「ライター業」はもう終わりなのか?読書文化の「劣化・衰退」で片付けようとすることへの違和感

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【前編を読む】福沢諭吉は「開明系インフルエンサー」だった…〈大衆〉を操作していた出版機構の時代の終焉

明治のベストセラー『食道楽』はVlogに?

筆者は、ビッグ・ヒストリーの文脈から、書き手のライフスタイルを3つに分けました。筆を執ることは特権階級のもとのされた「贈与と義務の時代」(〜18世紀)、国民国家に支えられた「商業化の時代」(19世紀後半〜20世紀末)、IT技術の進展に伴う「脱専業化の時代」(21世紀〜)です。

「脱専業化の時代」は、大局的には国民国家の衰退に伴うものですが、ユーザー目線で見れば、テキストコンテンツの消費が多様化したことが直接的な要因です。先のSNSやクリエイター向けのプラットフォームなどだけではありません。一見、テキストコンテンツとは思えない動画コンテンツも、歴史の解像度を上げれば、紙媒体の「後裔」「末裔」であることが浮かび上がってきます。

例えば、昭和初期のエロ・グロ・ナンセンス文化を代表する作家の梅原北明(ほくめい、1901-1946)らが地下出版で提供した猟奇やゴシップは、現在、ダーク系動画において花開いています。未解決事件、事故物件、裏社会のルポルタージュなど、昔の「実話誌」「猟奇雑誌」の現代版です。

雑学や批評なども、ゆっくり解説・考察系チャンネルがその役割を引き受け、歴史、科学、政治から、未確認生物などの雑学系コンテンツまでを面白おかしく語り、かつての「総合雑誌」での評論活動は、オンラインサロンや有料ニュースレターといったよりクローズドなコミュニティでのサブスクに移行しました。

『食道楽』は、ジャーナリスト・小説家の村井弦斎(1864-1927年)が明治期に発表した料理の作り方と蘊蓄を交えた実用小説で、大ベストセラーになりました。和洋中華600種を盛り込んだクックパッド+『美味しんぼ』のような内容でしたが、これらは「動くマニュアル」である料理動画・ライフスタイルVlogなどにその舞台を変えています。

興味深いことに、いずれの動画制作・配信の裏側においても、「構成案」や「台本」という名のテキストが存在しています。ここでは書き手は、出演者たちにもっともらしい命を吹き込むシナリオライター、コンテンツ設計者としてその手腕を振るっているのです。

そうなると、古風なスタイルの書き手は絶滅危惧種になってしまいそうな気もしますが、要するにここにおける根本的な変化とは、「専業で食べること」が困難になるということに過ぎません。明治初期の文士たちがそうだったように、現代の書き手もまた、起業家、会社員、インフルエンサーなどの「別の顔」を持ちながら言葉を紡ぐことになるのです。

「大道芸」「辻講釈」を彷彿とさせるライバー

先ほど述べたように、テキストコンテンツの多様化によって、編集という門番がいる大手メディアを介さずとも、SNSなどで収益化が可能になったことで、直接ユーザーから投げ銭を得られるという「先祖返り」が起こっています。

これはもうお分かりのとおり、紫式部やアリオストのような「寄食者」的な立ち位置への部分的な回帰を想起させるものです。特定の主人に奉仕するのではなく、1000人、1万人規模に分散した主人たちに奉仕する「パトロン2.0」といえる存在でした。

そのような視点で見ると、「出版社は著者のフォロワー数を基準に出版の可否を判断している」といった言説は、この「先祖返り」に伴う「パトロン2.0」的な引力の影響を出版社側も免れない状況になっているといふうに捉えることもできます。

これこそが21世紀におけるパトロン制なのです。18世紀の貴族が詩人を養ったように、現代の小貴族たちはファンダム(コミュニティ)を作り上げ、「推し」の書き手の生活を支えるというわけです。この場合、読者は情報にお金を払うというより、「その人とつながっている感覚」にお金を払うような側面が強くなります。

哲学者のジェフリー・ブレナンとフィリップ・ペティットが「承認経済」(Economy of Esteem)と呼んだ双方向性の魔力です(The Economy of Esteem: an essay on civil and political society/Oxford University Press)。視聴者が「自分に反応してくれること」に期待して、ライバーに課金する構図が好例といえるでしょう。

テキストコンテンツにおいても、投げ銭を募りながら、読者のコメントに反応して話の内容を変えるだけでなく、突如として手の平を返す姿には、近代以前の「大道芸」や「辻講釈」を彷彿(ほうふつ)とさせるライブ感があります。

出版は「ストック(保存)」の文化ですが、ライブ性は「フロー(流れ)」の文化の傾向を持っています。炎上商法でテキストコンテンツを読ませる(買わせる)手法が典型ですが、「その場限りの熱狂を売る」という点では、扇情的な呼び声で通行人の関心を惹き付けた江戸時代の「瓦版」と何ら変わりません。

誰に向けて、何を書くか

閑話休題。「専業ライター」の歴史的な特殊性を精神史として捉えると、前近代は「書くこと」が身分に伴う徳であり、金銭とは切り離されていました。またパトロンを喜ばせるという奉仕者の側面もありました。

明治初期に「書くこと」は商品になったものの、書き手はまだその商売に慣れず、困窮と自尊心の間で揺れ動いていました。大正・昭和は、「書くこと」が産業となり、作家は巨万の富を得るスターと崇められるようになりました。

現代は、「書くこと」がコモディティ化し、再び「何らかの別の価値」とセットでなければ食えない時代へ戻ったといえます。どの時代が「正しい」という話ではありません。書き手のあり方は絶えず変化しているということであり、その必然的な流れを冷静に受け止めなければなりません。

わたしたちが議論すべきなのは、「専業で書く」という身分の希少性などではなく、「誰に向けて、何を書くか」がより切実に問われるようになったことの意味です。しかも、テキストコンテンツにおける物理的な形式、「紙の本」であることの意味もこれまで以上に問われています。近年のZINE(個人制作の小冊子)の流行は、テーマと形式の重要性を再認識させるものでした。

誠文堂新光社の創業者・社長で、大正・昭和の時代を駆け抜けた小川菊松(1888-1962)は、昭和28年(1953年)に上梓した『出版興亡50年』(誠文堂新光社)の中で、「商売である以上、儲かるものなら何でもやりたい。この意欲の前に、出版物ほど多くの魅惑をそそる材料は無い。が、また出版ほど投機性を帯びた、しかも当る率の少い商売もない。たまたま大に当たつて手を拡げた揚句、あとに続く好材料が無かつたら、これまた大きな禍いである」と述べました。にもかかわらず、出版事業に携わる理由は「最高の文化事業」だからと強調しています。

「あれこれ考えると、出版業ほどむつかしい、困難な、割の悪い商売は無い。出版業者の起伏常なく、老大はやがて老衰となり、興亡盛衰共に烈しくて、従つていわゆる『老舗』というものが数少いのはこの為であつて、むしろそうあるべきが出版業の真の姿であり、逃れられぬ宿命であるといえるであろう。それにも拘わらず、我々がこれに興味をもち、愛着を持つて営々と努力するのは、出版業が新聞事業と共に最高の文化事業であつて、何らかの社会奉仕となり、有益な良書を出せば、その業績を残すことが出来ると共に、社会からもこれを認めて貰うことが出来ると思うからである」(同上)

小川の言葉からは、「割の悪い商売」という投機的な側面と、「最高の文化事業」という社会的な側面が同居していることがうかがえますが、書き手にもこの二面性に引き裂かれる心境があることに改めて気付かされます。お金と名声と言い換えてもいいでしょう。

「静かに、孤独に、文字だけを紡ぐ」というストイックな生き方は、ごく一部の作家に許された特権となり、大半の書き手は、アテンション・エコノミー(注意経済)が猛威を振るう中で、デジタル化・インタラクティブ(双方向)化し、個人化していくテキストコンテンツ市場という「鵺」(ぬえ)のようなものと消耗戦を繰り広げざるを得ません。

「読書にカウントされない読書」が増えている

わたしたちが実感している以上に、テキストコンテンツの消費は多様化しています。可処分時間がスマホに溶けている間ですら、確実に「何かが読まれ」ています。それは「読書にカウントされない読書」なのです。その現在地を一律に「劣化」や「退化」という決まり文句で片付けるのはかなり違和感があります。

「脱専業化の時代」とは、「贈与と義務の時代」の美徳と「商業化の時代」の冒険の精神を引き継ぎながら、思ってもみなかった境地へと飛躍することが可能な時代なのです。それは決して荒涼とした風物ではありません。

わたしたちは、絶望するにはまだ早過ぎるのです。

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