浅井長政を土壇場で裏切ったのになぜか大出世…豊臣秀吉の最側近→城下町の"神様"になった戦国武将の名前

■秀吉による宮部継潤の調略
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。第16回(4月26日放送)で登場し、一躍注目を集めたのが浅井の家臣である宮部継潤(ドンペイ)だ。調略にやってきた藤吉郎(池松壮亮)に対して、継潤は、藤吉郎の子を人質に差し出すならという条件を出してきた……。
演じているドンペイが、滋賀県大津市の比叡山高校出身ということも話題になって、なぜか注目を集めている継潤。ドラマとして注目を集めるのはこの一瞬だが、史実のこの男、これから先の人生が長い。
この藤吉郎による継潤の調略を『浅井三代記』では、次のように記している。
大意は、信長がその知略と交渉術を使って浅井方の雄略な家臣を次々と味方に引き入れるように命じたということ。「大名分の者共大分程味方に」とあるように、一人二人じゃなく次々と裏切って、こっちに味方させろというわけだ。城を直接攻めるのではなく、まずはその支えとなる周囲の城主(大名分の者共)を切り崩す。小谷城という「本丸」を孤立させるための、信長による長期的かつ戦略的な調略命令であった。
■調略しに来た側が、逆に人質を要求される
これは、かなりの大ミッションである。
なのに、信長の命令はけっこうアバウトである。「浅井方の有力な家臣たちを、次々と味方に引き入れよ」というざっくりとした指示のみ。
これを任されたのが藤吉郎だった。藤吉郎がまず目をつけたのが、継潤である。浅井方の中でも「大名分の者」、つまり一城を任されるほどの実力者。その筆頭格として継潤の名が挙がったという事実は、彼が浅井家中でいかに重きをなす存在であったかを物語っている。
だが、継潤は一筋縄ではいかない人物である。秀吉が交渉のテーブルにつくと、継潤は逆に条件を突きつけてきた。「お前の子を人質に差し出せ」というのだ。
調略しに来た側が、逆に人質を要求される。通常の主従関係や力学が通じない、互角以上の交渉である、藤吉郎はこの条件をのんだのだ。
しかし、藤吉郎には差し出せる実子がいなかった。苦肉の策として白羽の矢が立ったのが、姉・とも(日秀尼)の息子、万丸である。後の豊臣秀次だったとされている。
■浅井・朝倉の7000騎に城を囲まれたが…
人質とはいうが、万丸の扱いはよかった。近年、歴史学者・堀越祐一が天正9年(1581年)5月付の文書に署判された「宮部次兵衛尉吉継」を秀次に比定する説を唱えた(堀越祐一「第2部『太閤・関白体制』期における政治権力構造(文禄期における豊臣蔵入地―関白秀次蔵入地を中心に/秀次事件をめぐる諸問題)」『豊臣政権の権力構造』吉川弘文館、2016年)。
「吉継」という名は秀吉の「吉」と継潤の「継」から一字ずつ取ったものであり、万丸はそのまま継潤の養嗣子として元服し、天正9年の時点でもなお宮部家の一員として独自の家臣団を編成できる立場にあったというのだ。これは、時代考証を担当する歴史学者・黒田基樹の支持もあり、万丸は単なる「人質」ではなく、継潤の後継者として育てられていた……というのが、現在有力な見方である。ここからは、継潤が破格の扱いを受けていたことがわかる。
ともあれ、継潤が帰順したことで戦況が大きく変わったのは間違いない。なにしろ、宮部城は小谷城を包囲するための南側の最後の関門といえる要衝。ここから小谷城まで進軍を阻むものはない。
そのため、裏切りに気付いた浅井勢は全力で奪還に取りかかっている。
備前守長政義景と相談して被レ申けるは宮部世上坊か楯籠る宮部の要害は普請あらく敷して無勢なれは是を一責攻へしとて浅井長政侍大将には同姓七郎大野木土佐守朝倉義景侍大将には同姓式部大夫なり義景長政双方の勢七千余騎にて討て出ける(近藤瓶城編『史籍集覧』第6冊 近藤出版部、1919年)
抄訳:浅井長政は朝倉義景と相談して、次のように語った。「宮部継潤が立てこもっている宮部城は、まだ急造の普請(工事)も不十分で、兵数も少ない。今のうちに一気に攻め潰すべきだ」こうして、浅井方の侍大将には一族の大野木土佐守、朝倉方の侍大将には同じく一族の朝倉式部大輔を任じ、両軍合わせた七千余騎の大軍で討って出たのである。

■「信頼に値する男」秀吉の最側近から“神様”に
長政はめっちゃ焦っている。「一責攻へし」すなわち「今のうちなら」と言い出しているあたり「いや、どうにかしないと完全に終わる」とわかっていたのだろう。
信長にとってもこれは、対浅井・朝倉戦のターニングポイントであった。いくら比叡山を焼き討ちし、北近江の城を次々と落としても、宮部城を取らなければ堅城・小谷城の攻略は見通せない。攻めあぐねれば、足利義昭の御内書一枚で各地の大名が反信長に動き出しかねない状況だ。藤吉郎には「次々寝返らせろ」と威勢よく命じた信長だが、継潤の調略が成功したと聞いて、内心一番ホッとしたのは信長その人であっただろう。
ホッと胸をなで下ろす信長、本気でヤバイと落城が脳裏に浮かぶ浅井・朝倉……さまざまな思惑が交錯していたのは想像に難くない。
こうして見ると、継潤という男を「土壇場で浅井を裏切ったとんでもない野郎」と見るのは正しくない。この後に継潤は、秀吉に従軍、破格の待遇で遇せられ、最側近として但馬・因幡の統治を任されるに至っている。豊岡では民への負担を軽減したことで、今でも桜の名所として知られる御霊神社に神として祀られている。

単なる裏切り者であれば、さすがに神様にまではなることはできないだろう。つまり、継潤は成り行き上は裏切ったけれども、信頼に値する男だったというわけだろう。
■調略時点では城館、「城」ではなかった
そもそも継潤は、浅井家に代々仕えてきた譜代の忠臣ではない。近江の土豪の出身で、比叡山で僧となり、山を下りて宮部村に根を張った地域の実力者だ。浅井に仕えたのも、いわば地縁による成り行きに近い。
しかも「宮部城の調略」などと物々しく言っているが、実態はもっと素朴なものだった。なにしろ史料を見ると、調略の時点では宮部城はまだ「城」ですらなかったのだ。
信長は九月三日を以て直に工事を起さしめ、特に宮部城には、佐久間信盛を遣して之を修築せしめたり。……宮部城は善祥坊(継潤)の第館に過ぎざりしが、今や新に城濠を穿ち、五百川の水を引きて之に湛へ、以て要害を堅にせり。……信長は独り……宮部に至るまで新に軍道を開き、以て其出入往来に便ぜり(『東浅井郡志』2巻 日本資料刊行会、1975年)
抄訳:信長は九月三日から直ちに(虎御前山城の)工事を開始させ、特に宮部城には、重臣の佐久間信盛を派遣して修築にあたらせた。……もともと宮部城は、宮部継潤(善祥坊)の城館に過ぎないものであったが、今や新たに城の堀を深く掘り、五百川の水を引き入れて堀を満たし、防御を固めた要塞とした。……さらに信長は自ら(の指示で)、……宮部城に至るまでの新しい軍道(兵員輸送用の専用道路)を切り開き、兵の出入りや往来がスムーズにできるようにした。
つまり、調略した時点では城ですらなく単なる城館に毛が生えたようなもの。その後にようやく城らしくする工事が行われている。『東浅井郡志』には、この城の図面が掲載されているが完成図ですらシンプルな城。となると、それ以前は本当に土塁や柵、浅い堀がある程度だったのだろう。それですら確保しなければならない脅威になるあたり、この時代の戦がどういうものだったかを教えてくれる。
■継潤は“秀吉の本気”を見たはずだ
わかるだろうか。浅井にあったのは、根拠のない自信だ。「あの継潤というヤツ、比叡山で僧兵をやっていた。ああいう男は義理堅い。まさか裏切るまい。あそこでドーンと構えていてくれれば、織田も攻めあぐねるだろう」そんな計算をしていたのではないか。
だが継潤の思惑は、まったく別のところにあった。
「いや、確かに比叡山にはいましたよ。でもそれは昔の話で、いまの私は宮部村の土豪なんですが。村の衆の生活に責任があるんですが。浅井様への忠義より、目の前の民をどう食わせるかの方が大事なんですが……」

そこへ秀吉が交渉に来た。最初の交渉である。舐められてはいけない。継潤は強気の条件を出した。「お前の子を人質に差し出せ」と。
困った顔をして帰っていった秀吉が、しばらくして戻ってきた。子供を連れて。
「え、子供がいないから……甥っ子を連れてきた?」
継潤は、この男の本気を見たはずだ。そして、こいつについていけば間違いないと即断したのだろう。
■勝家と秀吉の救援に心を動かされたか
ここへ、先述の通り「貴様あ! 裏切ったな‼」と押し寄せてきたのが浅井・朝倉勢である。工事中の城館レベルのところに7000余騎で押し寄せているのだから、完全にキレている。二流の裏切り者なら、ここでまた裏切るところだが継潤は違う。『浅井三代記』は次のように記す。
世上坊も聞ゆる兵なれは走廻士卒の気をはけましける。され共猛勢にて責平押に押寄けれは、惣構矢庭に打破り、我先にとこみ入はかゝはり難く見えし所に……
抄訳:継潤もさすがの勇士、必死に走り回って皆を鼓舞したが、敵の勢いは凄まじい。あっという間に外郭を突破され、敵兵がなだれ込んできた。もはや絶体絶命……そう思われた
ついさっき裏切ったばかりだというのに、やたら本気で戦っている。それが幸いしたのか、すぐに援軍は駆けつけた。
柴田木下は近所なれは……西の方川毛村の方へ討ていて宮部を助来り、味方後へまはりけれは……柴田木下はおめきさけむて切てかゝる。
抄訳:近くの虎御前山にいた柴田勝家と木下秀吉が、西から回り込んで救援に駆けつけた! 敵の背後から「うおおおおお!」と雄叫びを上げて突撃したのである。
秀吉も勝家と共に、これは助けなきゃいけない‼ と駆けつけてくる。継潤にしてみれば「来てくれた‼ しかも、あの勝家も一緒だとォ‼」と、感激もひとしお。これは、一生ついて行くと決めたはずである。
■出世の理由は「まっすぐすぎたから」
なぜ秀吉は継潤をここまで引き立てたのか。
答えは単純だ。継潤が、まっすぐすぎたからである。
交渉では本気で条件を突きつけ、寝返った直後の絶体絶命の場面でも本気で戦い、援軍が来れば本気で感激する。損得で動く男なら、7000余騎に囲まれた時点でまた裏切っている。だが継潤はそうしなかった。策略も打算も関係ない。ただ目の前のことに全力で突っ込んでいく。
ある意味『週刊少年ジャンプ』の主人公的な真っ直ぐさがある。
だが、その無骨な真っ直ぐさが正しかった。秀吉という天下人は、計算高い人間を誰よりも知り尽くしていた男だ。だからこそ、この純粋な熱さを持つ男を、手放せなかったのではないか。「こいつはちゃんと報いてやらないとまずい」そう思わせた時点で、継潤の勝ちである。
ここまで書いてみると「お前の子供を人質に差し出せ」も、別に深い思慮より「よーし、最初は強気だな、強気、喧嘩と一緒だな」で口走っただけのようにも思える。
こうして、浅井の家臣から始まって、最も出世した男。その理由は、義理でも策略でもなく、青春ドラマの主人公みたいなまっすぐさだったのかもしれない。
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昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
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(ルポライター 昼間 たかし)
