『ザ・スーパーマリオギャラクシー・ムービー』の評価が真っ二つ 断絶が生まれた背景とは
2023年に記録的なヒットを収めた『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』の続編となる『ザ・スーパーマリオギャラクシー・ムービー』が公開された。本作も前作の熱狂的な支持を維持し、世界の興行収入はすでに1,000億円を突破。日本市場においても、例年圧倒的な集客を見込める『名探偵コナン』の劇場版を上回る成績を記録しており、現時点で今年の日本における洋画興収ナンバーワン作品となっている。
参考:3年おきにやってくるGWの名勝負? 『名探偵コナン』vs『スーパーマリオ』の再来
しかし、やはり前作に引き続いて話題となっているのは、記録的な数字とは裏腹に、作品の内容をめぐる評価が分断されている点だ。アメリカの大手批評集計サイトにおいては、プロの批評家による低い支持率と、一般観客による圧倒的な高スコアとの乖離が、本作では前作以上に顕著になっているといえる。観客がスクリーンに広がる銀河のスペクタクルや馴染み深いキャラクターの登場を歓迎している一方、多くの批評家は、本作の語り口や構成に対して冷ややかな視線を送っている。
そんな『ザ・スーパーマリオギャラクシー・ムービー』の評価において、なぜそれほどの断絶が生まれることになったのか。そして提示されている作品の質そのものが、果たしてそれらの評価に見合うものなのかについて、ここでは考えていきたい。
前作もまた、確かにストーリーの内容において希薄と思える部分はあった。かねてより批評家が疑義を呈していたのは、ある意味で当然かもしれない。だがその一方で、前作にはブルックリンに住むイタリア系の兄弟が、家族や社会からの冷ややかな視線に抗いながら、未知の世界で自信を獲得していくという明快な骨格が存在していた。それは期せずして、同じくブルックリンを舞台に、抑圧された日常からディスコという異世界へ逃避することでアイデンティティを見出そうとした『サタデー・ナイト・フィーバー』の主人公の姿とも重なるものだった。詳しくは、筆者の『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』評を読んでもらいたい。
このように、前作には物語の起点となる現実の痛みと、それを乗り越えようとするキャラクターの成長という、映画における人間ドラマが伝統的に描いてきたような、エモーションの柱が明確に存在したのである。しかし続編である本作においては、宇宙が舞台になったことが象徴するように、そうした地に足のついたドラマ性はさらに希薄になり、物語の重心が別のどこかへと移ってしまっていることは否めないだろう。
プロット自体は、極めて簡潔だといえる。前作で自分たちの居場所を見つけたマリオとルイージはヨッシーと出会い、ピーチ姫やキノピオとともに銀河を冒険するなかで、クッパJr.に連れ去られたロゼッタを救い出すべく奔走する。その背後では、クッパJr.と父クッパが再会を果たし、親子としての交流を深めるエピソードも並行して描かれる。
だが、せっかく登場したヨッシーが個々のシーンや作品全体のテーマに深く関与しているわけではないことが示しているように、各エピソードの間の有機的な繋がりは乏しい。結果として、物語は一つの大きな流れを作りづらくなり、単発の見せ場の羅列に終始している感が強い。また、劇中には「イースターエッグ」と呼ばれるゲーム由来の小ネタが過剰なまでに盛り込まれており、観客の意識を物語の外側にある体験へと誘導し続けている。そちらが主目的となってしまっている点は、作品が持つべき、作品本体の普遍的な魅力を損なわせている要因といえるだろう。
本作が宇宙空間へと舞台を移したことで、上下左右の概念から解放された、映像的な自由が作品に与えられたことは、確かに本作独自の趣向といえる。その象徴ともいえるのが、任天堂のゲームシリーズの一つである『スターフォックス』のキャラクターの登場と活躍だ。筆者自身、家庭用ゲーム機にポリゴンによる3Dグラフィックスが導入された時代の衝撃をリアルタイムで経験しており、このサプライズがもたらすカタルシスは理解できる。それが『スーパーマリオギャラクシー』という原作ゲームが持つインパクトと重ね合わされている点も、演出としての機能を果たしているといえよう。
しかし、その一方で懸念されるのは、こうした演出が、特定のキャラクターや作品の背景を知る者にのみ開かれたものにとどまっている点だ。本作にちりばめられた無数のイースターエッグは、対象への思い入れがない観客にとっては、「ファン向けの何かが起きているのだろう」という思いしか抱けないのではないか。問題は、終盤のクッパの姿が代表するように、イースターエッグそのものが作品の展開自体にもかかわってしまっていることだ。かつてのハリウッドにおけるゲーム原作映画は、映画的な整合性を優先するあまり原作を改変しすぎるという課題を抱えていたが、本作ではそれが逆転し、ゲームが“主”、映画が“従”となっているようにも映る。
こうした傾向は、これも大ヒットしたゲーム原作映画『マインクラフト/ザ・ムービー』(2025年)において、ゲーム内の隠し要素であった「チキンジョッキー」のシーンが爆発的なネットミームとなった事実からも確認できる。劇場を話題の共有の場として活用したり、自身のSNSへの投稿に役立てたり、イベント的な一体感を享受していく。それは確かに新しい世代による作品の楽しみ方の一つのかたちではある。だが本来ネットミームとは、既存の表現のなかに、作り手が予期していない面白さをユーザーが発見し、自発的に拡散させていくようなものではなかっただろうか。作り手があらかじめお膳立てした、いわば「官製ミーム」とも呼べるようなものを、観客がそのまま享受するだけの構図は、文化としての先細りを、いまから予感させるところがある。
作り手によって用意されたものをそのまま受け取り、盛り上がる。その流れは、辛辣な表現をするならば、条件反射的にベルの音に反応する「パブロフの犬」にも似ているかもしれない。果たしてこうした作品づくりの潮流は、新しい世代にとって真の意味で豊かな体験となり得るのだろうか。もちろん、そうした映画があってもいいだろう。だが、映画という体験が他媒体の従属的な位置に置かれるような作品が今後増えていくのだとするならば、それはビジネス的な成功とは別に、映画文化における本質的な部分の衰退を招くことになるかもしれない。少なくとも、本作に批評家が批判的な目を向けること自体は、奇異でも何でもない。
批評家が厳しい言葉を投げかける本作が興行的成功を成し遂げていることを理由に、“批評家不要論”ともいえる言説が飛び交っているのも、前作公開時と同じ現象だ。しかし本来、批評家の文化的な役割とは、大衆の動向を予測したり興行の成功を予想することではない。その作品がどのようなものを語り、どのように作品としての普遍的価値を持っているのか、芸術にかかわるどのような奥行きが存在するのか、そして何が欠落しているのかを指摘し、作品や現状を問い直すことにある。むしろ、ビジネス的な規模の大小を問わず、そこに潜む価値を掘り起こし言語化することが、批評の存在意義なのではないか。
もちろん、批評家の見解が常に正解であるとは限らない。ときに的外れな評価を下すこともあるだろう。しかし、映画というものが人生や社会を変える力を持つことを知り、さらにそれを語る言説に影響を与えられてきた一人としては、批評というものが、作品の持つ性質を深く考えるためのきっかけや対話を促し、作品を消費の対象として終わらせない意志を宿していることは、理解してもらいたいところである。
(文=小野寺系(k.onodera))
