ゴールへの強い拘りを見せるも、一方で他者への敬意を忘れることはなく、自身のチャンスが阻まれた際には、怒りや悔しさを露にするより、相手を称えることを選ぶ人間だった。余談だが、70年8月には日本代表と対戦するため、ベンフィカの一員として来日。森孝慈のマークを受けながらも見事なゴールを量産したが、なかでもGK横山鎌三の頭上を抜くループシュートは、「キャリアのベストゴールのひとつ」と自ら語るほどの美技だった。 (C) Getty Images

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 本誌ワールドサッカーダイジェストと大人気サッカーアプリゲーム・ポケサカとのコラボで毎月お送りしてきた「レジェンドの言魂」が、今月よりweb連載中の「レジェンドの軌跡」と合体する形でお送りすることになった。サッカー史を彩った偉大なるスーパースターの栄光に満ちたキャリアを回想し、現在のサッカー界に与えた影響や新しい人生を歩む彼らの足跡を感じてほしい。

 さて今回、サッカーダイジェストWebに登場するのは、優れた身体能力と抜群のゴールセンスで相手守備陣を震え上がらせた、「モザンビークの黒豹」ことエウゼビオだ。

 ベンフィカに数々の栄光をもたらし、ポルトガル代表を世界の主役に引き上げたアフリカ産の偉人の軌跡を、ここで振り返ってみよう。

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 1942年1月25日、エウゼビオ・ダ・シルバ・フェレイラはポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)の首都ロウレンソ・マルケス(現マプト)に生を受けた。

 家庭は貧しく、住宅環境も芳しくはなく、兄弟7人と毎夜、寝る場所の取り合いを展開していたほど。さらにエウゼビオが5歳の時、鉄道員だった白人の父親を破傷風で亡くし、一家は厳しい生活を余儀なくされた。

 そのような苦しい日々のなかでエウゼビオが没頭したのがサッカーであり、学校で短距離走のチャンピオンになるほどの運動能力を持つ少年は、すぐにストリートサッカーの主役となっていった。

 当時、ポルトガルのクラブは植民地だったアフリカの国々でサッカーチームを援助し、優れた選手を欧州に連れてくるというシステムを構築しており、エウゼビオはスポルティングが運営するスポルティング・ロウレンソ・マルケスに加入。蹴る物が、靴下に新聞紙を丸めて入れたボールから皮のボールに代わっても、その高い得点能力に変わりはなかった。

 ゴールを量産し、チームに多くの勝利やタイトルをもたらす少年の存在は、早くから欧州に知れ渡り、15歳でイタリアのユベントスのスカウトの目に留まるが、これは母親の反対によって実現せず。しかし、18歳の時に人生の転換期を迎えた。

 60年、ポルトガルのベンフィカを率いていたベラ・グットマンが、旧知である元ブラジル代表選手のジョゼ・カルロス・バウエルを通して、エウゼビオの存在を知らされる。前線の強化を狙っていたハンガリー人監督は、地元リーグで50ゴール以上を挙げたという少年に注目し、獲得に乗り出した。

 バウエルは求めに応じてエウゼビオをリスボンに連れてきたが、同時期にスポルティングも獲得を狙っていたため、ベンフィカはライバルチームがエウゼビオに接触できないよう違う街に“隠す”という念の入れ様。スポルティングが提示した額の倍以上の契約金を用意することで家族を説得し、ついにこの争奪戦を制してみせた。

 この一連の騒動に嫌気が差し、故郷に帰ることも考えたというエウゼビオだが、思い止まってベンフィカに正式加入。ポルトガル入国から約半年後の61年5月、ようやく初の実戦となるアトレティコCPとの親善試合に出場し、いきなりハットトリックを達成して人々を驚かせる。

 初の公式戦は同年6月の国内カップ戦。ヴィトーリア・セトゥバウ戦でいきなりゴールを決めたものの、一方でPKを外すという悔しさも味わった。同月にはベレネンセス戦で国内リーグ・デビューも飾り、ここでもゴールネットを揺らしてみせた。

 こうして欧州でのキャリアの第一歩を踏み出したエウゼビオだが、この直後に早くも世界にその名を知らしめる。フランス・パリでの親善トーナメントで、ブラジルのサントス相手に途中出場から3ゴールを挙げ、あのペレを差し置いて注目を独占してしまったのだ。