「流転する伝統 修学旅行と文化財観賞の歴史社会学」 [著]菅沼明正

 文化財行政は、2018年の文化財保護法の改正によって、大きな転換期を迎えている。「文化財の保護」から「文化財で稼ぐ」政策への転換である。背景にあるのは、政府の「観光立国」路線だ。しかし、専門家から強い危惧の念が表明されているにもかかわらず、国民の関心はそれほど高くはない。文化財に対する理解を今後一層深めていく必要があるだろう。
 本書は、京都・奈良への修学旅行を主な事例として、「日本の文化的なナショナル・アイデンティティ」がどのようにして形成され、どのように受容され続けていったのかを解明した研究である。分析の対象は、政策や法律、旅行、出版メディア(旅行案内書・ガイドブック・旅行雑誌など)の三領域であり、領域間の相互作用に注目しながら、文化財の鑑賞という形をとった観光旅行が定着していくプロセスを緻密(ちみつ)に検証している。
 通説的理解によれば、小学校の修学旅行は、戦前期に伊勢神宮参拝のための参詣(さんけい)旅行という形で普及した。しかし、本書によれば、それは「発展途上」の段階にとどまっていた。京都・奈良は「日本人の心のふるさと」というイメージの普及とともに、「全員参加」「旅行先の定番化」という日本的特徴をもった修学旅行が定着するのは、戦後の高度成長期のことだった。
 学問上の貢献という点でいえば、本書の最大の成果は、エリック・ホブズボウムの「創られた伝統」概念を発展させたことだ。近代国民国家の文化的・思想的基盤の一つは、その国の「伝統文化」である。近年の研究は、その起源をたどることによって、「伝統文化」が近代化のある段階で形成された「創られた伝統」であることを明らかにしてきた。それに対して本書は、「伝統文化」の起源ではなく、それが社会の変化に対応しつつ受容されていくプロセスそのものに分析の焦点を合わせた。まさに「流転する伝統」である。
 比較史を強く意識したツーリズム分析にも、興味深いものがある。工業化が急速に進展したイギリスでは、労働者の賃金の上昇、労働時間の短縮などの結果、19世紀の半ばには旅行の大衆化が進んだ。後発資本主義国日本では、都市部の労働者層が本格的に形成される前に、農村部からの団体旅行の普及という形で、旅行の大衆化が進んだ。その中心は宗教的実践としての社寺参詣旅行である。日本の場合、人の移動に関する統計的なデータが乏しいため実証面での課題が残るものの、歴史社会学の新たな可能性を実感させる労作である。
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すがぬま・あきまさ 1984年生まれ。九州産業大地域共創学部観光学科准教授(歴史社会学)。博士(政策・メディア)。共著に『鉄道と社寺参詣』、論文に「紀元二六〇〇年における奈良県の『聖地』参拝者像」など。