英語版だけで80万部超!絶望8年を経て世界へ…日本の「地味な日常」を描いた小説が海外でウケる理由

写真拡大 (全3枚)

日本のコンテンツ輸出といえばアニメやマンガが定石だ。だが今、小説が静かに世界を席巻しつつある。柚木麻子『BUTTER』の英訳版が英国でベストセラーとなり日本文学ブームを牽引する一方、もうひとつ別の波として欧米の書店を席巻しているのが「Iyashi-kei(癒やし系)」と呼ばれる日本小説だ。

’26年2月18日に発売された『ペンション・ワケアッテ』(八木沢里志・著、ポプラ社)は発売前に世界7ヵ国・8言語での翻訳出版が決定。同著者の前作『森崎書店の日々』(小学館)は、現在40ヵ国・50言語で翻訳が進み、英語版累計部数は80万部超、インドだけで20万部(紙)が売れている。’24年にはブリティッシュ・ブックアワード「デビュー・フィクション部門」のショートリストにも選出された。社会派の『BUTTER』が欧米の読者を惹きつけたのに対し、八木沢作品が響かせるのは日常の静けさと「居場所」の温もりだ。なぜ今、「日本の地味な日常」が国境を越えて人々の心を掴んでいるのか。八木沢里志氏に聞いた。

台湾から世界へ! 驚愕のオファー

森崎書店の日々』が世界を席巻した経緯には、ひとりの台湾人女性の存在がある。出版から12〜13年が経ち、日本国内でもさほど読まれていなかった頃、台湾版を読んで惚れ込んだ海外エージェントが「この本を世界に売りたい」と動き出した。そこからトントン拍子に翻訳オファーが集まり始めた。

「最初にオファーが来た時、20ヵ国ぐらい一気にバーっと来たんですよ。契約書は山盛りで送られてきて、なんだこれって感じで(笑)。

その中にアメリカのハーパーコリンズがありまして。出版元の当時の編集長が『アメリカで5大出版社と言われるくらいすごいところからなんて、日本でそうそうないことですよ』と言ってくれて、初めてとんでもないことが起きてるんだなと自覚した感じです」

八木沢氏作品の英語版の翻訳はエリック・オザワ氏が一貫して手がけている。翻訳で唯一、困難が生じたのが、主人公の貴子とおばさんが温泉で裸の付き合いをするシーン。「向こうでは普通しないことなので、どういう状況? と思ったらしくて。翻訳者が後書きで日本の温泉・銭湯文化を説明してくれたと聞きました」。それでも海外読者の感想は日本の読者と驚くほど重なる。〈シンプルで文章が美しくて読みやすくてリズムがいい〉――同じ言葉が言語の壁を超えて届いていた。なかでも英語版が最も売れており、インドだけで20万部(紙)に達している。読んだ読者が実際に神保町を訪れるケースも増え、「海外からわざわざ来てくれるのは、本当に嬉しいです」と目を細める。

海外読者が絶賛「読む瞑想」とは

もちろん日本と海外で読み方が異なる部分もある。

例えば日本では、インスタグラムなどの感想に〈ほっこりした〉〈料理が美味しそうだった〉など読後に感じたことを、短い文章でつづることが多く見受けられる。しかし、八木沢氏によると、欧州の読者は3〜4日かけて本を自分の中で転がし、しっかりと咀嚼してから長文をつづるのだという。

「欧米の方からよく言われるのが、“読む瞑想みたい”という言葉です。この言葉は、日本の方の感想では見たことがなかったので驚きました。読んでいる間は自分の内面と向き合うきっかけをもらえた、とまで言ってくれる方がいる。読んで『面白かった』で終わるのではなく、そこまで自分で肚に落としてから読書が終わりだと思ってくださっているのかなと感じます」

一方、映画などの印象から情熱的でエネルギッシュなイメージのあるインドでは、どう読まれているのかと問うと……。

「インドの20〜30代の若い世代には、そうしたエネルギーの強さに生きづらさを感じている方もいるようで、『繊細な自分ってどうなんだろうと思っていたけど、私もこのままでいいんだと思えた』という感想が届いています。

考えてみれば、内向型やHSPと呼ばれる繊細な気質を持つ人は、どの国でも5人に1人いるとされますから、みんながみんな元気でエネルギッシュなわけではないですよね」

また、海外で評価が高く、人気のある日本文学というと、村上春樹のイメージもあるが、その違いを聞くと、「村上春樹さんは文学作品として愛されているけど、僕の作品は物語として愛してくれているようです。それが僕にとっては嬉しい。普段本を読まない人が読んでくれる“場所”でありたいので」と答えた。

癒やし系ブームが終わったとしても…

「ヒーリング小説」というジャンル名は、八木沢氏自身が『森崎書店の日々』の帯に初めて使った言葉だという。「ヒーリングミュージックと聞けば、疲れた夜に聴くものだって分かるじゃないですか。それと同じで、今必要な人に届きやすくなるかなと。ミスマッチを減らしたかった」。海外では「Healing Fiction」としてすでに広く使われていたが、日本での普及はこの本が契機になったという。

だが、ブームだから書くという姿勢は明確に否定する。

「癒やし系が流行っているからトレンドとして描くというより、少なくとも僕に関しては自分が何を書けるか、書きたいかが一番大事で、書いたものが結果的に癒やし系にカテゴライズされているだけ。ブームが数年後に終わっても、同じものを書き続けるだろうと思います。それしか書けないから」

作風を料理の比喩で語る。「人間の普遍的な感情を素材として大事に扱い、味付けとしてペンションや面白い人物をあしらう。ほっこり系はイケメンの料理人などの登場人物や美味しそうな料理が素材になることが多いけど、僕はそこが逆なんです。だから入り口は軽いけど、読んでいくと深いと言ってもらえるのかな」

「読者を救おうという気持ちはそんなに持っていない。登場人物たちをその傷から癒やしたいという気持ちがまず初めにあるんです。書いているうちに、自分でも気が付いたのですが、それは過去の自分だったり、自分のままならない気持ちを癒やしてあげたいということなのだと思います。読者の方はそれを追体験して、勝手に癒やされてくれているという感じです」

編集者の暴言…筆を折った8年間

今や世界的な評価を受ける作家の道のりは、決して平坦ではなかった。’24年3月にXへ投稿したデビュー当初の屈辱体験はSNS上で大きな反響を呼んだ。八木沢氏はそれを「けじめ」と呼ぶ。

「デビューした時の編集者から『この程度の作品、誰でも書ける。これくらいでデビューしたくらいで調子に乗らないことだ』というような、作品だけでなく人格まで否定されるような言葉や見下すような言葉を、顔を合わすたびに言われ続けて。自信を完全に削がれてしまったんです。デビュー当時の若造だったから、自分の作品の良さも分かっていなかったような状況でそれを言われ続けて、本当に自信をなくしてしまいました」

数年後、パソコンに向かうたびに動悸が出てトイレに駆け込むようになった。薬を服用しながら、約8年にわたって小説をほぼ書けない日々。妻が外で働く間、八木沢氏は心理学や哲学書を読み漁り、毎日2時間の散歩で言葉を咀嚼した。

「しんどい反面、すごく生き生きもしていました。自分の心を知っていく過程だったから。毎日散歩しながら読んだ言葉を『あの言葉ってどういう意味だろう』と考えながら歩いて――非常に贅沢な時間でした。それが今の作品全部に入っているような気がします」

回復してきた頃、ブリティッシュ・ブックアワードへのノミネートの知らせが届いた。

「当時の編集者から作品をけなされて、自信をなくしてしまったけれど、同じ作品が、今海外でこれだけ評価されている。そしてこの8年間で、自分の心も回復したことで、自分の中に確固たる自信が生まれました。だから、これから新たな作品を執筆するためにも、これまでの出来事を自分の中でいったん言語化して整理したいと思いました。

そのけじめとして書いたつもりだったから、こんなに大きな反響が来るとは正直思わなかったです」。ブリティッシュ・ブックアワードの授賞式には結局出席しなかった。「海外で自分の本が並んでいるのをまだ1回も見たことがなかったし、さすがに気後れしてしまって……。今考えると人生で1回くらい乗っても良かったかもしれない、もったいなかったですね(笑)」。作品の登場人物たちと同じように、世界的な評価の場で尻込みしてしまう――その等身大ぶりが、物語の誠実さと重なって見える。

過酷な過去と「居場所」への思い

森崎書店の日々』も『ペンション・ワケアッテ』も、「居場所」が通底テーマだ。作中でオーナーの楓が「ここは安全基地であってほしい」と語るのは、八木沢氏自身の言葉でもある。

「子どもの頃、機能不全の家庭に育ちまして。家も緊張して危険な場所という感じがあったので、小学校の高学年ぐらいから『安心できて自分でいられる場所』みたいなのをずっと求めていたんです。それがずっと長いこと心の中にあって、作品のテーマになっているのかなと思います」

「居場所」を初めて実感できたのはメンタルを壊してからだという。「妻がいて、猫がいて、家に帰れば美味しいご飯がある。それだけで十分幸せだなと思えるようになって」。作家として世界的に評価されても生きづらさは変わらない、とも明言する。「自尊心って人から褒められて得られるものより、自分で『このままでいいんだ』と思えることが一番大事だと思うから。外の評価はあんまり関係なくて、日々の実感と日々向き合うことですね」。日大芸術学部の放送学科を経て、一度も会社に勤めずに30歳手前でデビューした八木沢氏らしい言葉だ。

文化庁も注目! 次作の舞台は銭湯

畳、喫茶店、古書店、銭湯――「日本のレトロな日常」が海外で求められる現象を、八木沢氏はこう見る。

「元々僕はそういうスポットが本当に好きなんですよ。それが今の海外の方の好みと、勝手にマッチングしてしまっている(笑)。古書店の写真ってなんか分からないけど味があって落ち着くし、そこに人の営みを感じる。銭湯の写真も人がいなくてもそこに温かさを感じるんです。海外の方がそれらの場所を無意識に求めているのは、皆さんちょっとお疲れなのかな、と思います」

コロナ禍以前、スローライフやマインドフルネスは「これらの作品を執筆した時はコロナ禍以前で、『スローライフ』や『マインドフルネス』というような考えは、むしろ鼻で笑われちゃうくらいの頃だった」と振り返る。海外の人から、「作品からスローライフやマインドフルネスの精神を感じる」と言われることも多く、その感想に対して、八木沢氏は、

「海外の方が勝手に言語化してくれて、そっか僕が書いていたのは人間の普遍的な感情が癒やされる過程だったのかと、海外の評価を聞いて初めて理解できたところがあります」

文化庁も今年からアニメ・マンガに加えて小説を含む日本のコンテンツの海外輸出を本格的に推進し始めた。八木沢氏は今月のロンドン・ブックフェアに文化庁からの依頼で参加したほか、5月にはアルゼンチンのブエノスアイレス、9月にはシンガポール・マレーシア、来年にはアイスランドと招待が相次ぐ。次回作は銭湯が舞台。書けなかった8年間にも頭の中では物語が生まれ続けており、「あと5年はネタに困らないくらいのストックがある」という。

「食に例えるなら、今まで僕は和食ばっかり作ってたけど、今後は素材は変えず、洋食の味付けで試してみようみたいな実験も、海外の読者へのサービスとしてできるかな、と」

狙わずに書いたものが、気づけば世界を動かしていた。居場所を求め続けた人間が書く物語は、居場所を求める誰かに届く。ブームはあくまで、そうした無数の共鳴が積み重なった結果なのかもしれない。

▼八木沢里志(やぎさわ・さとし) 小説家。日本大学芸術学部放送学科卒。30歳前後に『森崎書店の日々』(小学館)でデビュー。現在40ヵ国・50言語で翻訳が進み、英語版累計は80万部超。’24年、ブリティッシュ・ブックアワード「デビュー・フィクション部門」ショートリスト選出。’26年2月、10年ぶりの完全新作『ペンション・ワケアッテ』(ポプラ社)を刊行。

取材・文:田幸和歌子

ライター。1973年生まれ。出版社、広告制作会社勤務を経てフリーランスのライターに。週刊誌・月刊誌等で俳優などのインタビューを手掛けるほか、ドラマに関するコラムを様々な媒体で執筆中。主な著書に、『大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた』(太田出版)など。