「一茂くんは例外」ルーキーなのに、禁止されていた“マイカー通勤”を容認される特別待遇…『プロ野球選手・長嶋一茂』のプロ1年目に起きたこと
〈「プライバシー侵害じゃないんですか!」プロ1年目の長嶋一茂を悩ませたマスコミと世間の“ナガシマフィーバー”《1000人以上が取り囲み、ヒットを打てば…》〉から続く
1988年のプロ野球は多くの人が「背番号3の男」に注目していた。その名は長嶋一茂、言わずと知れたミスタープロ野球・長嶋茂雄の長男である。ヒットを打てばラジオが緊急中継、卒業式には記念撮影を希望する1000人規模の行列が……。空前の一茂フィーバーの裏側を、『プロ野球1年目の分岐点 25歳の落合、18歳の大谷』(中溝康隆、PHP研究所)から一部抜粋してお届けする。
【貴重写真】長嶋茂雄氏と、子ども時代の一茂氏

1987年のドラフト会議で2球団競合の上、ヤクルトに入団した長嶋一茂 ©文藝春秋
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プロデビュー戦は「エンペラーがお見えになったのかと思った」と言われるほどの盛り上がり
「一茂は将来ヤクルトの看板を背負って立つ男だから、一軍でエリート教育をする」という関根監督の方針で開幕一軍スタート。待望のプロデビューは4月9日、開幕2戦目の巨人戦だ。マウンド上に立つのは、メジャー100勝右腕のビル・ガリクソン。
1988年当時、日本の好景気を象徴するかのように、多くの大物大リーガーたちが、アメリカの3倍ともいわれる高年俸に魅かれ続々と来日していた。1対4とヤクルトがリードされた8回二死走者なしの場面に代打で登場した一茂は、ファウルが2球続いたあと二ゴロに倒れる。それでも、開場したばかりの真っ白な屋根の東京ドームに集まった超満員の観客たちからは、チームの垣根を越えて球場全体から盛大な拍手が送られた。
そのあまりの歓声に、ガリクソンは「エンペラー(天皇)がお見えになったのかと思った」という。日本テレビの放送席では、父・長嶋茂雄のデビュー相手だった金田正一が「さあ、やってみろ一茂! いけいけ〜ぃ!」なんて絶叫。同じく小さいころから一茂を知る巨人の王貞治監督は、一塁側ベンチから盟友の息子のプロ初打席を見届けた。
「勝負が決まった後だし、ファンのような気持ちで見てたよ。プレッシャーでガチガチだろうに、思い切って振れるのはたいしたもの。球界のためにも育ってほしいね」(『週刊ベースボール』1988年4月25日号)
「長嶋は特別」1年目からマイカー通勤を許可される
開幕後しばらくイースタンの二軍戦で打席に立ったあと、一軍の試合に駆けつける背番号3。待望のプロ初安打も巨人戦のガリクソンが相手だった。4月27日、6回裏一死、代打で登場した一茂は、カウント2-2からの5球目、神宮球場のバックスクリーンにホームランを叩き込んでみせるのだ。
プロ初安打初本塁打の一発に神宮は、まるでヤクルトの優勝が決まったかのような大歓声に包まれる。『週刊ベースボール』1988年5月16日号の巻頭グラビアで、「昭和63年4月27日。そして歴史は始まった…」と特集が組まれ、プロ8打席目の初安打は父・茂雄の10打席目、初アーチにいたっては22打席目を大きく上回ると報じている。
なお数年後、メジャー復帰したガリクソンは、巨人時代の同僚ウォーレン・クロマティから受けたインタビューで、長嶋茂雄が巨人監督に就任したと聞かされ、「知ってるよ、ナガシマなら。彼にプロ入り第1号ホームランを打たれた投手がビル・ガリクソンだよ。このオレだよ、神宮で、ね」と冗談めかして口にしている。
次カードの30日の阪神戦、一茂目当てで試合開始3時間前には神宮球場周辺に1.5キロもの当日券を求める列ができたが、その期待に応えるように「七番・三塁」でプロ初のスタメン出場。左太ももにプロ初の死球を受け、三塁守備のボール回しの送球をポロリと落として場内をわかせた。
そのあまりの人気ぶりに球団も動く。新人はマイカー禁止だったが、一茂が電車に乗ったら騒ぎになるからと新車のソアラの購入を容認。さらに特例で5月の連休中には田園調布からの自宅通勤が許可された。
新人は少なくとも1年間は戸田寮から球場へ通うことがルールだったが、相馬和夫球団社長は「長嶋クンは例外。家に帰れば日本一の打撃コーチがいるんだから」と父・茂雄の指導に期待した。自宅の地下室では、ふたりきりで何百球というティーバッティング特訓が行われたという。
サードを守っていた助っ人には「一茂を出せ」とばかりのブーイングが……
そんなとどまることのない長嶋フィーバーの中で、チームはひとつ問題を抱えていた。全盛期はメジャー屈指の三塁守備と称された37歳のデシンセイの起用法である。開幕戦で東京ドーム公式戦第1号を放ち、翌日も2試合連続のアーチを記録したが、あくまで三塁に強いこだわりをみせるデシンセイは次第に微妙な立場に立たされてしまう。
スタンドからは一茂見たさにブーイングが浴びせられ、右脇腹痛で一塁にまわればスタメン発表でヤクルトファンから拍手がわき起こる。それでも、“デーやん”と呼ばれたジェントルマンは、一茂の先生役を買って出てエールを送ってみせる。
「(一茂は)将来はビッグスターになるはずだ。ボクだってメジャーに上がった当初は、いろいろ戸惑った。彼にも、最初から多くのことを期待するのは難しいと思う。いろんないい選手のプレーを見て、研究して頭にたたき込むことが大切だ。たとえばボクの守備を見ていて、自分はどこが違うのか、勉強してほしいね。彼がスターになるためなら、いくらでも協力したいと思っているんだから」(『週刊ベースボール』1988年5月9日号)
そして、デシンセイは自らが特許を持つ、守備時に手首に付けるリスト・プロテクターを一茂にプレゼントするのだ。だが年齢的な衰えは隠せず、後半戦は一塁で起用され、8月23日の広島戦を最後に椎間板ヘルニアの治療のため帰国。この頃、チームは優勝争いから脱落して若手中心の起用法となり、8月は「三塁・長嶋」が14試合連続のスタメン出場と定着した。
最終的に一茂のプロ1年目の成績は、88試合で打率.203、4本塁打、22打点。大卒ルーキーとしては上々の滑り出しにも思えたが、その後伸び悩み、出場試合数や打点はこの年がキャリアハイとなった。それでも、日本中の注目を集めた長嶋フィーバーは凄まじく、ガリクソンからプロ初ホームランを打った1988年4月27日19時59分の巨人戦ナイター中継のテレビ視聴率は、30.2%まで跳ね上がった。新聞、雑誌が年間を通して追いかけ、メディアへの露出量という意味では、間違いなく球団の新人史上最多だっただろう。
(中溝 康隆/Webオリジナル(外部転載))
