【逆説の日本史】「李晋急死事件」はどうして「毒殺」の可能性が高いのか
ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。今回は近現代編第十六話「大日本帝国の理想と苦悩」、「大正デモクラシーの確立と展開 最終回」をお届けする(第1485回)。
* * *
なぜ「生後八か月の乳児を死に至らしめるなら毒など使う必要はない」のか?
それは、離乳食を始めたばかりのころの乳児は、消化不良を起こしやすいからだそうだ。このことを教えてくれた臨床医は、「井沢さんは子供を育てた経験は無いんでしたね。だったら、経験者にお聞きになったらいかがですか」と言ってくれた。歴史学者にはちゃんと取材しろと「説教」しながら、言われてみて初めてそういう手があったかと気がついた次第だ(情けない!)。そこで、一年前に子供を産んだというある母親に「取材」した。李晋は生後八か月でこの世を去ったのだが、彼女の弁によればこの時期は母乳から離乳食への切り替え時期で、赤ん坊に与える食物には細心の注意を払わなければいけないのだそうだ。見せてくれた保育書には、この時期に乳児に絶対に与えてはいけない食品のリストが載っていた。そのなかにはハチミツもあった。私はこのことを知らなかった。むしろ、液体だから消化にも良いし滋養もあるし、離乳食としては最適ではないかとすら思っていた。
では、なぜダメなのかというと、乳児はまだ胃で体に悪い細菌を殺す力が無く、ハチミツ中のボツリヌス菌が腸まで届いて繁殖してしまうからだという。こうした理屈(薬理)は当時まだ知られていなかったかもしれないが、以前にも述べたように漢方は膨大な「人体実験」で薬効をたしかめてきた体系であり、ハチミツ自体は古代からある食品だから「乳児に与えてはダメ」ということは、朝鮮宮廷の人々も知っていただろう。また、牛乳も母乳の代わりにはならないという事実も当然彼らは知っていたはずだし、日本人よりも肉食の機会が多い彼らなら、牛乳よりも脂肪分が多く消化不良を起こしやすい動物の乳についても日本人より深い知識があったに違いない。しかも、相手が乳児ならば隙を見て与えることもできる。なにかの乳ならば乳児は喜んで摂取するだろうし、言葉はまだしゃべれないから「変なものを飲まされた」と叫びを上げることもない。たしかに、ハチミツや脂肪分の多いヒツジの乳も成人にとってはなんの影響も無いが、生後八か月の乳児にとっては非常にリスクが高いのである。
だからこの「李晋急死事件」は「毒殺」である。少なくともその可能性が非常に高いと私は考える。これは前回述べた「孝明天皇バイオテロ暗殺説」を展開したとき、つまりいまから十年以上前に述べたことだが、たとえばテロリストがバラまいた炭疽菌に感染し死亡した人がいるとする。その死者を死体検案した法医学者は、検案書の死亡原因の欄に当然「炭疽菌感染によって死亡」と書くだろう。それが医師にとっての真実だからだ。だが、それは社会的観点で見れば「テロリストによる殺人」である。それが最終的に年表に載せられて歴史的事実となる。このときもしも、「いや、医師が病死だと書いているのだから、病死でしょう」と叫ぶ人間がいたら、あなたはなんと思うか?「人間界の常識というものがわかってない人だなあ」と思うのではないか。
しかし、そういうことを主張しているのが歴史学界の先生方なのである。「孝明天皇の死は医師が天然痘による死だと確認した。だから病死だ」とか、「李晋の死は医師が消化不良による死だと診断書を書いた。だから毒殺では無い」などという言い方である。たしかに、例に挙げた「テロリストによる殺人」とは違って、確たる証拠は無い。だが状況から言えば、「犯人側」にはこれ以上無いほどの強い動機があった。孝明天皇については前回述べたし、李晋についてはやはり「神聖なる朝鮮王朝の血統に野蛮な日本人の血が混じってしまった。絶対にこの事実は認められない」というのが最大の動機だっただろう。そういう昔の人の「感覚」をまったく忘れてしまうのが、日本歴史学界の悪い癖だ。歴史学者は「史料」を絶対視し、何度も読み込むべきだと主張する。私はなにがなんでも史料が正しいという史料絶対主義者では無いが、軽視しているわけでは無い。ただ、史料のなかの「事件」にとらわれ過ぎて「感覚」を軽視するのはもったいないと思っている。
まさに、この「李晋毒殺事件」の動機だと私が確信する「正統な血統の維持」について、この問題を研究する歴史学界は、それがいわゆる王侯貴族にとってどれほど重大なものか、感覚としてわかっていない。わかっていれば、まるで両論併記のように「自称婚約者による犯行」などを考えられる動機の一つとして持ち出すはずが無いのである。
と言っても多くの読者もその感覚はわからないだろうから、ここにそれが実感できる絶好の史料を提示しよう。それは、ほかならぬ李晋の母・方子の実母梨本宮伊都子の日記であり、これを書籍化した『梨本宮伊都子妃の日記 皇族妃の見た明治・大正・昭和』(小学館刊)である。この本はすでに紹介済みだが、この本の価値を語るときに私が次のように述べたことを覚えておいでだろうか?
「旧皇族の人々が残した史料は少なく、とくに公刊されたものは世論に忖度して内容が正確で無いものも少なくない。ところが、『梨本宮伊都子妃の日記』だけは違う。なぜなら、これは本来個人の日記であり、公刊される予定はまったく無かったからだ。それを歴史学者の小田部雄次静岡福祉大学名誉教授が遺族を説得し、公刊にこぎつけた」
だから価値が高い。と言っても、具体的にはどんなことを指しているか多くの歴史学者も含めて見当がつかないのではないだろうか。
貴族、お公家さん、京都人
まず、日本の天皇家を弱体化させようとGHQが梨本宮家など多くの宮家を臣籍降下させたため、ただの「梨本さん」になった後に彼女が公刊を許した『三代の天皇と私』(梨本伊都子著 講談社刊)の一節をご紹介しよう。一九五九年(昭和34)、当時の皇太子(現・上皇)と民間人の女性(現・上皇后)が結婚した、いわゆる「皇太子御成婚」についての記述である。
〈この年四月十日、皇太子殿下には正田美智子様と賢所大前にて結婚の式を挙行し、ご披露宴に招かれました。私もとうとう三代の皇太子さんのお祝いに出席することができ、本当に嬉しい思いをいたしました。その翌年、浩宮さんがお誕生あそばされ、次々に礼宮さん、紀宮さんとお生まれになり、皇室の繁栄を目のあたりに拝し、長生きするのもまた楽しいものだと思うのでした。〉
この文章をさらっと読み流さず、再度じっくり読んでいただきたい。そしてこの文章に対する感想を確定してから、次の引用文を読んでいただきたい。今度は同じ出来事についてご本人の日記からの「感想」である。
〈右は結婚に付あまりにもかけはなれたる御縁組、
おどろかされて心もおさまらず
思ひきや 広野の花を つみとりて 竹のそのふに うつしかゑんと
あまりにも かけはなれたる はなしなり 吾日の本も 光りおちけり
つくりごと どこまでゆくか しらねども 心よからぬ 思ひなりけり
心から ことほぎのぶる こともなし あまりの事に 言の葉もなし
国民が こぞりていはふ はづなるに みせものごとき さわぎ多かる〉
(『梨本宮伊都子妃の日記 皇族妃の見た明治・大正・昭和』〈小田部雄次著 小学館刊〉)
あえて訳すまでも無いかもしれないが、少しわかりにくいところもあるので、この文章に続く著者の解釈も引用する。
〈はじめの歌は、「民間の娘を宮廷に輿入れさせるなどと、だれが思ったろう」という意味であろう。二首目は、「身分の差がありすぎる結婚をするとは、我が日本の威光も地に落ちた」とよめる。三首目は、「政略的なことをどこまでやるかわからないが、いい気持ちはしない」となろう。四首目は、「心から祝辞を述べることもない。あまり身分差がある結婚に言葉もでない」と解釈できる。最後の歌は、「本来なら国民が皆で祝うはずの結婚なのに、見世物のように騒ぎすぎる」と、ミッチーブームを批判しているのであろう。〉(引用前掲書)
ちなみに、ミッチーブームとは、Google AIによれば「1958年〜1959年にかけて皇太子(現・上皇さま)と民間出身の正田美智子さん(現・上皇后さま)の婚約・結婚をきっかけに起きた大衆的な熱狂現象です。初の民間出身の皇太子妃として、美智子さんのファッションや行動が『ミッチースタイル』として大流行し、テレビ普及を後押しした社会現象です」ということなのだが、元は皇族だった梨本宮伊都子妃(この時点では梨本伊都子)にとって、この御成婚はじつに苦々しいものだったのである。もちろん、そう思っていたのは彼女だけでは無い。皇太子明仁親王の実母香淳皇后もこの結婚に反対だったことは、よく知られている。それでも結婚できたのは、昭和天皇が反対しなかったからだ。これは大英断と言うべきであろう。結果的に、この結婚によって皇室と民間の距離が縮まった。この件については、昭和天皇は具体的にはどのような態度とお言葉でそれを認めたのか、ぜひ現上皇に回顧していただきたいと私は常々願っている。昭和史の要所のひとつであるからだ。
さて、ここでもう一度、同じ人間(梨本伊都子)が書いた著書と日記の内容を比較していただきたい。先に述べた「旧皇族の人々が残した史料は少なく、とくに公刊されたものは世論に忖度して内容が正確で無いものも少なくない」ということが具体的にはどういうことなのか、いまこそ納得していただけたのではないか。貴族とか「お公家さん」は、本音と建前がまったく違うこともある。プライドとか礼儀とか世間に対する忖度などがあって、本音をストレートに言わないことが多い。日本の場合はこれに「京都人」という感覚が加わるので、さらに面倒になる。
京都人がいちばん嫌う人間のタイプをご存じだろうか。いまは少し変わったかもしれないが、それは「竹を割ったようなさっぱりした性格の人」なのである。裏も表も無いからだ。このあたりのことは、じつは二十年近く前に『逆説の日本史 第十巻 戦国覇王編』で、織田信長の京都における活動について述べた際に詳しく説明しておいたので、興味のある方はご覧いただきたい。当時は、織田信長と天皇や公家の関係が良好であったとする歴史学者が多かった。その理由はおわかりだろう。今回の例で言えば、本人の日記では無く公に発表された(つまり忖度がある)記録に、信長も公家も「本当に嬉しい思いをいたしました」などと書いてあるからだ。それを真に受けて「信長と朝廷の関係は良好だった」とする人々が多かったので、「公家の本音は違うかもしれませんよ」と警告したわけだ。ちなみに、じゃあ日記なら本音がわかるかと言うと、公家のなかには「この日記はいずれ人目に触れるかもしれないな」という前提で建前を書いているものもあるから油断ならない。だからこそ、本人はまったく公開する気が無かった『梨本宮伊都子妃の日記』は、きわめて貴重で価値の高い史料なのである。
さて、なぜこの史料の話になったのか忘れてもらっては困るので、本題に戻ろう。世界中どこでも貴族の「王家の血統の純粋さを守らなければならない」という思いは、きわめて強いということだ。言うまでも無いことだが、明仁皇太子は外国人と結婚しようとしたわけでは無い。それでも「平民との結婚なんて!」ということで、これだけの抵抗があった。
ところが、李王家嫡流の李垠の結婚相手は「外国人」だったのだ。日本人の感覚としては、ストレートに書けば「皇族である梨本宮方子女王との間に男子が生まれたことで、天皇家の血が李王家に入った。ありがたく思え」であったろうし、朝鮮宮廷から見れば「高貴な王家の血統が外国人によってケガされた」であったろう。日韓併合後の話だから、建前としては「日本人同士の結婚」になるのだが、朱子学社会である朝鮮は日本人を野蛮人として見る感覚がまだ消えていない。この点では、日本人も事態を甘く見ていたと言えるだろう。李晋が生まれたことによって日本と朝鮮のつながりは確固たるものになった、と考えたのである。
結局この事件の結果、日本人は朝鮮人、いや朝鮮系日本人というのが正確だが、彼らに対する警戒を深めた。隙あらば日本人を毒殺しようと考える信用のできない連中、というイメージである。
〈「大正デモクラシーの確立と展開」編・完〉
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『真・日本の歴史』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2026年4月10日号
