劇場版『チェンソーマン レゼ篇』©2025 MAPPA/チェンソーマンプロジェクト ©藤本タツキ/集英社

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 そういえば2024年に開催された「ジャンプフェスタ2025」で、劇場版『チェンソーマン レゼ篇』(以下、『レゼ篇』)は2025年の“台風がくる頃”に公開されることが発表されたが、いざ映画を観終わると、“夏が終わる頃”のニュアンスのほうが印象として残っている。恋・祭・ファイヤーワークス。それぞれが美しく、儚く描かれた本作は、大人気漫画の劇場版として以上に、一本の映画としてあまりにも完成されていた。

参考:『チェンソーマン』予想を超える大ヒット 実は「恋愛映画」として若年層に受けている!?

 全国421館にて公開され、公開初日は観客動員数27.2万人、興行収入4.2億円を突破。『レゼ篇』は公開6日間で20億を達成し、『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』のV10を阻止したことを含め大ヒットを記録していることは自明である。2022年に放送されていたアニメ『チェンソーマン』第1期の直接的な続編の立ち位置にある本作。本来なら続きものはそれだけで新規の鑑賞者にとって抵抗を感じる要素だったように感じるが、昨今の劇場版『鬼滅の刃』の盛り上がりを観ていると、それが物語の途中だとしても話題性を優先して初見でも鑑賞する観客が増えたような印象だ。

 それに、この『レゼ篇』は本作からストーリーに触れる者にとっても十分に感情を震わせる、まさに原作の中でも“映画化向き”なエピソードと言える。ヒットの要因はたくさん考えられるが、端的に本作がアクションエンターテインメントとして、そして“恋愛映画”として高い完成度を誇っているからではないだろうか。特典も早々に配布が終了したにもかかわらずリピーターが多いのも、一度では消化しきれない戦闘シーンはもちろん、結末を知った上で再び主人公のデンジと本作におけるヒロインのレゼ、2人の感情をなぞりたいと思うからではないか。そう思わせる彼らの切ない物語を、本稿ではその演出も含めて振り返りたい。

※本稿には劇場版『チェンソーマン レゼ篇』の結末、および漫画『チェンソーマン』第8巻までの内容を含むネタバレが含まれています。

・最初から支配(監視)されていた世界で

 本作は、米津玄師によるオープニング曲「IRIS OUT」の軽快なメロディに合わせて、早川家を中心に物語の登場人物たちの朝の様子が描かれる。しかし、注目すべきはあらゆる場面に映り込む“小動物”の存在だ。

 映画のラスト、レゼが衝撃的な死を迎えるシーンで小道に入った瞬間大量のネズミが湧いて出てくる。そこからマキマが、デンジとレゼが2人きりの時に話したはずのイソップ寓話「田舎のネズミと都会のネズミ」の話をしながら姿を現すのだ。この描写だけで察することができるかもしれないが、その後の展開を描いた原作第8巻67話でマキマがネズミや鳥などの下等生物の耳を借りることができると明かされる(その他の状況を踏まえると目も使えることが推測される)。つまりこのオープニングは、“これから始まる彼らの1日(そしてこの物語)が、すでにあらゆる場所からマキマによって監視(支配)されたもの”であることを示唆するのだ。

 実は映画オリジナルのカットとして、デンジとレゼがネズミの話をしている時に“屋外”から窓越しにくぐもった2人の会話を捉えるようなものがある。これこそ“外から何者かが聞いている”ことを意味し、それがマキマの使役した何かの生物だったことが考えられるのだ。映画オリジナルの要素としてもう一つ、デンジとレゼがプールではしゃぐ場面にも下等生物が登場している。蜘蛛の巣に囚われた蝶と、それを捕食する蜘蛛だ。これは一見、ハニートラップを仕掛けるレゼと、まんまと術中にはまるデンジを暗喩しているように見えて、本当は自分こそまんまとデンジの人間的な魅力にハマってしまったレゼを意味しているように感じる描写なのだが、そもそも“マキマの目”だった可能性も考えると、心底ゾッとしてしまう。

 同じく映画のオリジナルとして、デンジとレゼが出会った電話ボックスの外には“猫”がいた。そして猫といえば、デンジがレゼと逃げるための荷造りをし、家を出る様子の一部始終を見ていた存在がいたことにお気づきだろうか。パワーの飼い猫のニャーコだ。デンジがレゼと逃げ出そうとしていることがわかれば、その後は街中でデンジを追えば自ずと合流場所なんてわかってしまうだろう。

 「まるでこの世界で2人だけみたいだ」と、夜中に忍び込んだ学校やプールの思い出も、思い描いた未来も、実は2人だけのものではなかったと明かされるその残酷さ。レゼにとって、かけがえのないその時間が「少しだけ見てしまった夢」であることを突きつけるラスト。そんなふうに、映画は原作より画面の中に映り込む生物を強調することで、彼らがどれだけマキマ(大人)の監視と彼女の支配する筋書きの中で各々の想いを育んだのか、理解できるようになっているのだ。

・花言葉から滲んだ想い

 2人の想いは、劇中あらゆる物やメタファーで表現される。特に彼らの恋を儚く彩ったのがガーベラの花だ。実はデンジが初対面のレゼにプレゼントするのは、原作ではのちにレゼが募金のお礼に貰うのと同じ“赤い”ガーベラだった。しかし、今回映画で“白い”ガーベラに変更されている。白いガーベラの花言葉は「希望」「純潔」。さらに本数でも意味が変わり、1本は「一目惚れ」「あなたが私の運命の人」という花言葉になるのだ。

 まさに恋も愛も知らないデンジがレゼに一目惚れをした、そんな意味が込められた電話ボックスのシーン。一方、“赤い”ガーベラの花言葉は「限りなき挑戦」「燃える神秘の愛」「前向き」といった意味があり、レゼが“同じくその一輪”を胸に新幹線に乗らなかったことは、困難を覚悟でマキマを含む全てと相対してもデンジと逃避することへの挑戦、覚悟の表れなのだ。そしてレゼが受け取ることができなかった、デンジが彼女のために用意していた花束。そこに目立つように差し込まれていた“ピンク”のガーベラの花言葉は「感謝」や「崇高な愛」という意味がある。これには本作の冒頭で「自分には人の心が残されているのか」疑問を抱いていたデンジに、「私が全部教えてあげる」と言って夏祭りや学校だけでなく、恋の感情や初恋など“彼に人の心があること”を教えてあげたレゼに対する彼からの感謝の意を表しているのではないだろうか。

 原作では彼が花束を持って座っている後ろ姿がカフェの外からは見えない。しかし、映画では血溜まりの中で倒れるレゼの視線の先に、花束を持つ彼がいた。受け取ることはできなくても、少なくとも最期にそれを見ることができただけで、原作よりも救いのあるラストにはなっているのかもしれない。それでもデンジが最初にレゼに渡し、カフェで一輪挿しとして飾られていた白いガーベラは、最後の花びらを散らせる前に片付けられてしまった。マスターが花を下げる描写も映画オリジナルで、2人の一目惚れから始まった恋が彼らの望む形で終わりを迎えることができない、そんな無力さを感じさせるのだ。

・“恋に落ちて死んだ”

 彼らが忍び込んだ学校の廊下に印象的に飾られていた絵画「ダフニスとクロエ」のように、孤独な少年少女が出会って恋に落ちるこの物語を牽引してきたのは、レゼの無自覚的なデンジへの想いだった。彼はこれまでも複数の悪魔や刺客から心臓を狙われており、本人も辟易としている。しかし、心臓を狙ってくる奴らはみんな彼を「チェンソー」などと呼ぶのに対し、レゼはボムの姿になっても「デンジくんの心臓貰うね」と、一貫してデンジの名前を呼び続けていたのだ。

 彼女はずっとデンジの心を求めていた。それが課せられた任務だと思っていても、本人にさえなぜ出会い頭に殺さなかったのか説明がつけられない。レゼの境遇を考えると、男の子から花を貰ったことも初めてだったのではないだろうか。デンジから受け取った瞬間、彼女が嬉しそうにその一輪を持つカットが印象的だが、その瞬間デンジからの想いを示していたはずの白いガーベラは、彼女の想いを表すものにもなっていたのだとしたら。

 そんな少女の頭上を劇中に2度、飛行機が飛ぶ。これも原作にはない描写だ。一度は屋上で殺人鬼を殺した際とても近い距離を飛行機が飛ぶ。これから着陸しそうなその飛行機は“入国”を意味し、なぜこの国に来たのか、その理由を彼女に思い出させるようなものとして機能していた。一方、浜辺で空を見上げた時に通過する二度目の飛行機は高い位置にあり、“出国”を思わせるのだ。「どこか2人で別の場所に逃げよう」そんな希望を意味するかのように。

 しかし、そんな夢想も叶わず路地裏で“天使”の悪魔が放った矢に胸を射られて絶命したレゼ。「キミに会ってからの表情も頬の赤らめも全部嘘だよ」と言っていたが、彼女がデンジにキスをした時、彼の舌を噛み切って自分の舌に乗せて見せるシーンが“二枚舌”……つまり彼女の発言に矛盾があったり嘘があったりすることをすでに示唆していた。レゼ自身でさえ、喫茶で待つデンジの背中を見つめながら自問していたように、彼女は無意識に彼のことを本当に好きになっていたのだ。その象徴として、想いを“自覚”した瞬間、天使(キューピッド)にハートを撃ち抜かれる最期は、文字通り彼女が恋に落ちたことを意味すると同時に、それが原因で死んでしまったことを表していて、なんとも悲劇的だ。

 〈矢を刺して、貫いて、ここ弱点?〉

 OP曲の「IRIS OUT」はアップテンポで軽快でありながら、この歌詞で残酷なレゼの最期に触れている。彼女の人としての心が弱点となってしまったことは、皮肉にも本作の命題を鮮やかに浮かび上がらせる。すなわち、「デンジには人の心があるのか」という問いだ。物語の出発点で彼が自問したこの疑念は、レゼが“心を持ってしまった”がゆえに破滅へと導かれる姿によって、思いがけず逆照射される。しかも、本質的にデンジに心があることを教えたのはレゼなのに、それを本人に口頭で伝えたのが、よりによって彼女を殺したマキマであることに頭を抱えたくなる。

 そんな巧みな構造の脚本に舌を巻くと同時に、やはり『レゼ篇』とは“2人に心があったからこそ生まれてしまった悲劇”であることを改めて突きつけられ、本当にやるせない気持ちになってしまうのだ。

・“呪い”は残り続けていく

 初恋は、実らないとよく言われる。それゆえか、ずっと心のどこかに残り続けるものでもあって、それはまるでその人にとっての“呪い”だ。デンジにとってのマキマに対する想いが恋情ではないことが原作者の藤本タツキから明かされているが、詳しいことはここで触れるのを控えよう。つまるところ彼にとっての初恋はレゼで、同じように幼少期にソ連軍の弾薬庫に存在する“秘密の部屋”で自由を与えられることもなく、「モルモット」として国家に尽くすためだけに生きるよう育てられた彼女にとっても、デンジが初恋相手だったはずだ。

 後半でダイナミックに描かれる戦闘シーンは、レゼの使う色鮮やかなボムが2人で見た花火を思わせるように、お互いの恋心をぶつけ合い、まるで呪いあうかのような激しさを持つ。それを終わらせるためにデンジが行ったことが、チェーンをレゼに巻きつけ、“抱きしめる”行為だったことは見逃せない。“抱きしめる”ことはその後の『チェンソーマン』の物語でも重要な動作で、デンジが学んでいく人の愛し方でもある。その一歩を誰かに教わる前に踏み出していた、それくらい彼の精神的な成長が描かれる点でも素晴らしい『レゼ篇』。

 デンジにとって、レゼとの強烈な初恋体験は忘れられないものとなり、これから先の展開で“どんどん積み重ねられていく絶望”の序章とも言える“呪い”として彼の心の中に居座り続ける。一方で、私はいまだに砂浜で「一緒に逃げよう」と言うデンジに歩み寄り、2人がキスをしそうでしなかった、あの繊細な瞬間が忘れられない。

(文=アナイス)