東武東上線から東京・光が丘へと伸びる軍用線が存在した 戦後計画された東武鉄道の通勤線化はなぜ頓挫したのか

東京都板橋区の南西部に位置する東武東上線上板橋駅。かつてこの駅から陸軍の施設へと伸びる専用線が存在した。戦後はGHQに接収され、光が丘地区(練馬区)にあった成増飛行場(のちの米空軍家族住宅グラントハイツ)まで線路を伸ばし、池袋から米軍専用の列車が走ったこともあった。今なお存続していたならば、地域に根差した鉄道路線として活躍したことであろう。戦後、東武鉄道による通勤路線化が計画されたものの、なぜ実現に至らなかったのか。線路の痕跡をたどりながら、その歴史を紐解いてみたい。
※トップ画像は、軍用線をゆく蒸気機関車がけん引する貨物列車。これは戦後に撮影されたもので、戦時中は“軍事機密”ゆえに当時の写真は残されていない=1954年ころ撮影、写真提供/練馬区
軍用線のはじまり
現在、陸上自衛隊練馬駐屯地のある場所には、戦前まで大日本帝国陸軍の東京第一陸軍造兵廠(ぞうへいしょう/軍直轄の武器や弾薬等を製造する軍需工場)に付属する倉庫があったところだ。
先の大戦が戦況悪化への一途を辿っていた1943(昭和18)年になると、この練馬倉庫と東武東上線の上板橋駅を結ぶ2.9kmの軍用線が開通し、池袋駅付近を走る鉄道省赤羽線(現JR埼京線)から乗り入れてくる鉄道省の蒸気機関車と貨車による軍事物資輸送がはじまった。

GHQによる接収
1945(昭和20)年に先の大戦が終わりを告げると、連合国軍総司令部(GHQ)により、陸軍練馬倉庫は接収され、同時に上板橋駅から伸びていた軍用線も接収の対象となった。さらには、現在の光が丘地区にあった大日本帝国陸軍の「成増飛行場」も接収の対象となった。
接収後まもなく米軍の駐留がはじまり、上板橋から伸びる軍用線も、GHQの指示により成増飛行場まで延伸することになった。線路の敷設工事は、当時の運輸省(のちの国鉄→現JR)が行い、列車の運行は東武鉄道に委託された。
1946(昭和21)年3月25日、米軍専用線として上板橋駅〜練馬倉庫駅〜啓志駅の全線6.3kmが開通した。駅名にある「啓志(けいし)」とは、成増飛行場に造られた駅名なのだが、GHQ工兵部門のトップであった「ヒュー・ジョン・“ケイシー”少将」の名前を冠したもの(諸説あり)で、漢字は“当て字”といわれる。啓志駅は、現在の練馬区立光が丘秋の陽(あきのひ)小学校の北側にあったとされる。
路線名も同様に「啓志線(けいしせん)」と呼ばれたが、これも正式な路線名ではなく通称に過ぎない。史実としては、書類上に「専用側線」または「側線」とだけ記されている。開通当初は、米軍の物資輸送行う貨物列車が中心となっていたが、米軍関係者の輸送(旅客列車)も行われていたという。

グラントハイツ建設
成増飛行場の地には、米陸軍家族住宅が建設されることになり、1947(昭和22)年3月からその名称を成増飛行場(成増住宅とも呼ばれた)から、「グラントハイツ」に改めた。この“グラント”とは、第18代アメリカ合衆国大統領ユリシーズ・“グラント”氏の名を冠したものだった。
同年4月からはじまった米軍家族住宅の建設によって、軍用線の駅名も6月から啓志駅から「グラントハイツ駅」へと改称した。この建設は1948(昭和23)年まで続き、その資器材輸送も軍用鉄道の目的の一つだった。蒸気機関車がけん引する貨物列車は、頻繁に行き来したという。
1947(昭和22)年12月からは正式に、米軍関係者向けの“乗客輸送”もはじまった。グラントハイツ駅を出発した列車は上板橋駅を経由し、東武東上線に乗り入れて池袋駅までノンストップで結んだという。車両は、運輸省(のちの国鉄)から借り入れたガソリンカー(気動車)を使用した。ゆくゆくは、池袋から鉄道省山手線(のちの国鉄線→現JR)へ乗り入れて、東京駅まで直通運転する計画だった。しかし、その後の乗客の伸び悩みもあって断念している。


短命に終わった乗客輸送
通称「啓志線」と呼ばれた米軍専用鉄道は、グラントハイツが完成し、建設資材輸送が終わりを迎えると、米軍の物資輸送のみに縮小され、貨物列車の運転本数は減少した。それと同時に、米軍関係者の利用も減少し、鉄道省から借り入れていたガソリンカー(気動車)も3か月足らずで返却している。1948(昭和23)年2月、米軍専用線から乗客輸送は姿を消した。
貨物輸送を細々と行っていた啓志線であったが、1950(昭和25)年6月にはじまった朝鮮戦争によって、米軍士官などの関係者らが啓志線の利用を熱望したため、乗客輸送は復活した。この利用は、朝鮮戦争が休戦となった1953(昭和28)年以降もしばらく続いたという。国鉄線から蒸気機関車がけん引する客車列車が、そのまま乗り入れていたとされる。
1957(昭和32)年8月には、いよいよ啓志線の運行は“停止”された。おそらくこのタイミングで啓志線は接収解除となったのではないかと思われるが、明確な資料の発見には至っていない。グラントハイツの接収についても、1954(昭和29)年以降から一部の建物などで接収が解除されている。1959(昭和34)年になると、グラントハイツに住む米軍関係者は、立川や横田といった他の米軍航空基地へと転居していった。これに合わせるように、同年7月22日に啓志線は廃止された。この廃止時点での正式な路線名は、「グラントハイツ専用側線」であった。

通勤路線化を目論んだ東武鉄道
1959(昭和34)年7月22日に廃止となった通称「啓志線(グラントハイツ専用側線)」は、東武鉄道が「将来の通勤路線」として買収を目論んだ。その動きは、廃止になる1か月前の6月22日に上板橋(板橋区)〜田柄町(練馬区)間4km182mの「地方鉄道免許申請」を運輸大臣あてに提出していた。
ここに出てくる「田柄町」とは、グラントハイツ正門より約700mほど上板橋駅寄りにある田柄2丁目付近のことで、米軍の接収下にあったグラントハイツには乗入れないものとなっていた。建設予定費は2億990万円で、電車による運行(電気鉄道)を行う計画だった。
ところが、この申請は2年後の1961(昭和36)年8月29日に取下げられた。その理由には、次のことが書かれていた。「地元一部地主は、土地売却の意思は全然なく、強硬な反対にあったため、用地買収は不可能となった。」とあり、通称「啓志線」と呼ばれた線路用地のほとんどは、大日本帝国陸軍時代の軍用線やGHQによる“接収”によって、なかば強制的に供出させられた土地だったのであろう。「民営鉄道化」するには、用地買収が絶対条件だった、という訳だ。
この結果、“側線”の財産を管理していた東京調達局(大蔵省)は、「原状復元やむなき(土地を地主に返す)」という結論に至り、東武鉄道は「側線払下げ」の申請を取下げたのだった。これを受けて、東京調達局は翌年の1962(昭和37年3月までにグラントハイツ専用側線のレールなどの設備撤去を、陸上自衛隊第101建設隊に要請して完了させた。
もし、この計画が実現していたならば、光が丘地区をはじめ”啓志線”の沿線における交通事情は大きく様変わりしていたことだろう。


廃線跡をたどる
路線廃止から66年、レールを撤去しての原状復元からも63年が経過した今。既に沿線の風景は一変し、地元で「田柄たんぼ」と呼ばれていた長閑な光景も住宅地へと生まれ変わっているのが現状である。その痕跡を探すことは、線路用地跡を探すことくらいしかできまい。そう思いつつ、旧地図を手掛かりに“啓志線探訪”へと出かけた。
まずは、上板橋駅の周辺からスタートした。廃線跡をグラントハイツ方向に向かって歩き、旧「上板橋駅北部信号所」付近を目指した。この付近は、当時から3本のレールが敷かれたヤードのような構造だった。そのため、用地そのものが大きかったこともあり、跡地にはマンションが建っていた。これに寄り添う道路は、線路跡ではないものの、線形に沿っているため”鉄道心をくすぐる曲線”を描いていた。


閑静な住宅街を線路跡を探しながら歩いていると、ほとんどの線路敷跡には住宅が建っており、敷地(更地)のまま遺されているところは皆無だった。仮に線路跡に建つ個人宅の写真を載せたところで、ここに鉄道が走っていたことなど言われなければわからない。もっとも、旧地図を見ながら住宅街を歩き回っていること自体が、単なる不審者と思われてもおかしくない世の中である。この先はあえて、踏切のあった路地や、アパートが建っているところだけを写真で紹介したいと思う。
踏切跡は、まず旧川越街道の場所へ行ってみた。板橋区上板橋2丁目に位置する踏切跡の周囲には、住宅や店舗が建ち並んでいた。旧地図で追う限り、赤い軒先の建物から斜めに道路を横断していたようだ。さらに住宅街を線路跡をたどるように進むと、周囲の街並みに比べると建物の向きが不自然なものが目についた。間違いなく線路敷跡に建てられたものだろう。
川越街道を越えた練馬区錦2丁目に建つアパートも、周囲の建物と向きが異なり、ここが線路敷跡であることは一目瞭然であった。


“短命に終わった乗客輸送”の項で使用した「踏切」の場所を追い求めて、さらに住宅街を歩き続けた。写真に見るカーブミラーの手前あたりに踏切があったようだ。この辺もかろうじて、線路跡を旧地図から追うことができた。


「田柄たんぼ」と呼ばれたあたりは、ほぼ農地から宅地へと転換されていた。そんな中でも線路跡に建つアパートを田柄2丁目で見つけ出すことができた。しかし、そうとはいえ興味のない人からみれば、単なる建物の写真に過ぎない。虫食いのように残された線路敷は、ここ以外に見つけることはできなかった。軍用と接収という複雑な歴史のなかで跡形もなく消え去った廃線跡は、難解極まりないものだった。




文・写真/工藤直通
くどう・なおみち。日本地方新聞協会特派写真記者。1970年、東京都生まれ。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物に関連した取材を重ねる。交通史、鉄道技術、歴史的建造物に造詣が深い。元・日本鉄道電気技術協会技術主幹、芝浦工業大学公開講座外部講師、日本写真家協会正会員、鉄道友の会会員。
