松田直樹の背中を追って故郷のクラブに。「山雅の流儀」を伝え続けることが託された次なる使命【田中隼磨の生き様|後編】
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ドラガン・ストイコビッチ監督率いる名古屋で2009〜2013年の5シーズンを戦い、三度のアジア・チャンピオンズリーグ参戦を果たすなど、充実した時を過ごした田中隼磨。そんな自分が2013年末に契約満了を通告されるとは、まさに青天のへきれきだった。
隼磨は偽らざる胸の内を明かす。
「海外への憧れは若い時からあって、2001年の冬にスペインリーグのスポルティング・デ・ヒホンに、2006年にもフランスリーグのサンテチェンヌに1か月程度、練習参加しました。テスト生のつもりで挑んだけど、移籍金を伴う移籍ということもあって、契約を取り付けることはできなかった。
30代になってもう1回、海外に挑戦しようというのはなかったですね。というのも、頭の片隅には『地元の松本にプロサッカークラブがあったらいいな。そこで活躍したいな』という気持ちがずっとあったんです。自分が幼い頃から知っている松本山雅がだんだん力をつけ、2013年時点ではJ2の上位を戦っていた。
マツさん(松田直樹)が2011年に亡くなったこともあって、『自分がJ1に上げなきゃいけない』っていう想いは高まる一方でした。まだ正式なオファーももらっていないうちから『次は松本へ行こう』って決めてたくらいです」
実際、J1や他のJ2クラブからもオファーはあったという。年俸や条件面では明らかに別の選択肢を選んだほうが良かった。当時の松本山雅は専用練習場もクラブハウスもなく、契約しているスポーツジムで筋トレをしなければいけないような状況だった。
それでも、本人は「J1という舞台とかお金じゃない。やりがいが一番」という信念を抱き、家族に許可をもらって故郷に帰る決断をしたのである。
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2013年時点の松本山雅には玉林睦実という走力抜群の右ウイングバックがいて、反町康治監督も重用していた。そのせいか、指揮官自身は隼磨の獲得に消極的だったとも言われる。そういったなかでも、本人は「どの監督のもとでも自分の存在価値を示せる」と自信満々で、新天地に赴いたのだ。
思惑通り、2014年の隼磨は発展途上のチームをガラリと変え、プロフェッショナリズムをもたらした。どんな時もへこたれることなくハードワークを続け、規律や細部にこだわり、貪欲に勝利を追い求め続けた。まだ若手だった犬飼智也や山本大貴らは、百戦錬磨のベテランから容赦なく怒鳴られ続けたが、それによって一皮も二皮も剥け、堂々たるパフォーマンスを示すようになった。
周囲は確実に変貌を遂げ、松本山雅は悲願のJ1切符を掴み取る。2014年11月1日、雨の博多の森(ベスト電器スタジアム)でアビスパ福岡を下して、J2の2位以内を確定させた時の歓喜は、隼磨自身も生涯、忘れることはないはず。“隼磨効果”は想像をはるかに超えるものがあったと言っていいだろう。
「当時の大月(弘士)社長や加藤(善之)GMに言われたのは、『山雅を勝たせてくれ』とか『J1に上げてくれ』ではなく、『アルウィンを満員にしてほしい』ということでした。そのためには、ファンやサポーターが求めるサッカーを披露して、みんなで一緒に戦う環境を作ることが最優先だと思った。練習に毎日来てくれる人たちに『一緒に戦いましょう』と言われるたびに、『この人たちを何とかして笑顔にしたい』という想いが日に日に高まっていったんです。
当時の山雅は下手な選手の集団だったけど、トレーニングから120%の力を引き出し合うことができていた。『ここで生き残りたければ率先して動かなければダメ』という意識が自然と身について、全員が阿吽の呼吸で連動して動けるようになった。ソリさんがそういった『山雅の流儀』を植え付け、全員が高い意識を持って実践したからこそ、J1に上がれた。日本の地方クラブの希望を示したのかなと僕は誇りに感じています」
反町監督とは2019年に退任するまで8シーズン共闘した。岡田武史、イビチャ・オシム、ストイコビッチといった名将たち以上に長い時を過ごしたことになる。指揮官は隼磨のプロ意識や献身的な姿勢を高く評価したが、2018年頃からは途中交代やベンチスタートを求めるケースも増加。2人が常に蜜月関係だったわけではない。
しかも、反町監督は「選手とは一定の距離感を保つ」というポリシーを持っていたから、選手側の疑問に対して懇切丁寧に説明することはなかった。正直、冷遇されているように感じたことも少なくなかったのではないだろうか。
「影響を受けた4人の監督に褒められたことがほとんどないというのは前回、言いましたけど、ソリさんには一番褒められたことがなかったかな(苦笑)。選手との関係も独特だったから、なかなか話もできなかったけど、僕に厳しく接することでチームの緊張感を高めようという狙いがあったのかもしれないと今は思います。
それに、ソリさんが山雅を離れたあとは、会うといろんなことを話せる関係になりましたね。昨年末に元山雅のメンバーと集まった時にもソリさんが来てくれて、これからの人生の相談もさせてもらえました。『山雅の流儀とは何か?』というのを一番よく分かっている人ですし、僕の言いたいことも理解してくれているのは心強いです」
とはいえ、隼磨がそこまでエネルギーを注ぎ続けた故郷のクラブは反町体制の後、布啓一郎、柴田峡、名波浩、霜田正浩と目まぐるしく指揮官が交代。2020・21年の2年間でカテゴリーを2つ落として、現在もJ3にとどまっている。
苦境から這い上がれず、足踏み状態を強いられるチームの助けになれなかったことに、隼磨は誰よりも悔しさを覚えていたが、引退を決めた以上は外から松本山雅の復活に貢献していくしかない。その想いは現役を離れた今も薄れることはないという。
「『山雅を何とかしたい』という気持ちはすごく強いし、それが自分の役割でもある。できることは何でもやりたいと思っています。その一方で、幅広くいろんなことにトライして自分自身、成長したいという想いも高まっています。
将来的には指導者を目ざして、A級、S級と上位ライセンスを取得していくつもりですけど、その前にまず自分の適材適所が何なのかを見つけたい。海外に行って勉強もしてみたいし、この前、地元のテレビで共演したスピードスケートの金メダリスト、小平奈緒さんのような別競技の方とも何かアクションを起こしたい。今年からは新たなチャレンジをどんどんしていくつもりです」
そう言って目を輝かせた田中隼磨。個性的な監督に加え、三浦知良、三浦淳宏、川口能活、楢崎正剛、松田直樹、中澤佑二、中村俊輔ら偉大な先輩たちから学んだメンタリティを忘れず、前へ前へと突き進むしかない。常に情熱的でアグレッシブな彼にしか切り拓けないセカンドキャリアがきっとある。それが具現化する日を楽しみに待ちたい。
取材・文●元川悦子(フリーライター)
