生でチアリーダーを務めていた涼子さんと交際6年を経て、結婚した。24歳。「日大三の同級生で2番目です」という若さだったが、人生をかけて支えていこうと決意し、プロポーズ。生涯の伴侶を得た。その存在が支えになっていたのは、吉永にとっても一緒だった。

「大学時代から応援席でずっと見ていてくれた。肩を怪我して『右がダメなら、左で投げたら?』って言うくらい、野球のことは知らないけど(笑)。去年は夜から1人でリハビリをして、土日は休みなく練習に参加して、心が折れかけた時、一番に自分の体を心配してくれていた。いい時も悪い時も側にいてくれて、ずっと支えになっていた」

 背番号30から11に変わり、迎えた社会人4年目。「投手・吉永」として再び歩き始めた。長いブランクを経た道のり。いいことばかりではない。「感覚は良くなっている。万全になれば、150キロ近い球を投げられる」と手応えは深まっているが、状態は不安定。だからだろう。「今、野球は楽しい?」と聞くと「普通、ですかね」と言った。

「楽しい以上につらい。今日も投げられるかな、という不安が常にある。自分の肩なのに、投げてみないとわからない。痛くても投げないといけない日もあるから」。これが、偽りない現実だった。もうシンカーを投げることはできない。甲子園の映像を見ても「他人を見ている感覚」と言う。「今はプライドも何もない。使える球種を使うだけ」。勝負球はチェンジアップに変わった。

 甲子園から、長かった8年間。ずっと応援してくれる人もいれば、そうじゃない人もたくさんいた。実際、雑音も耳にしてきた。その一つが「高校生の時にプロ志望届を出していれば、変わっていたのではないか」というファンの“タラレバ”たった。敢えて今、その問いをぶつけた。「あの夏だけを見れば、そう見る人がいるのはわかる。だけど……」。そう言って、言葉を紡いだ。

「3年間を通してフォームは探り探り。たまたまタイミング良く、最後にハマっただけ。絶対的な自信があったわけではないし、選択が間違いだったとも思わない。今は選んできた道が良かったと思えるようにやっていくしかないので」。変えられるものは過去ではなく、未来にある。できることは今、持てる100%でマウンドに立つだけ。そう、心に決めて、野球と全力で向き合っている。

 自分の存在を示すため、立ちたいマウンドが目の前にある。都市対抗大会の初戦となる2回戦・ヤマハ戦を明日19日に迎える。東京Dのマウンドから、その先の未来にどんな景色を描いているのか。

「もう、自分の終わりが近いということはわかっている。そう感じて、野球に対する考えも変わった。将来のことは見ていない。1年1年が勝負。今年良くなければ、来年はもうない。都市対抗で投げること、怪我をしないこと。目の前だけを見て、それが積み重なった結果、3年先、5年先も野球ができていたらいい」

 甲子園の輝きには、まだ及ばないかもしれない。それでも、今なお、気まぐれな肩と付き合いながら、必死にもがき、苦しみ、目指している復活。「高校、大学で『終わった』って言われるのは、やっぱり悔しいので。だから、結果で見せるしかない。『吉永はまだいるんだぞ』って。もう一回、花咲かせたいですよ。後ろは向かないって決めたので」と笑い、ふっと視線を上げた。

 最強の甲子園優勝投手は、死んでいない。吉永健太朗、25歳。8年後の夏の真実が、ここにある。

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 この記事は「THE ANSWER」と「Full-Count」の連動コラムです。本日夜に「Full-Count」でJR東日本・堀井哲也監督が語る「吉永復活の知られざる秘話」を配信します。(THE ANSWER編集部・神原 英彰 / Hideaki Kanbara)