なぜ最大の才能が「真面目」なのか
勝負は時の運というけれど、官兵衛はなぜ負けなかったのか。傑出した参謀の手法を丸裸にする
■秀吉を天下人に押し上げた現場力
歴史を研究する者の立場からすると、現在一般に流布している黒田官兵衛のイメージは、史実にある官兵衛の姿とはずいぶん違っていると思います。大河ドラマ「軍師官兵衛」における官兵衛像も、テレビ向けに少々派手な演出が加えられたもの、と考えるべきでしょう。実際の官兵衛は、もっと地味な存在でした。
といっても、確実な史料に基づいて浮かび上がってくる黒田官兵衛は、小説やドラマで描かれてきた官兵衛とは違った意味で、やはりただならぬ人物だったということはできるでしょう。
官兵衛はナンバーワンにはなれなかったし、自分でもなれないことを知っていました。けれど、偉大なるナンバー2ではあったのです。
私見ですが、これほど見事なナンバー2は、長い日本史の中でもきわめて稀有な存在です。そういう人物であったがゆえに、後世の人々が夢やロマンを託し、いろいろな逸話や物語が作られて、世間に流布しているような黒田官兵衛像ができあがってきたのでしょう。
もちろん、フィクションにはフィクションなりの価値があります。しかし私はここで、もう一度、より現実に近い黒田官兵衛像というものを見直すことも、意味のあることだろうと思うのです。神算鬼謀の神がかり的な軍師としての黒田官兵衛ではなく、戦国末期、播磨国の小豪族に生まれた一人の人間が、どのように現実の困難な問題に立ち向かい、あの時代を生き抜いていったかという見地から、黒田官兵衛という人物について考察してみたいと思います。
まず言えることは、官兵衛はドラマのように華やかな人ではなかったということです。私の想像する官兵衛という人物は、非常に冷静で理知的で、緻密な人物です。その根拠となるのが、官兵衛の手紙のやり取りです。何十通という単位で、当時の手紙が残されているのです。
官兵衛が家老として仕えていた小寺家は、官兵衛自身の献策により、東方の大勢力、織田信長の傘下に入りました。織田家にあって中国方面の攻略を指揮していたのが羽柴秀吉です。上司にあたる秀吉との書状のやり取りを読むと、官兵衛の人物像が見えてきます。
■秀吉の「軍師」ではなかった?
数々の文面によれば、官兵衛は常に秀吉の意図を非常に細かいところまで尋ねていることがわかります。たとえば九州遠征の際も、戦況を細かく報告し、どこにどう軍勢を動かせばいいのか、あるいは補給はどうしようとか、毛利家の動きはこうなっているが、自分はどうしたらいいかという判断を逐一秀吉に仰いでいる。このときは、上方にいる秀吉との間に飛脚を使った定期便のようなものを設けていました。
つまり官兵衛は、権限内においては自分で判断をしますが、大事なところに関しては、必ず秀吉の判断を仰いでいる。それも実にこまやかに。これは後の家康との対応でも同じです。関ヶ原合戦の際にも、やはりきめ細かく家康の裁量を仰いでいる。
今ふうに言えば、上司へのホウレンソウ(報告・連絡・相談)を怠らず、権限を越えるところでは、上からの指示を待って行動したのです。内心「こうしたほうがいい」と思っていても、それが権限を越える事柄であれば「勝手なことはしない」というのが、彼のナンバー2としての持ち味です。
そのことを考えれば、官兵衛は秀吉にアドバイスをする、いわゆる「軍師」の立場にはなかったということがいえるでしょう。むしろ側近として秀吉を支えたのは、千利休であり豊臣秀長でした。
軍事面に絞っても、官兵衛が秀吉に助言したという確実な事例は見つかっていません。判断するのは秀吉であって、官兵衛の役割はその秀吉の指令をしっかりと遂行することでした。その遂行において、非凡な能力を発揮したのが黒田官兵衛という人物だったのです。
もっとも、官兵衛の地元である中国地方の攻略では、官兵衛が軍師的な役割を担った可能性はあると思います。秀吉が信長の武将として備中高松城を攻めたとき、その側には官兵衛がいました。土地勘があって、この地域の人間関係を熟知していた官兵衛が、秀吉に有益な情報提供をしたであろうことは容易に想像できます。
高松城の周囲は湿地帯で、秀吉は城の周囲に高さ7、8メートルの堤防を築いて、水攻めをしました。その水攻めを献策したのが官兵衛だったという説があります。さらにその最中に、本能寺の変が起きています。主君信長を失い茫然自失の秀吉に「これは天下取りのチャンスだ」と囁いたのが官兵衛であるとか、それで秀吉は発憤して世に言う中国大返しをやってのけたのだという話も残っています。
■優れた現地法人社長として
これらの話を確実な史料で裏付けることはできませんが、そういう判断を秀吉が下すために必要な情報を、官兵衛が秀吉に上げていた可能性はあるでしょう。ただ、それをもって「官兵衛は秀吉の軍師だった」というのは違うと思います。
数々の手紙からうかがえるのは、官兵衛の本分がやはり秀吉の意図を丁寧に聞いて、実行するところにあったということです。官兵衛は、まず何よりも聞く人であったのだと思います。
だからと言って、官兵衛に軍事的な才能がなかったというわけではありません。秀吉と頻繁に手紙をやり取りして、その意図を汲みながら戦ったというと、まるでロボットみたいな印象を受けるかもしれませんが、そういうことではない。当時の状況を考えれば、彼が局面における戦上手だったからこそ、秀吉から次々に送られてくる命令を遂行することができたというわけです。
そういう史実をふまえ、敢えて現代的な表現を使うならば、官兵衛の立ち位置は海外現地法人の社長と似ていると思います。現法の社長は、本社の指示を仰ぎつつ、現地では自分の判断で素早く的確に動かなければなりません。たとえば現地政府との交渉、物資の調達、工場などの建設、従業員の採用ということです。官兵衛もそういう必要なことはすべて自分で判断し、確実に遂行できる人物だったのだと思います。
戦国時代という当時の状況を考えてみると、これがいかにすごいことかわかります。官兵衛が仕えた信長、秀吉、そして家康という武将たちは、簡単に言ってしまえば、日本統一という前代未聞の難事業を成し遂げたのです。官兵衛はその難事業の、いうなれば現地責任者です。
官兵衛と秀吉との出会いは、秀吉が中国攻略の責任者として播州に攻め入った天正5(1577)年頃ですが、それから秀吉が亡くなるまで彼に仕え、秀吉による天下統一に大きな貢献をします。西国の雄、毛利家との交渉においても、九州遠征においても、重要な役割を果たしています。
■秀吉の無理難題をこなせたから
天正15(1587)年、官兵衛42歳のときに、秀吉は官兵衛に新たな領地を支給する宛行状を発給しています。これによって、官兵衛は豊前国内8郡のうち、仲津、宇佐などの6郡を所有することになります。詳細な石高は明らかになっていませんが、推定12万石。それまでの官兵衛の領地が5万石程度ですから、倍以上の領地を秀吉は与えたわけです。それだけ官兵衛の仕事を評価していたということです。
私は官兵衛なくして、九州は取れなかったのではないかと思っています。もっともこの件に関しては、秀吉は官兵衛にさらに高い身分を与えようとしていたという話があるのですが、それについては、後述しましょう。
今私は、上司からの命令を確実に遂行できる人物だと言いましたが、その命令の中に、無理難題が極めて多かったことは、想像に難くありません。秀吉にしても、それが無理難題であることはわかっていたと思います。普通の武将なら、命じられたことの2割、3割も実現できればいいほうだったかもしれない。官兵衛が実現したのはそういう命令でした。だから、命じた側からすれば「こいつはできるやつだ」ということになる。
■最後に頼られる交渉役
官兵衛がどんな戦をしたか、いかにして勝利を収めたか。その戦術などを含めた具体的な内容は、残念ながら確実な史料としては残っていません。ただし、状況証拠として、秀吉や信長からの感状がたくさん残っています。感状とは、主君が家臣の戦功を褒める書状です。信長も秀吉も、官兵衛のことをほとんど激賞しています。官兵衛はいわゆる軍師ではなかったけれど、彼が戦上手で軍略に長けた武将であり、卓越した軍事的指揮官だったことは疑いない。
さらに言えば、戦のみならず交渉事においても、官兵衛は極めて優れた手腕の持ち主でした。戦国時代のドラマや映画を見ていると、武将たちは連日連夜戦をしていたかのようですが、実際には戦よりむしろ交渉事のほうが多かったわけです。その交渉においても、官兵衛は実力を遺憾なく発揮しています。
本能寺の変以降、官兵衛は秀吉の命により、毛利家と領土の境界の画定交渉を行っています。その経緯も、秀吉との間で交わした書簡によって追うことができます。
こういう交渉が、すんなりまとまるはずはありません。秀吉は官兵衛にかなり無理をさせたと思います。官兵衛は秀吉からの指示と、交渉相手の毛利からの言い分の板挟みになります。交渉がなかなか進まず、秀吉が官兵衛を叱責した手紙も残っています。
官兵衛はそういう難しい交渉を、粘り強く地道に、何度も何度も繰り返し、豊臣方に有利に導いていきました。そういうところから秀吉は官兵衛を信用していったのではないかと思うのです。
ではなぜ、官兵衛はそれだけの成果を挙げることができたのか。それを説明するために、彼が軍師として特別な才能を持っていたとか、兵法に通じていたというような話が生まれたのでしょうが、私は彼のいちばんの才能は、「真面目」という才能だったのだと思っています。
策略や奇策によって、周りを押しのけて出世したのではない。どこまでも誠実に粘り強く、上司からの無理な注文に対しても、相手方からの厄介な要求についても柔軟に対応していったからこそ、数々の難しい交渉をまとめることができたのだと思っています。それはとりもなおさず、官兵衛が周囲からの本物の信頼を得ていたということでしょう。
秀吉による天下統一の仕上げともいうべき小田原攻めに、官兵衛は参加しています。すでに家督を息子の長政に譲って引退していた官兵衛が小田原まで呼ばれたのは、過去に様々な交渉を成功させてきた手腕を期待されてのことでしょう。頑強に抵抗していた北条氏が、最終的に交渉した相手は官兵衛だったのです。
■家臣が書いた起請文
官兵衛が小田原城に交渉役として出向くシーンは、大河ドラマ「軍師官兵衛」の冒頭でも使われました。史料にはありませんが、このとき交渉相手に官兵衛を指名したのは、秀吉ではなく北条方だったのではないかと私は想像しています。つまり、北条家100年の歴史を終わらせるにあたり、官兵衛なら信頼できると考えたのではないかと思うのです。このとき北条氏直から官兵衛へ、『吾妻鏡』など北条家の家宝が贈られています。
荒木村重が信長を裏切ったとき、その居城である有岡城に官兵衛が説得に行ったという有名な話があります。説得は失敗し、官兵衛は城に幽閉されます。彼が幽閉されたことは、一次史料によって確認できます。このとき官兵衛の家臣たちが書いた起請文が残っているのです。
彼らは何があろうとも、自分たちは「本丸」に対し忠節を尽くすという誓約をしたのです。この本丸の意味するものが、官兵衛の父・職隆なのか、妻なのかは、議論の分かれるところです。いずれにせよ、有岡城から官兵衛が帰ってこなければ、この時代のことですから官兵衛が裏切ったと思われる可能性があるわけです。
実際にこのとき信長が官兵衛の裏切りを疑って、竹中半兵衛に人質だった官兵衛の息子を殺せと命じたという話があります。半兵衛は信長には殺したと偽って、官兵衛の息子を匿ったとされています。
ただ、私はこの話は疑わしいと思っています。というのは、1936年に桑田忠親氏によって紹介され昨今再び注目された重要な事例として、「本能寺の変」の後に官兵衛が村重の茶会に出ていたという記録が残っているのです。このとき村重が官兵衛をもし虐待していたら、その後茶会で同席するなどということがあったとは思えません。
いずれにしても、この起請文は、窮地に立った官兵衛を何があっても自分たち家臣は信じているし、支えていくという声明であり、それだけ官兵衛が家臣から慕われていたという直接的な証拠だと私は思います。家臣のみならず、官兵衛は民衆からも信頼される統治者であったと言われています。
■キリシタンでもなぜ許されたか
例証はほかにもあります。
官兵衛の最初の主君、小寺政職は最初こそ信長方につくのですが、その後、毛利方に寝返ります。そして没落するのですが、官兵衛は政職の息子の氏職を庇護し続け、氏職の子孫はその後も代々黒田家に仕えています。
秀吉の時代の後のことですが、官兵衛は関ヶ原合戦のときの吉川広家との盟約を着実に履行し、最後まで毛利家の存続のために力を尽くしました。官兵衛は人を見捨てなかったのです。この誠実さこそが、官兵衛の最大の能力だったと言ってもいいかもしれません。
先ほど秀吉が、官兵衛をもっと高い身分に就けようとしていたという話をしましたが、宣教師ルイス・フロイスの年報に、こういう記載があります。秀吉が官兵衛に「おまえがキリシタンであり、伴天連らに愛情を抱いていたために、私はおまえに与えようと最初に考えていたよりも低い身分にしたことがまだわからないのか」と言ったというのです。
官兵衛は、高山右近と同じように、洗礼を受けたキリシタンでした。ドン・シメオンという洗礼名もあります。キリシタン嫌いの秀吉は、それが気に入らなかったのですね。官兵衛が九州遠征の先頭に立っていたために、九州の大名たちの多くがキリシタンに改宗したという事情もありました。けれど、秀吉に面と向かってそこまで言われても、官兵衛は終生キリシタンを貫いたのです。自身の葬儀もキリスト教式で行わせました。官兵衛には、そういうところがあるのです。
秀吉としては、面白くなかったと思いますよ。それでも秀吉は最後まで、官兵衛を切り捨てることはなかった。高山右近はキリシタンということで、秀吉から処罰されていますが、官兵衛は皮肉を言われるくらいで許されている。
その違いは何かといえば、やはりこれは官兵衛の人間性だったのではないでしょうか。もちろん秀吉にとって、官兵衛が役に立つ存在だったということもありますが、それだけでなく、秀吉と官兵衛は、お互いに、魅力を感じていたのだろうと思います。秀吉が人間的な魅力にあふれていたように、官兵衛も魅力的な人物だった。秀吉は官兵衛のことが好きだったんじゃないかと思うのです。単に有能なだけではなく、人間として面白いやつだと。
■秀吉自筆の手紙が意味するもの
秀吉が官兵衛と出会った最初の頃、秀吉が自筆で書いた官兵衛への手紙が残っています。秀吉ほどの武将になると手紙は右筆という書記官が代筆するほうが普通ですが、このときは秀吉が自ら筆を執った。その仮名の多い手紙に、秀吉は官兵衛のことを、あなたは「弟の小一郎と同然なんだよ」と書いている。
人の心をつかむのが上手だと言われた秀吉ですが、やはりこれは絶妙な表現だと思います。初めて会った頃から、2人の間には、ただの上司と部下というだけでない何か、心の通う何かがあったのではないかと思います。もちろんこれは私の想像にすぎませんけれど。
そして官兵衛も最後まで、秀吉を裏切ることはありませんでした。晩年の朝鮮出兵は明らかな秀吉の失策でした。官兵衛もそれが、失敗に終わるであろうことを予見していたに違いありません。それでも官兵衛は、秀吉の命により2度ほども朝鮮に渡っています。期待されたような成果を挙げることはなかったけれど、それでも秀吉が亡くなるまで、官兵衛は秀吉の忠実な家臣であり続けました。
けれど秀吉が亡くなるとすぐ、家康についています。この転身は非常に早かった。2度目の朝鮮出兵から帰国してから間もなく、家康方についています。信長につくことを決めたときと同じように、時勢を完全に読み切った見事な行動でした。
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陸上自衛隊高等工科学校教官。1965年、神奈川県横須賀市生まれ。國學院大學文学部文学科卒、同大学院文学研究科日本史学専攻修士課程修了。単著に『黒田官兵衛』(中公新書)、共著に『黒田官兵衛のすべて』『戦国織豊期の政治と文化』などがある。
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(石川拓治=構成 AFLO、PIXTA=写真)
