『紅楼夢(こうろうむ)~運命に引き裂かれた愛~』©2023 上海金徳影業有限公司 福建龍泰金徳文化伝媒有限公司 国安文化伝媒(北京)有限公司 国恒時尚伝媒科技集団 保留所有版权

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 中国の「四大名著」として、『西遊記』、『水滸伝』、『三国志演義』と並ぶ、『紅楼夢』。没落した貴族の曹雪芹によって書かれた、この物語は、「中国の『源氏物語』、『ロミオとジュリエット』」と例えられるように、中国文化の多様性を示す、貴族社会の“洗練”された“女性的”な顔を持っている。

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 その内容には、どこまでも考察できる深みや、読むたびに新しい発見が生まれる広がりが存在し、世界の文学作品のなかでも際立って、ハマると抜け出せない要素が詰まっているといえる。その映画版となる『紅楼夢 ~運命に引き裂かれた愛~』は、116分にその長大な内容をギュギュッと圧縮した一作である。

 もちろん、この上映時間で『紅楼夢』という文学の魅力を全て表現することは難しい。しかし、その真髄部分が描かれた本作『紅楼夢 ~運命に引き裂かれた愛~』の厳選されたエピソードの数々を観ることで、長い物語がいったい何を描いているのかを、絢爛豪華で流麗な映像を楽しみながら理解できるのだ。これが、映画版ならではの強みである。

 ここでは、そんな本作の内容や、映画を一度観ただけでは理解しづらい部分を解説し、物語の感動を深めるとともに、現在の視点だからこそ感じられる『紅楼夢』の新しい魅力を読み取っていきたい。

 本作の主な舞台となるのは、政府直轄の都市「順天府」の一部にある、巨大な邸宅や「大観園」という庭園がある、「栄国府」と称される貴族の自治領だ。そこでは、賈(か)家という政府の高官の氏族と、身を寄せる親族、管理者や奉公人、出入りの業者などによって、一つの社会が成立している。壮大なコミュニティのため、親族同士での結婚や恋愛も珍しくない。

 本作の主人公・賈宝玉(か・ほうぎょく)は、賈家の当主・賈政と王夫人の間に生まれた、美しい容姿の次男。家名と家の繁栄のためにエリート役人になる条件である難関試験・科挙の勉強に精を出さなければいけない立場だが、彼は押し付けられる勉強が嫌いだ。詩や音楽、ファッション、香やお茶など、男性社会では役に立たないと考えられていた、女性的な教養、文化の方に親しんでいた。

 しかし、賈家の精神的支柱である賈母・史太君は風流を愛する文化人で、宝玉を甘やかしかわいがっていた。宝玉はその庇護のもとで人々から王子様のように扱われ、気ままな生活を続けている。本作では彼が賈家の蔵書に親しむ場面があるが、そこで読む書の多くが科挙とは関係のないものであるからこそ、宝玉はその豊かな文化的世界に没頭することになる。そして、楽園のような「大観園」で詩作をする少女たちと一緒に過ごしたり、恋愛をしさえするのだ。

 現代の日本でいえば宝玉は、東大の試験や司法試験への合格が期待されながら、教科書や参考書に集中して机にかじりつくタイプではないということ。女子と遊んだり、バンド活動をしたり、小説やファッション誌を読んで日々を楽しんでいるような青年なのである。

 宝玉は栄国府で数々の女性と出会い、とくに父方の従妹で幼なじみの林黛玉(りん・たいぎょく)、宝玉の母方の従姉である薛宝釵(せつ・ほうさ)と恋をするなど、天性の“モテ男”であるが、それでは「プレイボーイ」なのかといえば、そうとも言い切れない。彼の“モテ”は恋愛術によるものでなく、女性的な文化に親しんだことで、女子の心理や考え方を理解して寄り添うことができる、自然な所作や態度からくるものなのだ。

 そういった意味において、賈宝玉というキャラクターは、現代でこそ再評価される性質を持っているといえる。女性に寄り添う共感性、“男らしさ”という枠に縛られない感受性、男性社会の秩序に染まらない文化的基盤を持った彼は、ジェンダーによる差別が問題と考えられるようになってきた現代社会において、一つの進歩的男性像といえるのかもしれない。

 そんな宝玉と恋愛関係になる林黛玉や薛宝釵は、詩作の才能に優れた文学少女たちだ。そして、卓越した感性に惹かれる宝玉だからこそ、彼女たちの才能を理解し、評価できるのだ。とくに林黛玉の詩のセンスはずば抜けていて、宝玉と互いに心の奥底で響き合う、他には代え難い存在になっていくのである。この賈宝玉と林黛玉の精神の結びつきとラブロマンスこそが、『紅楼夢』の本筋だといえるのだ。

 約390名というおびただしい数の人物が登場する『紅楼夢』は、よく最初に読むときに混乱するといわれる。だが極論をいえば、賈宝玉と林黛玉、そして三角関係となる薛宝釵、それから宝玉の近親者を最低限把握すれば、本筋の内容は理解できるのである。

 しかし、それでも本作には印象的な女性キャラクターが登場する。その一人が王熙鳳(おう・きほう)だ。彼女は栄国府の経済や人間関係を仕切る実力者で、権力と美貌を兼ね備え、ときに冷徹にものごとを判断する人物。そして、そんな王熙鳳を感心させた存在が、遠い縁戚だという理由で田舎から生活の援助を求めて彼女の前に現れた劉(りゅう)婆さんだ。劉婆さんは、貧しいながら機知とユーモアに富む人物で、持ち前の才能を発揮して王熙鳳から援助を引き出すことに成功する。

 繊細な感性を持つ林黛玉。慎ましい性格で多くの人に慕われる薛宝釵。彼女たちは重要なキャラクターではあるが、まだ年若い文学少女だ。そこに、実質的な家長の賈母、王熙鳳、劉婆さんという、さまざまな個性や能力を持った人物たちが登場することで、封建的な中国・清朝の時代にあっても、各階層で女性の役割や性質に多様性や魅力があったことが理解できるのである。

 そして、この多様な女性たちの存在が、『紅楼夢』に立体的な魅力を与えてもいるのだ。本作を手がけたフー・メイ監督も、女性として多くの歴史大作をつくりあげてきた才人だ。彼女がそれらキャラクターを忘れずに登場させたということには、大きな意味があるといえよう。

 さらに注目したいのは、VFXを駆使した大スケールの風景と、地理的要素である。本作の物語は、林黛玉が中国南部、江南地方から栄国府にやって来ることで動き始める。「南船北馬」と言うように、中国の南部は水が豊富で、河や水路を船で移動する機会が少なくない。筆者は過去に中国の江南地方のさまざまな都市を巡る旅をしたことがあるが、過去の面影を残す景観や歴史的建造物、庭園の美しさは、息を呑むほどだった。

 政治の中心地である順天府が、権威や権力が集中し、官僚的な価値観が支配する“男性的”な場所であるとすれば、江南は文化、芸術が栄えた、当時の意識としては“女性的”な場所だといえるだろう。賈宝玉は、幼い頃に「女は水でできていて、男は泥でできている。女を見るとせいせいし、男を見るとむかむかする」と発言していたと原作にある。

 それは単に男女の身体のイメージにとどまらず、立身出世など功利主義的な考えにばかりとらわれている当時の男性の世界と、豊かな感性が求められた女性的な世界の対比であり、ひいては中国の地理的なスケールとしても理解できるのである。

 本作で描かれる庭園「大観園」の澄んだ池や花々の美しさは、政治の中枢に近い場所でありながら、むしろ宝玉や黛玉が愛する、江南の女性的な美しさを象徴しているといえる。本作で際立って美しい、賈母を中心とした少女たちの「詩会」における、提灯の光に照らされた幻想的な光景もその代表といえよう。さらには、雨のシーンが多く、天候の面で“水”を感じさせるのも、『紅楼夢』が女性の感性を表現する作品であることを裏付ける。

 このような奥行きや、感性主体の造りであることこそが、『紅楼夢』が長く人々に愛され、研究される理由だといえる。そしてさらに読む者を迷宮に誘うのは、「太虚幻境」という天上の世界の存在である。本作では、夢のなかで宝玉がその世界にアクセスする様子も描かれている。そのファンタジックな世界観は、映画の冒頭で描かれる、さまざまな試練を経験した宝玉が旅のなかで巨大な石と、その側の草を発見するシーンにも繋がっているので、注意しておきたいポイントだ。

 ここで登場する石とは、中国神話の創造女神である「女媧」が、天に空いた穴を繕った際、修復のために作った石の一つだとされている。しかし、この一つの石のみが修復に使われずに余ってしまった。自分を役立たずだと嘆く石が流した涙が、側に咲く草に注がれ、草は石と同じく霊的な力を持つに至るのである。その石と草が地上に落ち、賈宝玉と林黛玉として生まれ変わったという経緯が、本作の冒頭で暗示されていたのである。これは、映画だけでは補完できない背景だ。

 賈宝玉は、前世の名残として「通霊宝玉」という特殊な玉を口に含んで生まれてきた。だから彼の名は「宝玉」とされ、彼のアイデンティティとされてきたのだ。本作のラストでは、賈宝玉と林黛玉が初めて出会ったエピソードが語られる。宝玉が自分の「宝玉」よりも黛玉を大事に思う描写は、まさに石が草に水を与えるように、宝玉の人間性と林黛玉との個人的な心の繋がりを映し出している。

 中国の壮大な国土と景観、没落し始める貴族社会の退廃美、そして神話の世界……。巨大で複雑な迷宮のような『紅楼夢』だが、その最深部にあるのは、大事な人を気遣う細やかな心情という、われわれ観客にも身近な、ごく小さな“優しさ”だったのではないか。それを最も大事なシーンとして描いた本作『紅楼夢 ~運命に引き裂かれた愛~』は、まだ『紅楼夢』の文学世界に触れていない観客にも、その魅力を鮮やかに伝えてくれる一作に仕上がっているといえるだろう。

(文=小野寺系(k.onodera))