(※写真はイメージです/PIXTA)

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子育て期に選んだ庭付き一戸建て。あのとき「これが最善」と思っていた決断が、59歳になった今、少しずつ違う色に見え始めています。不動産価格の話だけではありません。マイホーム選びには、後から気づく"もう一つのコスト"が隠れています。 FPの三原由紀氏が解説します。

「広さ」を優先した42歳の決断

千葉県在住の田中浩一さん(仮名・59歳)は、都内のメーカーに勤める会社員です。年収は約900万円。妻の美香さん(仮名・54歳)は、現在は地元のスーパーでパート勤務、年収は120万円ほど。長男と次男はすでに大学生で、ともに高校から私立へ進学しました。

田中さんが自宅を購入したのは2009年、42歳のときです。長男6歳、次男4歳。家族4人で暮らす将来を考え、4,400万円の戸建てを購入しました。頭金900万円を入れ、3,500万円を35年ローンで借り入れ。月々の返済は約9万5,000円、ボーナス返済はありません。

当時、田中さんが何よりも優先したのは「広さ」でした。子ども部屋を確保し、庭で遊ばせたい。休日にはバーベキューができる暮らし。内見のとき、庭を駆け回る子どもたちと、うれしそうな美香さんの表情を見て、購入を決断しました。

実はそのとき、千葉寄りの都内エリアにある中古マンションも検討していました。駅に近く、通勤時間は今よりも1時間近く短縮できる物件でした。しかし、専有面積はやや手狭。最終的に「今は子育てを優先しよう」と千葉県央の戸建てを選んだのです。

それから17年が経ち、現在--。住宅ローン残高は約1,900万円。定年後は再雇用で年収が400万円台に下がる見込みです。教育費のピークを越えた今、預貯金は約600万円。退職金は2,000万円程度と見込まれています。

あの決断に、後悔はありませんでした。少なくとも、当時は--。

子どもの進学と、積み重なる「想定外」

状況が変わり始めたのは、子どもたちが進学期を迎えた頃でした。志望校を調べると、選択肢の多くは都内に集中していました。千葉から通えない距離ではありませんが、通学時間はおおむね片道1時間半。定期代は学割があっても月1万5,000〜1万6,000円ほどかかります。

通学可能な範囲で学校を選び、2人とも私立高校から私立大学へ進学。教育費はかかりましたが、子どもたちは納得のいく進路を歩んでいます。それでも、「もう少し都心に近ければ、違う選択肢もあったかもしれない」--そんな思いが頭をよぎったこともありました。

田中さん自身にもさまざまな変化が起きました。最寄り駅は快速停車駅の隣駅。当時は「一駅違うだけで価格が抑えられる」と納得して選びました。しかし都心の勤務先までは片道約1時間半、往復でおよそ3時間。混雑した電車で座れる幸運は滅多にありません。50代に近づくほどに、立ちっぱなしでの通勤が次第に体にこたえるようになりました。

そのうえ、家を購入してから10年を過ぎた頃、会社の拠点再編で勤務地が神奈川寄りのエリアへ変わりました。乗り換えが増え、通勤時間は片道15分増。さらに負担が大きくなったといいます。

コロナ禍が変えた、「通勤」の感覚

さらに大きかったのは、コロナ禍を経験したことです。会社の方針で、約2年間、在宅勤務を経験しました。通勤がない生活。朝起きるのは始業の30分前と睡眠時間はたっぷり、夜も家族と食卓を囲める日々。昼休憩には庭でコーヒーを飲む時間さえありました。

ところが出社が再開すると、通勤が以前よりも重く感じられるようになったのです。「こんなに遠かっただろうか」と思うほどでした。往復3時間半の通勤は、年間にすれば優に800時間以上。丸1ヵ月以上を毎年電車の中で過ごしている計算です。

継続雇用で働く予定なので、リタイアは6年先。「この通勤を、あと何年も続けられるだろうか」――そう考えたとき、定年まで残された時間や、再雇用後に下がる収入のことが、急に現実味を帯びてきました。

そんなとき、ちょっとした好奇心から、かつて検討したマンションの価格を調べてみました。ここ数年の不動産価格高騰のニュースを見て気になっていたのですが、購入当時より大きく値上がりしていました。一方、自宅を査定に出すと、購入時よりやや低い水準とのこと。

もちろん、不動産価格の上昇は結果論です。ただ、田中さんの胸に残ったのは「価格差」だけではありません。「時間を買う」という発想を、当時は持っていなかったのではないか--そんな思いに気がついたのです。

「後悔」の正体と、これからの整え方

田中さんは、「千葉の戸建てを選んだこと自体が間違いだった」と思っているわけではありません。当時は、子育てという明確な目的がありました。子ども部屋を確保し、庭で遊ばせ、家族4人がのびのびと暮らす。その目的に照らせば、「広さ」を最優先した判断は合理的だったと言えます。

では、59歳になった今、胸の奥にくすぶるこのモヤモヤの正体は何なのでしょうか。それは、判断が誤っていたという後悔ではなく、さまざまな変化に、今の住まいが少しずつ合わなくなってきたという違和感です。

勤務地の変更、コロナ禍で在宅勤務を経験したこと、そして自身の体力の変化。往復3時間半の通勤は、年間にすれば800時間以上になります。定年まであと6年。この生活を続けるのかどうか。子どもたちが巣立った後、かつて家族4人で使っていた「広さ」を、夫婦2人でどう活かすのか。

今の住まいは、これからの自分たちの暮らしに本当に合っているのか--。そう問い始めたこと自体が、田中さんの変化を物語っています。

こうした問いに万能の正解はありません。ただ、「家は一生の買い物」という前提をいったん脇に置き、暮らしの優先順位が変わったという事実を認めることが、次の一歩につながります。必要なのは「後悔」ではなく、「再設計」という視点です。それは、住まいを通じて「これからの時間をどう使いたいか」を考え直すことでもあります。

では、何から始めればよいのでしょうか。まずは、現状を正確に把握することです。住宅ローンの残高、退職金の見込み額、そして年金の受給見込み額と毎月の支出。これらを書き出してみるだけでも、「この家に住み続けられるのか」「住み替えという選択は現実的なのか」といった判断の材料が見えてきます。

たとえば田中さんの場合、預貯金600万円、退職金の見込みは約2,000万円、住宅ローン残高は約1,900万円です。大きな余裕があるわけではありませんが、同時に身動きが取れない状況でもありません。売却価格の目安を調べ、完済後にどの程度の資金が手元に残るのかを試算してみる。それだけでも、選択肢の現実味は変わってきます。

59歳は、まだ選択ができる年齢です。こうした揺らぎは、失敗の証ではありません。優先順位が変わったというサインです。あのときの決断を否定する必要はありません。ただ、これからの暮らしに合っているかどうかを、夫婦でいま一度問い直してみる。その対話こそが、老後を安心して迎えるための土台になるのではないでしょうか。
 

三原 由紀
プレ定年専門FP®