久米宏さん

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 高視聴率を誇った伝説の歌番組「ザ・ベストテン」(TBS系)。なぜこのコンビが司会に? 相性やけんかは? ハプニングはどう切り抜けた? 出会いから降板劇、不意の別れまで、黒柳徹子さんが語る“名パートナー”久米宏さんの、おかしくも胸打たれる追憶。

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〈私には親友という人が、いるようで、いなかった。あなたは、その中で『ザ・ベストテン』以来本当の親友だった。(中略)久米さん、「さよなら」は言いたくない、いつか会える時が来たら、続きを話しましょう。「私の涙が見えますか?」本当に友達でいてくれてありがとう〉

〈これは今年1月に久米宏さんが81歳で亡くなった際、黒柳徹子さんがSNSに投稿した惜別のメッセージの一部である。

久米宏さん

 黒柳さんと久米さんは言わずもがな、1978年に始まった「ザ・ベストテン」を伝説の歌番組にした立役者だ。

 最高視聴率41.9%。

 お互いが速いテンポで言葉を繰り出しても、その話題が楽曲であろうと社会問題であろうと、ピタリ息が合っていた。

 二人が奇跡の出会いを果たしたのは、永六輔さんがパーソナリティーを務める「土曜ワイドラジオTokyo」(TBS系)だった。1970年代半ば、当時TBSアナウンサーだった久米さんは、隠しマイクを忍ばせて風俗店に潜入したり、ホームレスに扮して銀座を歩いたりなどの体当たりレポートを敢行していた。〉

「ハンサムで背が高くて、びっくり」

 私、永さんの番組は毎回聴いていたし、ゲストとして何度か出演もしたので、久米さんのレポートは耳にしていました。

 団地に行って、「いまTBSラジオを聴いている方、窓から顔を出してくださ〜い。オオッ、きょうの聴取率は○○%!」とか、港に係留されている船に乗り込んで、「フフフッ、船内にはヌードカレンダーが貼ってますね」と言ったり。かと思うと、いきなり海に飛び込んで、「喫水線はどこだろう?」なんて、いつもバカみたいな声を張り上げてレポートしていたんです。声の印象から、小太り体形のコメディアンみたいな人をイメージしていました。

 ところが、永さんのラジオに出演したときに、「あれがレポーターの久米だよ」と言われて見たら、抱いていたイメージとは違って、ハンサムで背が高くて、びっくりした。そのギャップがすごく印象的でしたね。久米さんは、その日、いつもならロケの車に積んであるはずのお弁当がなくて、局のスタジオまで取りに来ていたんですって。

 それから数年後、私が「ザ・ベストテン」を任されることになって、誰か一緒に司会をする候補はいないかと聞かれたとき、久米さんの名前を挙げたんです。永さんとのテンポの良いやりとりと、バカバカしいくらい思い切った発言がいいんじゃないかと思ったので。

 久米さんと初めて会って話したのは、番組の打ち合わせのときでしたね。印象はすっきりして清潔感のある人。やっぱりこの人でよかったと思いました。

〈78年1月から始まった「ザ・ベストテン」はそれまでにない歌番組だった。画期的だったのは、ランキングを一切操作しないという点。レコード売り上げ、リクエストはがき枚数、有線放送リクエスト回数、ラジオ各局のランキングを集計して順位を決め、演出上の手心を加えなかった。〉

 順位を操作しないことは、私が司会を引き受けるにあたってお願いしたんです。「本当に1位でない曲を1位ですと言わせないでください」と。「テレビは正直であるべき」というのが私の考えでしたから。

秒単位の時間調整

 77年と78年の「輝く!日本レコード大賞」(TBS系)の司会を久米さんと担当したんですが、あまりに「ザ・ベストテン」の順位と違ったので、「この番組、もう出ないようにしようと思います」と言ったんです。久米さんも同じことを考えていたみたいで、「分かりました」と。

 ベストテンでもう一つ決めていたのは、どんな若い出演者に対しても敬語を使うことです。若いとはいえベストテンにランキングされる曲を歌ったり、演奏したりする方ばかりですから、敬意を持って接しようと思いました。それにも久米さんは同意してくださいました。

 中継が多いのも番組の特徴でしたね。しかも中継場所はこれまでにない所が多く、ドキドキすることばかりでした。

 例えば新幹線が静岡駅に停車中の数分間で松田聖子さんに「チェリーブラッサム」を歌っていただいたときは歌い終わらず、発車後に車内で続きを歌う、なんていうことも。ドアのガラス窓から、去っていく聖子さんを見送りました。追っかけマンのアナウンサーはプラットフォームです。ほかにも、沢田研二さんには広島駅のもみじまんじゅう屋さんの前で「サムライ」を歌ってもらったり、山の中のバス停の前で歌を披露した人もいたり。

 どこで中継するかを事前に明かしてしまうと、ファンのみなさんが押しかけて危険になるので秘密でした。それでも人が集まってしまうこともあって、「みなさん押さないで。もしここで事故が起きたら来週からベストテンは放送できなくなります」って、久米さんと声をからして叫んだりしました。いま思い出しても事故がなかったのは奇跡です。

 私は話したいことを勝手に口にするタイプなので、生番組の進行が遅れてしまう。そこを久米さんが秒単位の時間調整までうまくやってくださっていました。

 久米さんになぜそれができるのか尋ねると、「ラジオの中継で鍛えられましたからね」と言っていました。ラジオ番組でストップウォッチをにらんで、残り何秒に収めるなんてことをやってきたから、「慣れっこなんです」って。

山口百恵を「家庭的」と思った理由

 それにしても「ザ・ベストテン」のVTRを見ると、二人とも信じられない速さでしゃべっていますね。しかも二人の声がカブらないんです。一方がしゃべっているときは、もう一方はちゃんと黙っている。技術もあるんですが、これも久米さんと私のテンポや感覚が合っていたからでしょうね。

 でも、ゆったりできた回もありました。中継が多くて、山口百恵さんしかスタジオにいなかったその日、おリンゴの皮をポットに入れて作った紅茶を三人で飲みながら、のんびり放送したんです。そのとき百恵さんがポツリと、「こういうのいいですね」。

 その言い方で、この方は家庭的な人なんだなと思いました。百恵さんが引退する、少し前のことです。

〈「ザ・ベストテン」の、もう一つの見どころは、黒柳さんと久米さんが織りなす当意即妙の“トーク力”だった。〉

 私のヘアスタイルを“タマネギ”と最初に呼んだのは久米さんです。番組が始まってさほどたたない頃、冒頭のフリートークのとき、いきなり久米さんが、

「ね、タマネギおばさん」

 と言ったんです。思わず笑っちゃいました。私もタマネギみたいだなと感じたので。ああいうことをズケズケ言うから、私たちは仲が悪いんだろうと感じた人もいたくらいでした。

 そういえば私も一度、わざと久米さんに向かって、

「そうでしょ? 小島一慶さん」

 と言ったことがあります。

社会や政治に関する発言

 小島さんは久米さんと同い年の同僚アナウンサーで、いわば久米さんのライバルでした。そしたら久米さん、即座に切り返して、

「そうですよ。里見京子さん!」

 里見京子さんと私はNHK放送劇団の同期で、1954年から3年間、NHKのラジオドラマ「ヤン坊ニン坊トン坊」でご一緒した仲間です。それまで久米さんとの会話で一度も出たことのない名前だったので、うんと驚きました。すごい勉強ぶりと瞬発力!

 歌手の方へのインタビューの時間も楽しかったです。「ザ・ベストテン」は、普段テレビに出ない方が出演してくださることも大きな魅力でした。松山千春さんや井上陽水さん、吉田拓郎さんなどがご出演くださいましたが、中でも印象に残っているのは松任谷由実さんですね。旦那様(松任谷正隆さん)が「そろそろ出てもいいんじゃない」と言ったから出演したという話をされたので、私が「エッ? あなたって旦那様が行けっておっしゃればいらっしゃるの?」って聞いたの。そのとき彼女、私のこと「わー、怖い。ウーマンリブの活動家みたいだ」と思ったって、後に教えてくださいました。もちろん、いまはいいお友だちです。

 番組内のインタビューなどで使う情報を集めるのに役立ったのはリハーサルでした。

 例えば印象的な衣装だとか、「こんなことがあった」という雑談から、これは本番で聞きたいなと思う内容をノートやカードにメモして歌手ごとに整理していました。

〈ときには歌番組ではまず流れない社会や政治に関する発言も飛び出し、それが番組からのメッセージになっていた。〉

 シャネルズ(後のラッツ&スター)が「ランナウェイ」で初登場した回のことです。地方からの中継で、そこに来ていた子どもたちにマイクを向けてシャネルズに対して質問してもらったところ、ある少年が「どうして黒人のくせに香水の名前なんか付けるんですか?」と聞いたんです。

「涙が出るほど、悲しく思いますので……」

 私は“くせに”という言葉がショックで、無意識に「くやしいわ」と呟いていたらしいです。あの子はどれだけひどい差別的な言葉を言ったのか分かっていないのだろう、まわりにそういう言葉を使う大人がいるのだろうと考えて、プロデューサーの山田修爾さんに、私が話したい内容までは告げなかったと思いますが、「ひとこと言わせてほしい」とお願いしました。それでシャネルズの歌が終わってCMが明けた後、こう話しました。

「顔の色とか、国籍が違うということで、そういう区別をした言い方をすると、私は涙が出るほど、とっても悲しく思いますので……。みなさん、国籍が違う、そういうことで一段高い所から人を見下すようなふうに……。偶然だったと思うんですよ、あの方は。だけど、どうぞ『何々のくせに』とか言わないでください。お願いします」

 そのあと絶妙なタイミングで、久米さんがこうコメントしてくださいました。

「黒柳さんが涙を浮かべて怒るのは当たり前の話でございます。黒柳さんが泣いていますから、もうやめてくださいね」

 こういう社会的な話をするときには、本番でいきなり言おうと決めていました。

 もし事前に内容についてスタッフに確認したり、リハーサルのときに口にしたりすると、「そういうことは言わないでください」と注文がついたり、局の意向で表現を直されたりすることがあります。それは経験上よく分かっていたので。

 生放送ですから、言っちゃった者勝ちなんです。

ミスをしない人

 広島に原爆が投下された8月6日に放送があった1981年には、広島と中継して番組を作りました。あのときも自分で用意した原爆の悲惨な写真を出して、こう話しました。

「どんなに夢がある人も、どんなに優秀な人も、恋人が待っている人も、普通に暮らしている人も、戦争があると、一瞬でこんなことになっちゃうんです。だから絶対に平和を守らなきゃいけないんです」

 話すうちに声が詰まってしまった私を見て、久米さんはすかさず助け船を出してくれました。

「黒柳さんが泣きながら言っていますから、みなさん、聞いてやってください」

 久米さんは私の話自体に何か口を挟むことはありませんでした。私と同じ考えだったんだと思います。

 私たちが作っていたのは、明るく、軽く、楽しい娯楽番組で、ふざけているようにしか見えなかったかもしれません。でもときには社会的な役割を果たさなければいけない。まして、若い人や子どもたちも見ているような番組なのだから、なおさら伝えなければならないことは積極的に言っていこうと思っていました。

 そのあたりの価値観が久米さんと一致していたから、あれだけスムーズにやっていけたのだと思います。番組が始まった直後から、単に早口同士というのではなくて、この人とは息が合っているなと感じていました。一緒に仕事をして、あんなに価値観を含めて相性がぴったり合った人って久米さん以外にいませんでした。

 だからなのか、けんからしいけんかは一度もなかったような気がします。

 大きな失敗も、久米さんはなかったんじゃないかしら。一度だけ、何か女性問題があって3週間ほど謹慎したことがあったんです。ちょうどその時期、私は休みをいただいてニューヨークに行く予定でした。出国しようと成田空港にいたとき、局の方から連絡が入り、私が出なきゃ司会が誰もいないと分かって急きょ旅行を取りやめて引き返しました。

 思い出せるのはそれぐらいで、めったにミスをしない人でした。

思わぬ形でコンビ解消

 久米さんが百恵さんのお尻を触ったことがありましたが、あれは確信犯です。

 私は見かねて「なんてことです? お尻触ったりして」と注意した気がしますけど、久米さんは笑って受け流していました。百恵さんのファンだったんですって。彼は、視聴者の方々に印象をつけようと、わざとやった、と何かに書いてありました。

 生放送の後、スタッフとTBSの近くにある「古母里」というお店で反省会を兼ねてよく食事をしたんですが、久米さんが出席なさったことは一度もなかったんじゃないかしら。

〈30%台という高視聴率をキープし、40%近くをたたき出すことも珍しくなかった「ザ・ベストテン」。だが85年、思わぬ形でコンビ解消となる。久米さんが一方的に降板を申し入れたのである。〉

 久米さんが降板することを知ったのは、新聞報道でだったんです。びっくりしました。私が番組に誘ったのに、私が知るより前に、辞める話が新聞に出るってどういうことなのって。

本音は明かさず……

 プロデューサーの山田さんも寝耳に水で、すごく怒って、「黒柳さんにも何も言ってないんですか。あいつには青い血が流れてる」って。

 久米さんには直接聞きました。自宅に呼んでゆっくり話したこともあります。「どうして?」と聞くと、「勉強しようと思うんです」って言うんです。私が「勉強なんて番組を辞めなくたってできるじゃない」と言ったら、「旅館の下足番をやりながら勉強するんだ」なんて。私は首をひねって、「でも、下足番をやったからって、何になるの。お客さんからどうしてこんな所で下足番をやってるのって聞かれるの嫌じゃないの?」。

 とにかくヘンだなと思って、「理由は違うことじゃないの?」って聞いたんですけど、頑として本音は明かさなかったですね。

 久米さんは自伝(『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』)でもお書きになっていましたが、よっぽど事実を伝えようかと喉まで出かかったけど、新番組の正式な発表までは厳しい箝口令が敷かれていたので必死にのみ込んだということでした。

「ニュースステーション」(テレ朝系)が始まって、初回の放送を見て、「いいな」と思いました。「ニュース番組が久米さんに合っている。うまいな」って。私には久米さんが「ニュースステーション」でやろうとしていることがすぐ伝わってきたので、いいじゃない、って。

「ニュースステーション」が始まって1年と少したった86年末のことです。ユニセフ親善大使だった私を、募金集めのためにユニセフが行っているクリスマスカードの販売事業を紹介するからと番組が呼んでくださいました。

 もともとわだかまりなんてなかったので、呼んでくださったのは、ありがたかったです。

 久しぶりに再会して、「この番組は久米さんにすごく合っている」と伝えたんです。それが久米さん、すごくうれしかったそうです。「失礼なことして番組を降りちゃったのに、重荷を一つ下ろしたように感じた」って。

 それからは久米さんと一緒に食事をしたり、折を見て会ったりするようになって、政治のこととかいろんなことを話しました。「ザ・ベストテン」のときは一度も食事に行ったことなどなかったのに。でも、「ザ・ベストテン」を辞めた件を話題にしたことはありませんでした。

「引き留めたけど、『帰ります』と……」

 久米さんはクールな印象ですが、実は涙もろくて優しい人なんです。

 私が耳の聞こえないろう者たちの劇団を全面的に支援する「トット基金」をつくったときには、久米さんは理事になってくださいました。久米さんのような方が理事になってくれたのは、何より心強かったです。

 理事会にも毎回来てくださって、ここ何年かは、そこで会うことが多かったですね。昨年の春ぐらいだったかしら、みんなで一緒にお昼ご飯を食べた後、久米さんがさっさと帰り支度をするから、私は「なんで? もう帰るの? もっとゆっくりしたらいいんじゃない」と引き留めました。久米さんは「でも、もう失礼します」と帰ったんです。こんなふうにひょうひょうとして、長居せずに帰ってしまうのは昔からのことなので、別に驚きませんでした。

 結局、それが最後になりましたね。

 いつも理事会に来てくださっていたのに、昨年暮れはいらっしゃらなかったので、「どうしたの?」と手紙を出したんです。返事は来ませんでした。亡くなったことは、ほどなくして知りました。

 久米さんが世を去って4カ月になりますが、本当に残念ですよね。やっぱり生きててくれてないと、何かあっても、もう話ができないじゃないですか。

 あんなに価値観が似た人とは、なかなか出会えるものじゃありませんから。口惜しい!って伝えたいです。

「週刊新潮」2026年5月7・14日号 掲載