大谷翔平グラブ6万個寄贈の背景にある危機感 「野球しようぜ!」の言葉にスポーツ記者が見た真意
競技人口減少はスポーツ界に共通する課題
「野球しようぜ!」。米大リーグ・エンゼルスからフリーエージェントとなった大谷翔平が、日本の子どもたちに呼びかけた。大谷は日本全国約2万の小学校にグラブを3個ずつ寄贈すると発表。「野球というスポーツに触れ、興味を持つきっかけに」とコメントした。トップアスリートの慈善活動という“いい話”として瞬く間に話題になったが、その背景にはスポーツ界に共通する課題がある。(文=荻島 弘一)
◇ ◇ ◇
大谷らしい規格外のサプライズだ。グラブは低学年向けの軟式用で、右利き用2個、左利き用1個をセットに、最大で約6万個がプレゼントされる。大谷から贈られたグラブを手に、笑顔でキャッチボールをする子どもたちの姿が目に浮かぶ。
思い出したのは、今年3月のWBCで侍ジャパンを率いた栗山英樹監督の言葉。「野球の魅力を伝えたい」「野球を好きになってほしい」。頭に付くのは、必ず「子どもたちに」だった。野球界にとって深刻な「子どもの野球離れ」。栗山監督にも、大谷にも、危機感はあったはずだ。
実際に、小学生の野球人口は激減している。プロアマ一体で普及、振興を目指す日本野球協議会によれば、2010年に29.6万だった学童野球(軟式)の登録選手数は、22年には17.0万人まで減少。硬式のリトルリーグ選手数も10年の1万2000人が22年には6000人と半減している(チーム数から推定された数字も含む)。
もっとも、小学生の競技人口減少は、野球に限ったことではない。サッカーの4種(小学生年代)登録選手数も、14年の31.9万人をピークに22年は25.7万人。野球ほどではないにしろ、サッカー界にも危機感はある。
小学生年代で人気のあるバスケットボール(ミニバス)は最近10年間15万人程度で横ばいだが、他の多くの競技は程度の差こそあれ登録選手数を減らしている。小学生の競技者が減れば中学、高校も減少する。競技を「見る」「支える」人口にも影響してくる。各競技にとって、小学生への普及が大きな課題になる。
昨年末のサッカーW杯から3月の野球WBC、さらにバスケットボール、バレーボールのパリ五輪予選、ラグビーのW杯と今年は特に団体球技の活躍が目立つ。監督や選手が口にするのは「子どもたちのために」という言葉。選手たちは積極的にメディアに露出し、子どもたちと交流する機会を持ち、競技の魅力を発信する。普及に対する思いは、現場からも強く感じる。
子どもたちへのメッセージに選んだ「野球しようぜ!」の真意
10月にパリ五輪出場を決めたハンドボール男子日本代表の東江雄斗主将はバスケットやバレーの活躍に触れて「負けられないというプレッシャーはあった」と話した。単純に刺激を受けるだけでなく「これ以上離されたら、ハンドボールの未来はない」という危機感が、36年ぶりのアジア予選突破という快挙につながった。
普及のために各競技が競い合い、好結果を出すことは素晴らしい。ただ、それが「パイの奪い合い」で終わるのでは発展性はない。各競技が普及に力を入れ、魅力を発信する。競い合い、協力してスポーツの場を提供する。そんなスポーツ界であってほしい。
もちろん、少子化の問題はある。ただ、小学生競技人口の減少は、それだけが原因ではない。ネットやスマホの普及などで家遊びが増え、外で体を動かす機会が減った。放課後は習い事などで多忙になり、友だちと遊ぶ時間も限られる。さらに、気軽に遊べる場がなくなるなど、環境面の影響も大きい。
昭和時代の小学生は学校が終わると近くの空き地や公園に集まって遊んだ。「何して遊ぶ?」。鬼ごっこや缶蹴り、高学年になれば野球もした。場所がせまければ二塁のない三角ベース、人数が足りなければ透明ランナー、バットがなければ手打ち野球、工夫しながら遊びの中で体を動かして楽しんだ。
今、スポーツをしようと思うと「準備」が必要になる。チームに入会を申し込み、ユニホームを買って、用具をそろえる。親への過度な負担もある。そんな環境が「スポーツ離れ」の一因になっているのは間違いない。
小学生のスポーツは勝ち負けを争うだけのものではないはず。体を動かすことや汗をかくことを楽しむためのもの。いろいろなスポーツを知り、その中から自分に合ったものを見つければいい。そのためには環境作り。安全に、気軽に遊べる場所、機会が大切だ。
大谷のプレゼントはグラブ3個。できるのはキャッチボールぐらいかもしれないが、そこに「まずボールに触れてほしい」という大谷の強い思いを感じる。重要なのは気軽に野球に触れる機会。だからこそ「グラブ3個を全小学校に」。スーパースターが小学生たちに同じ目線で呼びかけた「野球しようぜ!」なのだと思う。
(荻島 弘一 / Hirokazu Ogishima)
荻島 弘一
1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者としてサッカーや水泳、柔道など五輪競技を担当。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰する。山下・斉藤時代の柔道から五輪新競技のブレイキンまで、昭和、平成、令和と長年に渡って幅広くスポーツの現場を取材した。
