3月11日で東日本大震災から11年になる。ノンフィクションライターの松本創さんは「復興は進み、関係者の記憶も薄れるなか、遺族は依然として悲しみを抱き続けている。一方で、長い年月をかけて初めて苦しみを打ち明けられる遺族もいる。支援者は長い時間軸で被災地を見ていく必要がある」という――。(聞き手・構成=ノンフィクションライター・山川徹)
撮影=宇佐美雅浩
ノンフィクションライターの松本創さん - 撮影=宇佐美雅浩

■3年目記者時代、取材で目にしたさまざまな「死」

――「災害関連死」という考え方は、阪神・淡路大震災をきっかけに生まれました。松本さんは神戸新聞の記者として、阪神・淡路大震災を取材し、フリーランスライターになってからは3.11の仮設住宅や災害公営住宅の「孤独死」などをテーマに取材を続けてこられました。仮設住宅や災害公営住宅での「孤独死」と「災害関連死」には、通底する問題があるように思います。

そうかもしれませんね。阪神・淡路大震災では、私は入社3年目の若手記者として、発災直後から倒壊した阪神高速道路や大規模火災などの現場を歩き回りました。それから避難所や公園のテント村。山川さんの著書『最期の声』(KADOKAWA)では、避難所の劣悪な環境が災害関連死の増加につながっていると指摘されていましたが、正直なところ、当時は未曽有の災害なんだからこんなものか、と受け止めていました。当初はなにもかも初めての経験で、そうした問題意識を強く持てなかった。

それでも取材を続けるなかで被災者の苦しむ姿を目の当たりにしました。例えば、真冬の寒い避難所の現実。避難所生活が長引くなかで、風邪をこじらせて肺炎になったり、持病を悪化させたりする被災者が増えてきた。仮設住宅や災害公営住宅に移ったあとに問題になったのが、被災者の孤立です。特に中高年の独居男性が引きこもりがちになり、酒を飲み過ぎて体調を崩したり、孤独死したりする……。私は、はっきり災害関連死だと言えるケースには出合いませんでしたが、改めて思い返してみると、災害関連死に認定されてもおかしくない事例もあったかもしれません。

同僚が取材した件ですが、支援者の過労死も記憶に残っています。神戸市の中学校へ震災後に赴任した新人女性教師が、わずか3カ月半で亡くなった。学校が避難所になり、教師たちも被災者の対応に追われながら、プレハブの仮設校舎で授業を続けた。その結果、過労で倒れてしまったんです。彼女はシングルマザーで、まだ幼い子供がいた。後に公務災害と認定されましたが、とても痛ましい出来事でした。

■仮設住宅で起こった「孤独死」

――劣悪な避難所での体調の悪化、仮設住宅での孤立、支援者の心身の健康問題……。3.11でも注目された問題が阪神・淡路大震災でもすでに起きていたんですね。

当時は、災害関連死という概念もなかったでしょう。だから取材を通して、災害がもたらした問題をひとつひとつ手探りで知っていく、という感じでしたね。災害では助かったけど、時間の経過とともに疲弊して命を落としてしまう。阪神・淡路大震災を通して、そうした現実を知っていたからこそ、3.11では「孤独死」の問題に注意を払えたのかもしれません。

3.11直後、東北に通うなかで、岩手県の沿岸部にある自治体の職員と知り会いました。郷土史に精通する彼は、町に大きな被害をもたらした明治三陸津波と昭和三陸津波を研究していました。しかし津波で、書きかけの原稿も、資料もすべて流され、仮設住宅に入居した。生きる支えだった郷土史の本を書く夢も絶ちきられ、酒に溺れた。心配した保健師や支援員が訪ねても受け入れなかったそうです。そして訃報が届いたのが、2014年の大晦日。59歳の「孤独死」でした。

ただ「孤独死」という言葉が、彼の人生――いえ、災害後に孤立して亡くなった一人一人の人生を覆い隠してしまうように感じました。彼がどんな人生を歩んで、なぜ、ひとりで逝かなくてはならなかったのか、遺族や関係者に話を聞いて雑誌などに発表したんです。

取材をしてみると、男性は自らの尊厳を守るために孤立を選択した、あるいは津波で失われた自分の町に殉じたようにも思えました。しかし同時に、遺された人たちには、割り切れない無念の思いが残る。そこは「孤独死」も災害関連死も同じなのかもしれませんね。

撮影=宇佐美雅浩
ノンフィクションライターの松本創さん - 撮影=宇佐美雅浩

■災害や事故で生きる気力を失い孤立する人

――災害関連死は適切な支援やサポートがあれば、減らすことができると言われています。その分、なぜ助けてあげられなかったのか、自分がもっとがんばって支えていればいまも元気だったのではないか、と自責の念にさいなまれる遺族は少なくありません。

その意味でも、孤立した人への支援やサポートは非常に難しい。絶望の末にもうかかわらないでほしいと考える人もいる。「孤独死」した男性の精神状態を想像すると重なるのが、福知山線脱線事故で妻と妹を亡くした男性の事故直後の心境です。

「火山の噴火口に取り残された気分だった」

そんな心境だったと彼は振り返っています。噴火口にひとりぽつんと立つ自分を何百メートルも離れた火口の周りからたくさんの人がのぞき込んでいる。手を伸ばしても届く距離ではないし、叫んでも声が届かない、と。

そうしたトラウマをめぐる被害者、支援者や専門家、傍観者などの位置と関係性は「環状島」というモデルで説明されたりするのですが、孤絶状態に陥り、生きる気力を失った人に手を差し伸べるのは簡単ではありません。加えて、日本の社会風土には自己責任論や「我慢の美徳」が深く根付いているでしょう。

新聞社時代、新潟中越地震の発生時に、新潟出身の先輩が書いたコラムが印象に残っています。避難所の環境や食事がいかに不十分でも、誰も不満を言わない。県が無料で用意した旅館も、利用は一割に満たない。「文句言っちゃなんねえ」というのが染みついている、と。みんながつらいんだからお互いさま、大変な時にぜいたくは言えない……。避難所の環境改善が遅れる原因や、受けるべき支援を遠慮する背景には、そうしたマインドもあるように思います。

■「心のケア」に感じた押し付けがましさ

――被災者支援という点で、阪神・淡路大震災からどのような面が進歩したと思いますか?

阪神・淡路大震災では、グリーフケアや心のケアの必要性が認知されました。確かに、大切な支援とは思います。

ただ3.11では「心のケアお断り」という貼り紙を出した避難所があったという報道や証言を複数見ました。その気持ちも私には理解できる。「被災者」と一口に言っても、性格や考え方、生き方、被災の状況、気持ちの変化、支援者との信頼関係はそれぞれ違う。なのに、支援者側の都合で避難所を訪ね、話を聞こうとする。それは、われわれのような取材者にも同様の課題です。中学生の時に阪神・淡路大震災で母親を亡くした男性から、ずいぶん後になってこんな話を聞きました。

「震災体験や母親の話をするのは必要だと思う。気持ちを吐き出すことにつながるから。でも言いたいときと言いたくないときがある。直後の取材はもちろん、心のケアのカウンセラーとかもそう。そんなときに来られても話すことなんか何もないですよ。いつかタイミングが合って、こちらの話をただ「うんうん」と聞いてくれたらいいけど……」

撮影=宇佐美雅浩
ノンフィクションライターの松本創さん - 撮影=宇佐美雅浩

■20年たって初めて話せた被災体験

――5、6年前から取材を申し込んでいた災害関連死のご遺族がいたのですが、3.11から10年がたつ時期にインタビューに初めて応じてくれました。一方で、10年たっても忘れられない、話せないと語る遺族も少なくなかった。

それぞれの人に、それぞれのタイミングがあるんですよね。深く傷ついた人ほど、体験を客観視するのに時間を要する。私は阪神・大震災から20年後、それまでほとんど被災体験を語ってこなかった男性の記事を書いたことがあります。震災で妻を亡くし、残された2人の息子を男手ひとつで育て上げた人でした。

妻が生き埋めになっているのに、周囲の人たちは誰も手を貸してくれない。ようやく自力で助け出して担ぎ込んだ病院の対応も悪かった。社会を恨んだそうです。誰にも自分の気持ちなんて理解できるわけがない、震災遺族と言われるのもいやだった、と。

実際、彼は誰にも頼らなかった。義援金や奨学金などの経済的支援は別として、それ以外の社会的支援はすべて拒み、災害遺児向けのサポートも心のケアも断った。そして自分が父親と母親の両方の役割を果たそうとした。料理はほとんどした経験がないのに、外食は一切せずに手作りした。それは亡くなった奥さんが毎日手作りの料理を出していたから。息子たちとも震災の話は一切しなかった。

定年後、その男性は、新聞広告の入学案内で知った大学に社会人入学し、心理学を学びはじめました。彼は心のケアに対して懐疑的でしたが、震災後の自分の心の動きを見つめ直したかったからだと。そんなときに3.11が発生した。

彼は教員の勧めで東北の被災者に向けて自身の体験談を書き、自分が震災遺族であることを初めて公にしたんです。それが彼の裡になにかを呼び覚ましたのでしょう。阪神・淡路の震災遺族を卒論のテーマに決め、さまざまな人にインタビューを重ねた。彼は遺族にインタビューする前に、自身の息子にも予行演習をかねたインタビューをしています。親子がインタビュアーとインタビュイーになりきって、初めて震災について語り合った時のことを詳しく聞かせてもらいました。

■死者の数だけ悲しみや苦しみがある

「震災当時、家族や親戚から支援がありましたか。それはあなたにとって、役に立ちましたか」という父の問いに対して、息子はこう答えました。

「ぼくにとっては、父と弟という家族の存在が何よりも大きな助けになりました。父は父であると同時に、母でもありました。震災で母を亡くした自分がなんとかここまでやってこれたのも、あの人のおかげだと思っています」

男性はその言葉を聞いて初めて、震災後の自分が肯定されたと感じたと言います。でも彼が震災時の話ができるようになるまで、20年の歳月が必要だった。彼の歩みを聞き、被災者に流れる時間の重みを考えました。

撮影=宇佐美雅浩
ノンフィクションライターの松本創さん - 撮影=宇佐美雅浩

災害は発生した瞬間の衝撃や悲劇ばかりが注目されがちです。3.11でも津波の襲来や原発事故の映像に、みんなショックを受けて涙を流す。でも被災者にとっては、そこがスタートなんですよ。被災地では、消えることのない苦しみや悲しみを延々と抱き続ける人がいる。その長い時間と歩みも含めて、災害の実相だと思うんです。

――それは10年たったから、20年たったから、といって治癒する類いの傷ではないのかもしれませんね。

山川徹『最期の声 ドキュメント災害関連死』(KADOKAWA)

そう思います。

阪神・淡路大震災以降、災害関連死で5000人を超える人が亡くなった。被災地での「孤独死」も「災害関連死」もその数だけ、悲しみや苦しみがある。『最期の声』(KADOKAWA)でも5000通りの死のプロセスがあり、なにかひとつ対策をとったからといって、すべての人が助かるわけではない、と書かれていますよね。しかも被災してから数年たった死が、災害関連死に認定されるケースもある。

支援者も、われわれ取材者も長い時間軸で、被災地を見ていく必要がある。何よりも、ひとつひとつの人生に思いをはせなければ、支援も心のケアも、そして、取材もできないのではないかと思うのです。その意味で、災害関連死の遺族や支援者を各地に訪ね歩き、社会に伝える山川さんのご著書に敬意と共感を覚えています。

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松本 創(まつもと・はじむ)
ノンフィクションライター
1970年、大阪府生まれ。神戸新聞記者を経てフリーランスのライター。関西を拠点に、政治・行政、都市や文化などをテーマに取材し、人物ルポやインタビュー、コラムなどを執筆している。著書に「第41回講談社本田靖春ノンフィクション賞」を受賞した『軌道 福知山線脱線事故 JR西日本を変えた闘い』(東洋経済新報社、のちに新潮文庫)をはじめ、『誰が「橋下徹」をつくったか 大阪都構想とメディアの迷走』(140B、2016年度日本ジャーナリスト会議賞受賞)、『ふたつの震災 [1・17]の神戸から[3・11]の東北へ』(西岡研介との共著、講談社)、『地方メディアの逆襲』(ちくま新書)などがある。
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(ノンフィクションライター 松本 創 聞き手・構成=ノンフィクションライター・山川徹)