石垣元気選手(千葉ロッテマリーンズの公式サイトより)

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 ロッテのドラフト1位、最速158キロ右腕・石垣元気がエース番号の18番をもらい、プロでの飛躍を期している。これまで野茂英雄(近鉄)や森下暢仁(広島)のように社会人、大学出身の即戦力投手が入団時にエースナンバーを背負う一方で、将来性を買われ、高卒1年目から18番を与えられた男たちもいる。ドラフト制以降、18番を背負った高卒ルーキーを振り返ってみよう。【久保田龍雄/ライター】

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まるで予定調和のように

 高卒1年目で堀内恒夫の18番を受け継いだばかりでなく、球団史上最長の21年間も背負い続けたのが、巨人・桑田真澄だ。

 PL学園時代に春夏の甲子園で戦後最多の通算20勝を記録し、夏の甲子園で2度優勝投手になった桑田は1986年、ドラフト1位で巨人に入団した。

石垣元気選手(千葉ロッテマリーンズの公式サイトより)

 球団から希望する背番号を聞かれた桑田は「空いている中で18番にできるだけ近い番号を」と答えたという。いきなり名門球団のエース番号を希望するのは、さすがにためらいがあったようだ。

 18番に近い番号は、前年限りで退団した金城基泰の19番と定岡正二の20番が空いていたが、球団は桑田が遠回しに伝えた希望を叶え、「栄光の18番」を与えた。

 前出の堀内も入団1年目に16勝を挙げ、新人王、沢村賞と結果を出してから、2年目に藤田元司の18番を受け継いでいるが(1年目は21番)、まだプロで何の実績もない桑田にエースナンバーが与えられたのには、次のような事情があった。

 83年限りで引退した堀内は、18番を江川卓に譲るつもりだったという。だが、江川が固辞したため、コーチになった翌84年も18番を着け続け、シーズン途中で73番に変更、以来、18番は85年まで空番だった。

 球団創設以来、18番が途切れたのは戦時中を除いてこの時期だけ。そこへまるで予定調和のように桑田が巨人に入団し、1年目から18番を着けたのは、まさに運命的な巡り合わせと言うしかない。

 桑田は在籍21年間で通算173勝14セーブを記録し、87年と02年に最優秀防御率(87年は沢村賞も受賞)、94年に最多奪三振とMVP、98年には最高勝率に輝き、巨人のエースにふさわしい実績を残した。

マー君 神の子 不思議な子

 高卒1年目から18番を着けて、見事新人王を獲得したのが、西武・松坂大輔と楽天・田中将大だ。

 横浜高時代の1998年に甲子園で春夏連覇を果たし、“平成の怪物”と呼ばれた松坂は、郭泰源退団後に空番となっていた18番を着け、1年目に16勝を挙げて新人王とともに最多勝利のタイトルも獲得。以後、01年まで3年連続最多勝利を記録した。

 日米通算170勝をマークした松坂は、現役最後の2年間は古巣・西武に在籍したが、当時の18番は多和田真三郎だったため、16番を着けていた。

 だが、現役最終年の2021年は、多和田が背番号118の育成契約になり、10月の時点で18番が空いていたことから、引退登板となった10月19日の日本ハム戦では背番号18に登録変更し、思い出深きエースナンバーで有終の美を飾った。

 一方、駒大苫小牧高2年夏の甲子園で優勝投手になり、3年夏も準優勝投手の実績を持つ田中も、1年目の2007年に球団史上初の二桁勝利(11勝)を記録し、野村克也監督からその強運ぶりと神がかり的な力を「マー君 神の子 不思議な子」と称えられた。

 その後も13年に24勝0敗の勝率10割で、最優秀防御率と併せて投手三冠に輝くなど、18番を楽天のエースナンバーに定着させ、巨人移籍後の昨年9月30日の中日戦で日米通算200勝を達成した。

 「甲子園のスター」といえば、1969年夏の甲子園決勝戦で延長18回引き分け再試合を演じ、準優勝投手になった近鉄・太田幸司も18番だった。

 1年目は1勝しか挙げていないのに、オールスターファン投票で1位選出されるなど(72年まで3年連続1位)、実力より人気が先行したが、5年目(74年)に初の二桁勝利を記録。ようやく実力が追いついた。

偉大なる先輩たちに続くことができるか

 2018年夏の甲子園準優勝投手、吉田輝星も、日本ハム時代は通算3勝9敗5ホールドとドラ1の期待に応えられなかったが、新背番号「23」で仕切り直しとなったオリックス移籍1年目の24年に4勝14ホールドと存在感を示した。

 甲子園組では、石垣のロッテの先輩にあたる伊良部秀輝も、1988年にドラフト1位で入団すると、前年まで石川賢(大洋に移籍)が着けていた18番を受け継ぎ、1年目に1軍デビュー。当時は“村田兆治2世“と呼ばれた。93年に当時の日本最速158キロをマークし、94年に15勝で最多勝のタイトルを獲得し、日米通算106勝を記録した。

 異色なのは、1984年にドラフト1位で阪急に入団した阪急・野中徹博だ。肩や肘を痛め、6年目に野手に転向、背番号も「0」に変わったが、89年限りで自由契約となり、一度は現役を引退した。

 だが、草野球チームでプレーしたことがきっかけで、93年に台湾プロ野球の俊国で現役復帰。15勝4敗1セーブの好成績を手土産に、94年に中日入りし、ヤクルト時代の97年に阪急入団から14年目にしてプロ初勝利を手にした。

 エースナンバーの重圧に苦しんだ投手も多い。

 阪神のドラフト1期生の“隠し玉”1位・石床幹雄は、入団4年目の1969年10月12日の大洋戦でプロ初勝利を挙げた直後、慢性腎不全と判明し、志半ばで球界を去った。

 1977年にドラフト1位でヤクルトに入団した酒井圭一は、“サッシー”の異名をとる剛腕だったが、14年間で通算6勝と大成できずに終わった。同じくヤクルトでは、2017年に入団したドラ1左腕・寺島成輝は、在籍6年で通算1勝3ホールドと伸び悩んだ。現役では5年目を迎えたDeNA・小園健太も今季が正念場となる。

 入団発表の席で「球速170キロを投げて日本中を驚かせたい」と堂々と宣言した石垣が偉大なる先輩たちに続くことができるか注目したい。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新著作は『死闘!激突!東都大学野球』(ビジネス社)。

デイリー新潮編集部