根本陸夫伝〜証言で綴る「球界の革命児」の真実
連載第67回

証言者・王貞治(2)

 広島退団後の野球解説者時代、根本陸夫はV9巨人監督の川上哲治から二軍コーチ就任を要請された。さまざまな事情で実現しなかったが、ONと根本が同僚になる可能性があった。当時、川上に仕えていた王貞治によれば、「広島で若手を育てた根本さんの指導力を、川上さんが求めた形」だという。結局、根本は1978年にクラウンライターの監督になり、翌79年から横滑りで西武を率いた。この時、根本が編成としても活発に動いたなか、阪神の田淵幸一を獲得した移籍劇は王を驚かせた。のちに根本に請われた野球人が往時を振り返る。

◆策を講じてアマ球界の有望選手を次々と獲得

「クラウンから西武になった時、野村(克也)さんが入って、田淵も入った。これは根本さんが広島の監督の時、球界に名前を轟かせていた山内(一弘)さんを呼んだことに近いと思う。ただ、田淵が西武へ行ったのはびっくりしましたよ。その頃の田淵の力は頂点ではなかったけれども、まだやれる時だったでしょ? だから阪神ってのは不思議な球団で、名のある人をどんどん出しちゃうんだよね。江夏(豊)も出しちゃったし......。まあ、ふたりとも"フォア・ザ・チーム"っていう感じの野球じゃなかったもんね(笑)」

 V9巨人に立ちはだかり、王をライバルとして勝負を挑み続けた江夏は76年、トレードで南海(現・ソフトバンク)に移籍。プレーイングマネージャーにして名捕手の野村との出会いによって、リリーフ専任投手の道を切り拓くことになる。

 一方、王の本塁打王を13年連続までで止め、75年に初タイトルを獲った田淵も、西武で根本に仕えたことで野球に対する姿勢が変わった。江夏と田淵──このかつての"黄金バッテリー"が84年の西武で一瞬復活し、ともに最晩年を迎えるという縁もあった。

「江夏は南海で野村さんに会って、野球人生が変わった。広島、日本ハムのリリーフで活躍したからね。田淵も、『根本さんと一緒にやって変わった』っていう話を聞いたことがある。ただ、僕が根本さんでよく覚えているのは、監督よりも編成のほうの仕事で、とにかく、なんていうのか、みんなが思いつかないような方法をとっていたこと。ドラフトという制度があるなかで、どういうふうな策を講じられるか、ものすごく知恵を絞った人でね。たとえば、秋山(幸二)をドラフト外で獲ったり、伊東(勤)も策を講じたひとりかな」

 熊本・八代高のエースだった秋山は、「大学進学予定」のため80年ドラフトで指名されなかった。しかし、ドラフト後に一転してプロ入りを決意すると、西武、巨人、広島、阪急(現・オリックス)が獲得に名乗りを上げる。そして最終的に、根本が徹底マークし、秋山を打者として高く評価した西武への入団が決まった。が、プロ志望届はまだない時代、「進学予定」という裏技を使う余地はあった。

 熊本工高の主砲で捕手だった伊東は、秋山と同期にして同郷。80年夏の熊本県大会決勝で秋山がエースの八代高を破り、甲子園では強肩・強打で注目を浴びた。当然のようにドラフトの目玉となったが、この時、伊東は熊本工高定時制の3年生。卒業までに1年を残しているため、ドラフト指名対象選手にはならなかった。中退して指名を待つこともできたが、伊東本人も家族も将来を考えて高校卒業にこだわった。

 各球団は翌年のドラフトで上位指名する意向を伝えて一旦は手を引いたが、西武は伊東を球団職員に採用し、西武球場近くの埼玉・所沢高の定時制へ転校させた。練習生として囲い込み、他球団が手を出しにくい状況を作ったのだ。練習生は支配下選手ではなく、他球団も指名は自由だったが、結局、伊東は81年のドラフトで西武に1位指名されて入団した。

◆巨人が動いたときには西武はすでに関係を築いていた

 アマチュア球界の逸材が巨人ではなく、新生西武に入団していく状況。そのきっかけともいえるひとつの変化を、まだ現役だった当時の王も感じ取っていた。

「あの頃、ジャイアンツが『獲りに行く』って言ったら、だいたい、『どこかの球団に決まりかかっていても、ジャイアンツへ行く』っていうのがあった。けれども、あの、松沼兄弟からかなあ。『もうジャイアンツへ行くだけじゃないんだ』っていうものを見せたのは。彼らふたりがどう思ったかしらんけども、根本さんが編成のトップだった西武はガチッと決めてたよね」

 松沼兄弟の兄・博久は東洋大を経て東京ガスで活躍し、弟の雅之は東洋大のエース。この両投手は兄弟で一緒にプレーする意志が強く、各球団とも、どちらかを指名しての入団拒否を恐れたため、78年のドラフトでは指名されなかった。こうしてドラフト外の獲得競争になった結果、巨人入団が決まりかけていた即戦力の逸材を、西武が逆転で獲得したのだ。

「松沼兄弟のときは、後でちょっと時間が経ってから気づくと、西武はすごく先行していたんだよね。要するに、ものすごい先を見て、先の先を見ている。まあ、根本さんには先見の明があったのかもしらんけど、先を見て、いろんな根回しをやっているんだよね。これはまた後々の、郭泰源のときもそうだったから」

 1985年に台湾から来日し、西武に入団した郭泰源。150キロを超える快速球で"オリエント・エクスプレス"の異名をとり、140キロ台の高速スライダーも武器の好投手。「先行」して獲得するきっかけは"根本人脈"だった。

 広島監督時代のコーチ、深見安博を通じて知り合った福岡の食品会社社長から、「台湾にいい選手がいる」と声をかけられたのが80年。郭泰源の存在がまだ他球団に知られていない頃。その段階から球団代表の坂井保之を中心に、西武は郭一家と密接な関係を築いていた。

「あのとき、『いいピッチャーが台湾にいる』って聞いて、行こうとしたときにはもう、郭泰源のお兄さんをはじめ周りをガッと固められちゃってね。ジャイアンツから話がいっても、なかなか動かなかったんだよ」

 もっとも、父親が中国人である王は台湾でも人気が高く、神のように崇敬され、野球人にとっては憧れの人でもあった。郭泰源獲得に向けて巻き返しを図る巨人球団にとっては、84年、監督に就任したばかりの王は切り札だった。

 実際、巨人が王率いるチームになった途端、郭一家の周りで気持ちが揺らぐ人間も出てきたという。球団代表の坂井も、王が台湾を訪れて郭泰源と接触することを恐れ、契約と入団発表を急いだ。王自身、「切り札」としての自覚もあったはずだから、獲得断念となったときの悔しさは相当のものだったろう。今もそれは口調に滲(にじ)み出ている。

「だから、根本さんの力っていうのは、それまで絶対破れなかったジャイアンツの壁みたいなものを破って、道を切り拓くだけのものがあった。そこがみなさん、当時の野球関係者が『根本はすごい』と言いたくなったところだと思う。ほかの球団はあきらめちゃうところ、あの人は突破したわけだよね。あの人なりの顔の広さと、幅広い人脈があって、こっちから行ってダメならあっちからとか、そういうふうに人間を動かす術(すべ)みたいなものを持っていたんだと思うね」

 逸材選手獲得で巨人の壁を突破した西武は、まさに王が監督に就任した時代に常勝チームとなっていく。奇しくも、その監督は巨人出身の広岡達朗、森祇晶だった。

「そういう意味では、結果も伴わないとダメなんだよ。いくらね、いろんな手を尽くしていい選手を獲ったって、チームとして結果が出なきゃ注目されない。ということで、根本陸夫という人は、とにかく強いチームを作りたい、という思いがものすごく強い人でしたよ」

つづく

(=敬称略)


【人物紹介】

根本陸夫...1926年11月20日、茨城県生まれ。52年に近鉄に入団し、57年に現役を引退。引退後は同球団のスカウト、コーチとして活躍し、68年には広島の監督を務める。監督就任1年目に球団初のAクラス入りを果たすが、72年に成績不振により退団。その後、クラウンライター(のちの西武)、ダイエー(現・ソフトバンク)で監督、そして事実上のGMとしてチームを強化。ドラフトやトレードで辣腕をふるい、「球界の寝業師」の異名をとった。1999年4月30日、心筋梗塞により72歳で死去した。

王貞治...1940年5月20日、東京都生まれ。59年に早稲田実高から巨人に入団。62年に荒川博コーチの指導で一本足打法に取り組み、64年に日本記録(当時)となるシーズン55本塁打を達成。73、74年には2年連続三冠王を達成し、77年には世界記録となる通算756本塁打を放つ。80年に現役を引退。通算成績は2786安打、868本塁打(世界一)、2170打点。引退後は巨人、ソフトバンクで監督と務め、2006年には第1回WBCの日本代表の 監督として世界一に輝いた。現在はソフトバンクホークス会長。

川上哲治...1920年3月23日、熊本県生まれ。熊本工から38年に巨人に入団し、卓越したバット技術で「打撃の神様」の異名をとり、首位打者5回、本塁打王2回、打点王3回など、数々のタイトルを獲得した。58年に現役を引退し、61年から監督に就任。王貞治、長嶋茂雄らを率いて、65年から前人未到の9年連続日本一を達成した。プロ通算成績は2351安打、181本塁打、1319打点。

田淵幸一...1946年9月24日、東京都生まれ。法政一高から法政大を経て、68年ドラフト1位で阪神に入団。大型捕手として注目され、1年目からレギュラーを獲得。22本塁打を放ち、捕手として初めて新人王に輝いた。75年には43本塁打を放ち本塁打王のタイトルを獲得。78年オフ、トレードで西武に移籍。西武でも主砲として活躍し、82、83年は日本一に貢献。84年に現役を引退した。プロ通算成績は1532安打、474本塁打、1135打点。

野村克也...1935年6月29日、京都府生まれ。峰山高から54年にテスト生として南海に入団。入団3年目の1956年からレギュラーに定着すると、現役27年間にわたり球界を代表する捕手として活躍。歴代2位の通算657本塁打、戦後初の三冠王などその強打で数々の記録を打ち立て、不動の正捕手として南海の黄金時代を支えた。その後、ロッテ、西武でもプレイし、80年に現役を引退。引退後はヤクルトの監督として3度の日本一を経験。阪神、楽天でも監督を務めた。通算成績は2901安打、657本塁打、1988打点。

山内一弘...1932年5月1日、愛知県生まれ。社会人の川島紡績から52年に毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)に入団。右の強打者として知られ、首位打者1回(57年)、本塁打王2回(59年、60年)、打点王4回(54年、55年、60年、61年)を獲得した。63年オフに小山正明とのトレードで阪神へ移籍。67年に史上2人目となる2000本安打を達成した。68年に広島に移籍し、70年限りで現役を引退した。通算成績は2271安打、396本塁打、1286打点。

江夏豊...1948年5月15日、兵庫県出身。大阪学院高から66年の1次ドラフトで4球団競合の末、阪神が交渉権を獲得し入団。1年目から12勝を挙げ、2年目は25勝で最多勝を獲得。また、日本記録となるシーズン401奪三振をマークした。73年にも24勝を挙げ2度目の最多勝に輝く。76年1月にトレードで南海に移籍。当時監督の野村克也の勧めでリリーフに転向。77年オフ、金銭トレードで広島に移籍し、79年、80年と2年連続日本一に貢献。その後、日本ハム、西武でもプレーし、84年に現役を引退。通算成績は829試合に登板し、206勝158敗193セーブ。

秋山幸二...1962年4月6日、熊本県生まれ。八代高から80年にドラフト外で西武に入団。2年目の82年にイースタンリーグの本塁打王を獲得。翌年から野球留学でアメリカに渡るなど英才教育を受ける。85年にレギュラーを獲得し、この年40本塁打をマーク。その後も西武の主軸として黄金期を支えた。94年にトレードでダイエー(現・ソフトバンク)に移籍。2000年に通算2000本安打を達成した。02年に現役を引退。通算成績は2157安打、437本塁打、1312打点。

伊東勤...1962年8月29日、熊本県生まれ。熊本工時代の80年に夏の甲子園に出場し、当時、西武の監督だった根本陸夫に才能を見出され、81年に熊本工から所沢商(定時制)に転向。同時に西武球団の職員に採用された。翌82年のドラフトで西武から1位指名を受け入団。1年目から一軍出場を果たし、3年目から正捕手の座をつかむ。以後、長きにわたり西武の正捕手を務め、黄金時代を築く。03年に現役を引退。04年から07年まで同チームの監督に就任。12年からロッテの監督を務めている。通算成績は1738安打、156本塁打、811打点。

松沼博久...1952年9月29日、東京都生まれ。取手二高(茨城)から東洋大に進み、卒業後は東京ガスに入社。78年の都市対抗の丸善石油戦で17奪三振を記録。同年、ドラフト外で弟の雅之とともに入団。79年は16勝をマークし、新人王を獲得。翌年以降も先発投手として活躍し、82年の日本一に貢献。90年に現役を引退し、その後は解説者として活躍。ロッテ、西武などで投手コーチも務めた。通算成績は297試合に登板し、112勝94敗1セーブ。

松沼雅之...1956年7月24日、東京都生まれ。兄・博久と同じく取手二高から東洋大に進学。76年秋のリーグ戦で8勝をマークし、チームの初優勝に貢献。その後もエースとして活躍し、リーグ戦通算39勝を挙げた。78年にドラフト外で西武に入団。79年はルーキーながら4勝をマークすると、翌年から5年連続して2ケタ勝利を挙げた。89年限りで現役を引退。通算成績は241試合に登板し、69勝51敗12セーブ。

郭泰源...1962年3月20日、台湾生まれ。84年に台湾代表としてロザンゼルス五輪に出場し、銅メダル獲得の立役者となる。その後、西武と契約を交わし入団。入団1年目の85年、6月4日の日本ハム戦でノーヒット・ノーランを達成。この年、シーズン途中で肩を痛め9勝に終わるが、87年から3年連続して2ケタ勝利をマーク。その後も主戦投手として活躍。97年に現役を引退した。通算成績は272試合に登板し117勝68敗18セーブ。

深見安博...1919年11月26日、兵庫県生まれ。報徳学園から中央大に進み、ノンプロの西日本鉄道を経て、50年に西鉄が新設したプロチーム、西鉄クリッパーズに入団。52年に大下弘とのトレードで東急フライヤーズに移籍。同年25本塁打を放ち本塁打王のタイトルを獲得。57年に現役を引退。68年に根本陸夫に請われて広島のコーチに就任。72年に死去。

高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki