故・中村玉緒さん

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 俳優の中村玉緒さんが6月9日に亡くなったことを所属事務所が発表した。86歳だった。夫の勝新太郎(1931〜1997)が亡くなって30年が過ぎようとしていたが、あれほど振り回されたにもかかわらず、最後まで惚れ込んでいた。そんな彼女の言葉を振り返る。

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「週刊新潮」は2025年11月20日号で、玉緒さんの“終の棲家”での様子を報じている。彼女は東京の北部にある老人ホームに入っていた。その部屋を訪ねたのは、勝の兄である若山富三郎(1929〜1992)の息子で俳優の若山騎一郎(61)、つまり玉緒さんにとっては義理の甥っ子である。

故・中村玉緒さん

《玉緒おばちゃんの部屋の前に掲げられたネームプレートは空欄だった。ドアを開けると、おばちゃんがベッドに座ってテレビを見てたんだ。まず姉が部屋に入り、“おばちゃん、姪の佳代子だよ、憶えてる? 弟の騎一郎も、その奥さんも来たよ”って声をかけた。おばちゃんはテレビのほうからフッとこちらを振り返って“うわぁ〜、会いに来てくれたん。涙が出るぐらい嬉しい。騎一郎、結婚したん。奥さん名前なんていうん”って話し始めてさ》

 すでに表舞台から遠ざかっていた玉緒さんは、一部女性誌で認知機能が低下していると報じられたこともあった。

《玉緒おばちゃんが“子どもはできたの”と聞くから、“50歳を超えての結婚だからできなかった”と返すと、“私はいっぱい産んだんやで”と言うんだ。その明るい雰囲気は、明石家さんまさんの番組に出ていた中村玉緒のままだった。“さんまさんともまた仕事がしたい”ってね。会った際には“白髪染めをしてないし、化粧もしてなくて恥ずかしい”と言ってたけど、とってもキレイだったよ》

 話題はメジャーリーグで大活躍の、あの選手にも及んだという。

壁には夫婦の写真

《“最近テレビで気になる人は?”と聞くと“大谷翔平さん”と答えたんだ。まるで大谷選手に恋でもしているように見えたから“どこが好き?”と質問したら、人差し指を立てて口元に添え、“シーッ、聞かんといて”と恥ずかしそうにするわけよ。その姿は本当に愛くるしかった》

 そして玉緒さんは壁に掛かった写真を指差した。

《入口から向かって右側の壁には、勝おじちゃんと映画で共演した時の写真、結婚時の二人や、玉緒おばちゃんの両親の写真が並んでいた。左側の壁には、おばちゃん夫婦とその子どもたちの写真があった。おばちゃんは、京都の動物園で昔に撮ったモノクロの家族写真を指さしてこう言ったんだ。“本当に楽しかったん。楽しくて、すっごく幸せやったんやで”って》

 では、玉緒さんが「週刊新潮」の2012年6月28日号で明かしてくれた「中村玉緒が初めて語った『プロポーズ』『借金』『座頭市』」から、その発言を引用する。すでに勝が亡くなって15年が過ぎていた。

《15年とはずいぶん長い年月が過ぎたわけですが、まだ生きているかのようにテレビや映画を見ていただいて、主人は幸せ者だと思います。私がテレビに出るときも、いつも主人の名前が出ます。「勝さんはどうでしたか」って。それが主人にとって、幸せなことじゃないかと思います》

男として初めて意識した

 玉緒さんは人間国宝にも認定された上方歌舞伎の重鎮、2代目中村鴈治郎(1902〜1983)の長女として生まれたお嬢様だった。ちなみに、兄の4代目坂田藤十郎(1931〜2020)も人間国宝で、その妻は女優で政治家の扇千景(1933〜2023)だ。

 彼女と結婚する勝は、長唄三味線の名人・杵屋勝東治(1909〜1996)の次男として生まれた。兄の若山と共に長唄を修行していたが、アメリカ巡業中にジェームズ・ディーンを紹介されたことで俳優になることを決意したといわれる。

《2人は大映に所属する同士の“社内結婚”でした。(中略)初めて主人と共演したのは(昭和30年の)「カンカン虫は唄う」ですが、やっぱりすごくイケメンさんでした。大映の二枚目には長谷川一夫先生も市川雷蔵さんもいらっしゃいましたけど、長谷川先生は親戚で、市川さんは兄の親友でしたから、男の人として初めて意識したのは勝新太郎でした》

 のちに大映を背負って立つ二枚看板、“カツライス”と呼ばれることになる勝と雷蔵だが、この前年の映画「花の白虎隊」で揃ってデビューしていた。もっとも、歌舞伎界から鳴り物入りでやってきた雷蔵は主役、勝は脇役だった。その差はなかなか埋まらなかったが、「不知火検校」(1960年)で悪漢を演じたことで評価は一変する。また、この作品で玉緒さんとの共演が2人を結びつけたと言われてきたのだが……。

マネージャーを通して告白

《「不知火検校」での共演が愛の芽生えだったというんですが、森一生監督は撮影が早いので、喋る間もなかった。ところが、知らないうちに向こうも好いてくださっていたみたいで、私が20歳ぐらいだったある日。主人はクラブとかでみんなで飲むのが好きで、私も呼ばれて、そのまま主人の嵐山の家にみんなでなだれ込みました。そこは私が後に嫁ぐ家ですが、2階のホームバーにいたら、マネージャーさんから下に呼ばれて「勝さんが好きなんです。玉緒さん、どうですか」と言われましてね。私も「好きです」と答えました》

 もっとも、玉緒さんには不安もあったという。

《ただ、そのころ主人は(中略)ある女優さんと噂があったんです。芸者さんと同棲しているみたいな噂もあって、それも祇園の一流の方だって聞いていたから、私を好いていないと頭から思っていました。だからびっくりして、すぐオーケーしちゃったんです》

 それから1週間ほど経って、再び勝のマネージャーから呼ばれる。

《「実は結婚というか、正式にお付き合いしたいので、勝さんが、成駒屋の玉緒さんのお父さんに会いたいと言っているんです」と。主人は父に会いに行ってくれたんです。私は前もって「お父ちゃん、勝さんが“結婚”と言わはったとき、(了承の)返事してって」と言うたのに、父は“花嫁の父”になってしまって、あまりよい返事をしなかったみたいですね。私、父に怒ったことがありました》

 だが、2人の交際は「週刊明星」にすっぱ抜かれたという。

勝新の飲み方

《そうなると父も母も承諾したみたいなもので、(大映の)永田雅一社長にも言うとかないといかなくなって、2人で東京の大映に報告に行きました。社長は「1年待て」と。で、しばらくは恋愛というか、主人が東京に行ったら私が会いに行って、という生活をして、翌年3月7日に結婚したんです》

 1962年のことである。挙式と披露宴は帝国ホテルで執り行われた。そして結婚直後に封切られたのが「座頭市物語」で、言わずと知れた生涯にわたる勝のヒット作となる。この撮影の際、現場に来られなくなった勝の代わりに、ロングショットのシーンで“影武者”を務めたのが俳優の三夏紳(85)だ。これが縁で可愛がられた三夏は、勝の飲みっぷりを「週刊新潮」の2022年12月22日号で語っている。

《勝さんはとにかく「飲め飲め」の一本やり。それも普通の飲み方じゃないんです。ボトルを冷やしておくための、氷を入れるアイスペールがあるでしょ。あれにヘネシーやレミーマルタンをなみなみと注いで、ぐるぐるとみんなで回し飲みするんですよ。その晩は『黒い花びら』で59年に第1回レコード大賞を受賞した大スター、水原弘さんも一緒でした。勝さんは「こいつが俺の代わりをやってくれた“中野の勝新”だよ」。中野に住んでいた私をそんな風に紹介してくれて、「今日はお披露目だから、最初の口はお前がつけていい。グッといけ」と勧めてきます。その頃まだ飲みつけていなかった酒を精一杯飲みました。きつかったですねぇ》

 こんな飲み方であるから、年間で1億円が飲み代に消えたなんて話もある。

「影武者」降板

 前出の「週刊新潮」2012年6月28日号で、玉緒さんはこう話している。

《京都で主人が飲み歩いたのは祇園と先斗町。一体いくら飲んだのかわかりませんが、10万円くらい持って出かけていた。現金はみんなご祝儀。みんなに配るご祝儀で、飲み食いのお金じゃない。飲み食いはツケが利くのがいけなかった。さすがに1億円ということはないと思いますが、でも、それが全部借金になっています》

 そしてこう続けた。

《私は結婚して、女優さんを辞めていました。再開したのは、関西で製作する番組なら家を空けないで済むと思ったからなんですが、だんだんとお仕事は食べるためのものになって、そうして借金を払っていて、まだ支払いは終わっていません》

 のちに明石家さんま(70)との名コンビが生まれるのも、この延長だったのかもしれない。そして話は黒澤明監督「影武者」(1979年)の“降板事件”に及ぶ。

《黒澤監督の「影武者」降板は残念でした。主人と黒澤監督は喧嘩したのではないみたいなんです。でも、私も怖くて、よう聞かんわけで、未だに真相は分からないんです。ただ、今でこそ笑い話みたいで、黒澤監督の息子さんとはいろんなところで会って、主人が死んだときのことを「勝っちゃんのときはごめんね。お葬式に行って花をあげるとみんなから注目されるので」。私も黒澤先生が亡くなったときのことを「ごめんなさい。私が(お葬式に)行くとおかしくなるから」。そう言える仲にはなっています》

 そして1981年、勝プロダクションは12億円の借金を抱えて倒産した。

「もうパンツははかない」

《主人の演出はちょっと時代が早かったんですね。「座頭市」は皆さんに好かれましたけど、「燃えつきた地図」(1968年)とか「警視-K」(1980年・日本テレビ)とかは、ちょっとずつ早かった》

「燃えつきた地図」は原作と脚本が安部公房、監督は勅使河原宏が務めるという妥協を許さぬ作品だった。そして「警視-K」は、警視庁の警視でありながら定住所を持たず、キャンピングカーで放浪生活を送っているという奇妙な設定だった。だが、現在放送中の「ボーダレス〜広域移動捜査隊」(テレビ朝日)の原型といえるかも……となると、ちょっとどころではなく時代が早すぎた。

《子役が泣けないと、その子が自然に泣けるまで、本当の涙を出すまでフィルム1本回すんですよ。ですから、儲かるわけがない。だから苦労が多かったと思われるでしょうが、本当に、とってもかわいい人だったんですよ》

 さらに、1990年、勝はハワイのホノルル空港で下着にマリファナとコカインを入れていたとして現行犯逮捕される。逮捕後の会見では「もうパンツははかない」などと発言したことが話題となったが、誰から薬物を入手したかについては口を割らなかった。480日ぶりに帰国したものの日本でも逮捕され、執行猶予付きの有罪判決を受けた。裁判では傍聴者を観客と呼び、出廷前に「入りはどうだ?」と尋ねたとも……。

《逮捕は、あれは信じられないことでした。私の前では、麻薬も何もなかったから。でも、アメリカから帰ってきてくれて嬉しかった。また俳優になれる、だから過ぎたことを聞いてもと思って、真相についての会話は夫婦でしなかったんですね。前向きだったんです》

 だが、この時すでに勝の身体を下咽頭癌が蝕んでいた。

最初で最後の舞台共演

《復帰作は、私は主人が映画を選ぶと思っていました。それが、ガンの前触れだったのか、それとも虫が知らせたのか、「夫婦善哉」を選びました》

 これが最初で最後の舞台での夫婦共演となった。

《でも、途中で喉が痛くなって2カ月舞台をやってからお医者さんで調べました。私が呼ばれてガンだと告げられましたが、お医者さんは「今の話は聞かなかったことに」と。主人は「玉緒には言うな」と言ったって。その時はもう手遅れだったんです》

 診断から10カ月後の1997年6月21日、勝新太郎、死去。

《「パパ、本当はこうでしょう」「昔、女の人とこんなことがあったんでしょう」とか、いろんなことを聞く前に死んじゃった。死が早すぎました。もっと働いてもらい、主人が監督した映画をもっともっと見せてほしかった。死ぬなんて思ってもいませんでしたから》

 そして最後にこう呟いた。

《私が本当に言いたいのはたった一言。「勝新太郎の妻でよかった」ということだけなんです》

 もしかすると今頃、玉緒さんはこれまで聞けなかったことを勝に問い質しているかもしれない。

デイリー新潮編集部