信長・家康より家柄が圧倒的に弱い秀吉が天下人になれた理由とは?秀次が整備した近江八幡からなぜ世界的企業が?本郷和人先生と『豊臣兄弟!』の地を歩いて分かった事実
天下人・秀吉ほど“出世”という言葉が似合う人物はいないのではないでしょうか?しかしその成功の裏には、常に弟・秀長という存在がありました。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも描かれている兄弟のバランスこそ、豊臣政権の原動力だったのかもしれません。『豊臣兄弟!』を記事で追ってきた「婦人公論.jp」は“豊臣兄弟原点の地”をめぐるツアーを読売旅行と企画。現地を本郷和人先生の解説とともに歩き、あらためて見えてきたものとは? *前後編記事の後編
<この大河の最重要場面>平伏する大名を前に微塵の笑みもない秀吉・秀長…『豊臣兄弟!』不穏すぎる冒頭シーンがコチラ
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秀吉が”武将”から“経営者”になった地・長浜
二日目、最初に訪れたのは長浜城。浅井氏滅亡後、秀吉が与えられた初めての本格的な居城です。
実はその前日に放送された『豊臣兄弟!』では、まさに長浜城主となった秀吉が、弟・秀長とともに、その天守にて感慨にふけるシーンが描かれていました。
それもあって、宿泊先であるグランドメルキュール琵琶湖リゾート&スパから徒歩で向かう参加者の皆さんのテンションは否が応でもあがっていきます。

(写真:婦人公論.jp編集部)
なお長浜の地で、秀吉はただの武将ではなく“都市を経営する人物”に変わっていきます。
そもそも長浜は琵琶湖水運の要衝で、交通・物流の拠点。秀吉はこの地に商人を呼び込み、町を整備し、人とモノの流れを活性化させていきました。つまり彼は単なる一武将から、経営者へ変化していったわけです。
本郷先生は「信長が長浜を任せたこと自体、秀吉への高い評価のあらわれ」と指摘します。たしかに謀反や離反が当たり前のように起こっていた当時、「この人物なら」という信頼がなければ、重要な交通の結節点を任せることは起こりえなかったでしょう。

(写真:婦人公論.jp編集部)
昨日訪問した、長良川・揖斐川・木曽川が合流する地点に建つ墨俣城もそうでしたが、琵琶湖を見渡す長浜城の立地を眺めていると「なぜこの場所が重要だったのか」が感覚的によく理解できます。
現地に立つと物流や交通、そして政治がつながって見えてくる――。そんな感覚すら覚えます。
秀長や高虎という存在を通して見えてくるもの
次に訪問した高虎公園と藤堂高虎ふるさと館では、秀長に仕えたとされる名将・藤堂高虎について学びます。
高虎は築城の名手として知られていますが、その才能を見出し育てたのが、今回の旅の大きなテーマでもある秀長です。秀吉が前面に立ち、人を惹きつける“表”の存在だとすれば、秀長は背後で調整を行い、組織を安定させる“裏”の存在だった。
本郷先生は「豊臣政権は、この兄弟の役割分担によって成り立っていた」としばしば語られます。実際、後世の史料には「秀吉は厳しかったが、秀長が諸大名との関係を和らげていた」といった記述も残されているそう。
また、信長や家康らに比べても家柄が圧倒的に弱かった豊臣家は、福島正則や加藤清正のように能力のある人物を見出し、優れた家臣に育てることで、その地位を強固にしていきました。
その象徴的な存在が藤堂高虎です。高虎公園近辺の高虎出生の地ではボランティアのガイドさんにお話をうかがいました。

(写真:婦人公論.jp編集部)
そのお話を通じ、高虎は単なる猛将ではなく、秀長らのもとでしっかりと学び、城づくりや空間設計に長けた“実務型の戦略家”となっていったことをうかがい知ることができました。今治や伊賀上野、津など、彼の関わった城はいずれも「どう守るか」だけではなく、「どう人と物流を動かすか」まで考えられていたようです。
75歳まで生きた高虎は、秀長・秀吉の死後は家康に接近。そのまま三代将軍・家光まで仕え、最終的には32万石の大名へと成長します。

ガイドさんとはここでお別れ。ありがとうございました!(写真:婦人公論.jp編集部)
英雄の陰には、必ず組織を支える人間がいる。ガイドさんのお話を通じて高虎について深く知り、見えてきたのは“戦国時代の組織論”そのものでした。
近江八幡で垣間見える“豊臣兄弟の強さ”
最後に訪れた近江八幡は、秀吉の甥・秀次によって整備された城下町。八幡堀を中心に、水運を活かして発展した町並みは現在も美しく残っています。

(写真:婦人公論.jp編集部)
近江と言えば”三方良し”で知られる近江商人で有名ですが、布団の西川やメンタームで有名な近江兄弟社、ここに来るまでに立ち寄ったラコリーナ近江八幡で有名な「たねや」グループ、さらに高島屋もルーツを持つなど、世界的にも有名な企業がこの地で誕生しました。

近江兄弟社さんの本社ショールームにて(写真:婦人公論.jp編集部)
そうした企業の繁栄の背景には、豊臣家が城を築いて町を整備し、商人を呼び込んで経済を動かした、という事実があったのは間違いありません。
長浜から近江八幡へと続く流れを見ていると、豊臣政権が戦国の勝者であるだけではなく、町や国づくりそのものを視野に入れていたことが見えてきます。
あらためて、今回のツアーを通じて強く感じたのは「秀吉はただの“成り上がり者”ではないし、秀長はただの“優しい弟”ではなかった」ということ。人と組織、さらには町を育てて政治や経済を力強く動かす力。天下人へと連なる豊臣兄弟の強さは、まさにそこにあったのかもしれません。
名古屋から長浜、そして近江へ。この旅は、単に“英雄譚”をなぞる旅ではなく「天下人を生んだ仕組み」を体感する二日間となりました。
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