“台湾アカデミー賞”こと第62回金馬奨で、最優秀作品賞・最優秀脚本賞など4部門に輝いた『霧のごとく』。政府によって言論の自由が制限され、多くの人々が政治犯として投獄された「白色テロ」の時代を描いた本作は、台湾で興行収入1億元(約5億円)を突破する大ヒットとなった。監督は『1秒先の彼女』(2020年)や『熱帯魚』(1995年)のチェン・ユーシュン(陳玉勲)。コミカルなヒューマンドラマを多数手がけてきた名匠が、過去もっともシリアスな題材に挑んだ理由や、現在の台湾社会で白色テロを描くことの意味を語ってくれた。

【画像】台湾映画界の人気者が結集した大ヒット作『霧のごとく』の場面写真をすべて見る


チェン・ユーシュン監督

◆◆◆

両親の記憶を入口に「白色テロ」を描く

 1950年代。台湾中部・嘉義の村に暮らす少女、阿月(アグエー)は、反政府分子として逮捕されていた兄が処刑されたと知らされる。たった一人、遺体を引き取るべく台北を目指して旅に出る阿月は、道中で人力車の車夫である趙公道(ザオ・ゴンダオ)に出会った。

 中国・広東出身の公道は、国民党の軍人として台湾に渡ってきたが、戦争で仲間を失い、今では人生に迷ってその日暮らしの生活を送る身。危機に瀕した阿月に公道が手を差し伸べたことから、心に傷を負った2人の運命は動き出し――。

 白色テロ時代といえば、『牯嶺街少年殺人事件』(1991年)や『悲情城市』(1989年)といった台湾ニューシネマの名作でも描かれてきた時代だ。もっとも1962年生まれのチェン・ユーシュン監督は、弾圧が激しかった時代について「なんとなく知っていたけれど、積極的に調べたことはなかった」という。

「前作『1秒先の彼女』を撮ったあと、次回作のアイデアが思いつかず、実家で暇な毎日を送っていました。そんななか、両親が幼いころの台湾はどんな社会で、彼らがどんな生活を送っていたかという話を聞くようになったんです。白色テロ時代を自分でも調べはじめて、想像を超える出来事にショックを受け、同時に心を打たれました。それがこの物語を書こうと決めたきっかけでした」

 主人公の少女・阿月は、当時の監督の母親と同じ年齢だ。膨大な資料を読み込み、両親の思い出から当時の空気を感じ取りつつ、約2年を費やして脚本を執筆した。

「物語はフィクションですが、実際の出来事をたくさん取り入れました。阿月の兄がさとうきび畑に身を隠すのも、実際にそうしていた人がいたからです」

温かくユーモラスな視点

 台湾の重い歴史を映画にするうえでこだわったのは、監督デビュー作『熱帯魚』以来変わらない「小人物の物語」を描くことだった。

「私が特に興味を持ったのは、当時の社会の下層を生きていた、農民や車夫、チンピラ、泥棒といった無名の人々でした。エリートや知識層、また白色テロの犠牲者本人ではなく、その遺族である妹の目線から時代を見つめることで、得意の『小人物の物語』を描けると思ったのです」

 本作が台湾で好評を得たのは、まさにこうしたアプローチのためだった。白色テロ時代を描いた映画としては珍しく、トーンはどこか軽やかで温かく、くすりと笑える場面もある。

 ところがユーシュン監督は、プレミア上映で観客の笑い声を聞いて驚いたそうだ。「残酷な映画にはしたくなかったけれど、ユーモラスにしようとも思っていなかったから」と振り返る。

「当時がきわめて残酷な時代で、この映画がシリアスかつ悲惨な物語であることは自覚していました。だから、観客を笑わせたいとは思わなかった。しかし、私が当時の現実を残酷に撮れるとも、観客がその現実をずっと見ていられるとも思えなかった……。強いて言えば、人物が懸命に生きていることから、自然にあふれるおかしみや愛おしさがあるということ。私はただ、それに従っただけだと思います」

台湾映画界の人気者たちが結集

 エネルギッシュな登場人物たちに血肉を与えるのは、実力確かな豪華キャストたちだ。阿月役は『アメリカから来た少女』(2021年)の新鋭ケイトリン・ファン、趙公道役には『香港の流れ者たち』(2021年)の香港人俳優ウィル・オー。さらに人気歌手9m88(ジョウエムバーバー)、『シンシン アンド ザ マウス/SINSIN AND THE MOUSE』の公開を控える注目株ツェン・ジンホアといった顔ぶれが脇を固める。

『1秒先の彼女』の主演俳優リウ・グァンティンが、実在の盗賊・高金鐘役で登場するのも見どころだ。もともとグァンティンは、ユーシュンの手がけたCMに出演したことがプロの俳優になるきっかけだったという。

「私はリウ・グァンティンが大好きで、自分が見出した役者だと思っているので、彼のことはいつも気にかけています。今回も主役を演じてほしかったのですが、彼は趙公道ではないなと思い、盗賊役で少しだけ出てもらいました。台湾では、『次はあの盗賊の映画を撮ってほしい』という声も多いんですよ(笑)」

 また、『赤い糸 輪廻のひみつ』(2021年)のビビアン・ソンも思わぬ役どころで出演。「常々、台湾の実力ある女優たちと仕事をしたいと思っていました。ビビアン・ソンとは初めての仕事で、今回は少ない出番でしたが、いずれまた出演してもらえる機会を探りたいと思っています」

いま、台湾で白色テロを描くこと

 近年、台湾では『返校 言葉が消えた日』(2019年)や『流麻溝十五号』(2022年)など、白色テロ時代を描く映画やテレビドラマが増えてきた。そんななか、本作の特徴は少女・阿月の視点からのみ当時を描いたことだ。

「白色テロという多面的な出来事には、少女の目からは見えないものがたくさんあります。だからこの映画では、阿月の知らないこと、理解できないことはあえて描きませんでした。異なる視点や角度から当時を見つめることで、ようやく時代の輪郭がはっきりしてくる。だからこそ、より多くの脚本家や監督たちが自分の視点で当時を撮るべきなのです」

 白色テロ時代を扱った映画には、台湾国内からも「また白色テロの映画か」「そんな事実はなかった」といった批判が寄せられるという。本作もまたその例外ではなかったが、ユーシュンは「『本当にそんな時代だったのか?』と疑うことはきわめて真っ当」と語った。

「本当に大切なのは、より多くの映画を撮りながら、私たち全員が過去の歴史に向き合うこと。そうして初めて、我々が未来をどう進んでゆくべきかがわかるのだと思います」

 台湾での公開後、本作は大きな反響を呼び、ユーシュン自身も驚くほどの評価を受けた。

「台湾の映画館では、エンドロールが始まると客席が明るくなり、観客はだいたい帰っていきます。けれど、この映画では観客のほぼ全員が最後まで席を立たず、時には拍手が起こることもありました。台湾でそんな体験をしたのは初めてのことでした」

 もっとも、日本公開にあたっては「少し心配しているところもあります」と率直な気持ちも明かした。

「台湾の複雑な歴史を扱っているので、海外の観客には理解しづらいところがあるかもしれません。けれど日本の観客は、昔から私の映画を好きでいてくださっていますし、非常に研究熱心で理解力もある。この映画をきっかけに、台湾の歴史をもっと知りたいと思ってもらえたらうれしいです」

『霧のごとく』
監督・脚本:チェン・ユーシュン/出演:ケイトリン・ファン、ウィル・オー、9m88、ツェン・ジンホア、リウ・グァンティン、ビビアン・ソン/2025年/台湾/134分/配給:JAIHO/Stranger/©  2025 Mandarin Vision Co,, Ltd. All Rights Reserved./5月8日(金)よりシネマート新宿、ヒューマントラストシネマ有楽町、Strangerほか全国順次公開

(稲垣 貴俊/週刊文春CINEMA オンライン オリジナル)