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太平洋戦争末期、フィリピンの山中で米軍から逃れる途中、両親と弟を失った日高軈子(ふさこ)さん90歳。今でも鮮明に残る記憶を若い世代に伝えるため、平和の語り部として活動を続けています。

【写真を見る】「ヘビ、ミミズなんでも食べた」両親、弟と死別…密林を彷徨った9歳少女の記憶 フィリピン戦場の壮絶な体験語る

マニラでの平和な日々

大分県中津市に住む日高さんは1935年、フィリピンのマニラで生まれました。太平洋戦争が始まる中、父・繁治さんは現地の商業会議所で書記長を務め、母の褚子(よりこ)さんは従軍看護婦として働いていました。

「父も母もいて、弟が2人いました。ちょっと街から離れたところにおったけど、お手伝いさんでフィリピンの女性1人と、運転手は日本人の男性が1人おった。スクールバスが迎えに来て、マニラ日本人国民学校に行っていました」

家族とは仲良く過ごし、特に父親への思いは強かったといいます。

「父のことはいつも自慢してました。柔道しよったから。優しい、大好き。もう普通はお母さんが好きやけど、私はお父さんが好きや」

一家は穏やかな日々を過ごしていて、日高さんは当時、タガログ語や英語を使っていました。

戦況悪化とジャングルへの逃避行

しかし1944年、アメリカ軍によるフィリピン奪回作戦が始まり、平和な日常は一変します。このとき、日高さんは9歳でした。

「家も何も全部ほったらかして着の身着のまま、家族でトラックに乗りました。昼間は歩いてるとアメリカ兵に見つかるちゅうんで、昼間は隠れて、夜になって歩いた」

旧日本軍など約3000人の集団で密林を逃げる中、栄養失調や病気で亡くなる人が増えていきました。

「山に入って、草とか木の芽とか食べとった。ヘビやミミズ…毒がないものはなんでも食べた。かぼちゃのツルとか、父がちぎって食べさせてくれたのは覚えてる」

両親と弟たちとの別れ

厳しい逃避行の中で、両親は体力を失っていきました。

「お母さんが倒れて、もう歩けなくなって寝たままになって。それからも毎日毎日歩いていたんよ。だけど歩かんでお父さんが座ったんよ。お父さんも疲れたなちゅう思いよったら、そのままベタっと寝たの。だから『兵隊さん、誰か来て』って言ったら、兵隊さんが来てくれた。助けてくれたけど、もう父はそのまま亡くなった」

「倒れた人はそのまま…兵隊さんもそのまま。だけど草をかけて、木の枝を折って立て、被せてやった」

残されたのは日高さんと幼い弟2人。3人で密林を逃げる中、下の弟が崖から転落。そして上の弟は、増水した川に流され亡くなります。

助けてくれた従軍看護婦

両親と弟を失い、一人となった日高さんを救ったのは、従軍看護婦でした。

「従軍看護婦の當間さんっていう人が助けてくれて、菜っ葉やら草の芽やらを食べさせてくれた。亡くなった兵隊さんの鉄兜が鍋の代わりになって、それで耐えた」

そして日高さんは、なんとか生き延びて終戦を迎え、日本に帰国しました。

「飛行機の中で天皇陛下の玉音放送を聞いた。日本は負けたっち。鹿児島におじさんが迎えに来てくれて、おにぎりを作ってね、もうそん時が一番おいしかった」

戦争体験を語る決意

日高さんは長い間、戦争の記憶を語ることはありませんでした。しかし戦争体験者が少なくなる中、30年ほど前から自身の体験を語り始め、各地で平和講演を定期的に行っています。

この日は、中津市立小楠小学校で当時の記憶を語りました。

(児童)「お父さん、お母さんが栄養失調などで倒れ…すごく心に残りました」「戦争はやったらいけないし、人の命を奪ってしまうから、やめたほうがいいということを、戦争を体験していない人たちに話していきたいです」

日高軈子さん:
「こういうことは、そうそうあることじゃない。後の人にも伝えなきゃいけない。『戦争は人と人の殺し合いだ』と本当にそうです。全然無駄なことです」

日高さんは自身の壮絶な体験を若い世代に伝えようと、静かに、そして確かな声で語り続けています。