実際には不仲だった!徳川家康と瀬名姫の意外な夫婦仲と悲運な結末【どうする家康】

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『どうする家康』では、築山殿こと瀬名姫(演:有村架純さん)と徳川家康(演:松本潤さん)の仲睦まじい様子が劇中で見られるかと思います。しかし、実際には2人の仲が良くなかったことはご存知だったでしょうか?

今回は、瀬名姫の生い立ちを辿りながら、2人の仲が良くなかった理由とそれによって起こった瀬名姫の悲運な結末を紹介します。

今川義元の姪で桶狭間の戦いを機に別居

今川義元/Wikipediaより

瀬名姫は、母親が今川義元の妹だったことから義元とは叔父と姪の関係に当たります。生まれた年は定かではありませんが、家康よりも2歳上か同年齢だったと言われています。

そして、弘治3年(1557)に今川家の人質だった家康と結婚。永禄2年(1559)に松平信康を、永禄3年(1560)には亀姫を産み、子宝に恵まれました。

しかし、桶狭間の戦いで織田信長に今川義元が敗れると、家康は瀬名姫と子どもたちを駿府に置いて居城の岡崎へ帰ります。この理由には、家康が脱人質を図ったとも、弔い合戦をしようとしない今川氏真を見限ったともいわれています。

今川氏真/Wikipediaより

岡崎に戻った後は瀬名姫たちの返還を要求し、人質にとった鵜殿長照の子たち(氏長と氏次)との交換を条件に瀬名姫たちは家康のもとに戻りました。

その際、徳川に通じていたとして瀬名姫の両親は自害。そして、家康が今川家と縁を切ったことや織田信長と同名を結んだこと、さらには長い別居生活が災いし、2人の関係は冷めきっていました。

築山殿の由来

於大の方/Wikipediaより

岡崎へ戻った瀬名姫は、家康と共に岡崎城で住んだのではなく、岡崎城近くの屋敷に住まわされました。屋敷のあった地名が築山であったことから瀬名姫は築山殿と呼ばれるようになります。

瀬名姫は築山で半ば幽閉のような生活を強いられていくのですが、このようになった背景には家康の母である於大の方が絡んでいたという説があります。それは自身の子を人質にした今川家を憎んでおり、今川の血を引く瀬名姫を疎んでいたということでした。

ここまでくると夫婦仲は修復不可能なところまで来ていることがわかりますね。ちなみに、『どうする家康』に置き換えると、7話「わしの家」の時点で瀬名姫と別居していることになります。

信康を心配したが故に起きた嫁姑問題

松平信康/Wikipediaより

永禄10年(1567)、瀬名姫と家康の子である松平信康が9歳で結婚。相手は織田信長の長女で同じく9歳の徳姫でした。そして、家康が浜松城への移動に際し、瀬名姫は信康が城主となった岡崎城へ移動しました。

信康と徳姫との仲は良好で、天正4年(1576)には登久姫を、天正5年(1577)には熊姫と2人の女の子に恵まれます。しかし、男児が生まれないことを指摘した瀬名姫は元武田家臣で現徳川家臣の娘を信康の側室に迎え入れました。

織田信長/Wikipediaより

これをきっかけに徳姫は瀬名姫と信康と不仲になっていきます。そして、天正7年(1579)に、徳姫は父の信長に12か条の訴状を送りました。

内容は瀬名姫が武田家と内通していることや徳姫に関する悪口を信康に言ったことや徳姫と信康が不仲だったことなど。この告発によって瀬名姫と信康の命が危うくなってしまいました。

徳川家臣に暗殺される

酒井忠次/Wikipediaより

信長は12か条の訴状の真偽を問うため、家康の重臣・酒井忠次を召喚しました。忠次は訴状の内容を否定しなかったため、全て事実であることが認められます。

そして、天正7年(1579)8月に瀬名姫は二俣城への護送中、道中にあった佐鳴湖の岸で、徳川家家臣の岡本時仲と野中重政により殺害。後を追うように同年9月、二俣城に幽閉されていた信康は自害しました。

瀬名姫38歳、信康21歳と、2人とも若くして命を散らしました。

最後に

瀬名姫の最後は家康との不仲が生んだ悲劇といっても過言ではないでしょう。もし、不仲でなかったらと考えると違った運命だったのかもしれませんね。

『どうする家康』では2人は仲良しで物語が進んでいるので、どのように不仲になっていくのか気になるところです。かなり悲劇的な終わりを迎えるとは予想しています。

参考:黒田基樹『家康の正妻築山殿-悲劇の生涯をたどる』平凡社新書、2022年