戦時中の手術での輸血が原因で肝臓が悪くなったのですが、毎晩お酒を飲んでいたので肝臓が悪化してしまったようです。

 父はお酒を飲むと独り言のように人生についてしゃべり出し、母に「うるさい」と言われると、外に散歩に出かけていました。

 すると、母に「事故があるといけないから、後ろから付いて行きなさい」と言われ、父の後ろをひょこひょこ付いていったのを覚えています。

 父は散歩中も独り言を言っていて、1時間ほど家の周りをグルグルして帰ってきます。

 父の散歩は夜だけでなく朝もありました。朝5時から散歩に行くので、そのときも母から「付いていきなさい」と言われ、朝の散歩にも同行していました。おかげで、いまだに早起きの習慣が残っています。

 当時は子どもだったので、父が何を話しているのかよくわからなかったのですが、お店や会社のことを真剣に考えていることは伝わってきました。会社を大きくするにはどうすればいいのか一生懸命考えていました。

 そうした思いの表れか、テレビで店の宣伝をして、気に入らないことがあると、「あの宣伝はおかしい」「あれは違う」と局の担当者にすぐ電話をかけていました。

 わたしも自分の信念に反することがあると黙っていられないところがあるので、この性格は父譲りだなと感じます。

 父は会社の人間関係、母はいつも「お金がない」と家計のやりくりに苦労していたので、今になって、父や母の心情、心境、苦労も含めてわかる気がします。

日本特殊陶業の【水素社会】に向けた新規事業


何も言わずに
3000円を出した母

 県立鹿児島中央高校に入った頃は成績優秀で、同学年600人のうち100番以内の生徒を集めたクラスに入っていました。

 入学と同時に野球部にも入っていたのですが、野球部では勉強をするのが「悪」といった雰囲気があり、本当は勉強と野球を両立させるはずが、野球ばかりで勉強はしなくなっていきました。成績はどんどん悪くなる一方、この道では食っていけないと限界も感じていました。

 進学校でしたし、両親からも「自転車とギターを買ってあげるから野球をやめなさい」と言われ、先生からも「選抜クラスにいるのだから野球をやめて勉強しなさい」と言われ、自分自身も「これ以上、野球はうまくはならない」と感じ、野球を辞めることを決めました。

 ところが、野球を辞めても勉強に身が入らず、不良グループとつるんでいた時代がありました。当時、ボウリングが流行っていて、初めて彼らとボウリングに行ったとき、お金を払わずに「逃げろ」と言われ、訳もわからず一緒に逃げたことがありました。そのことにものすごい罪悪感を抱いて、何でこんなことをしてしまったのだろうと後悔しました。

 ボウリング場の住所はわかっていたので、帰宅後、母に「3000円ちょうだい」と言うと、母は一切理由を聞かずに「あ、そう」とパッとお札を出してくれました。何に使ったのか聞かれたらどうしよう、何て言おうかと思っていたのですが、何も聞かれませんでした。そして自分で謝罪文を書き、3000円を封筒に入れて、ボウリング場に持っていきました。 母はいつも「お金がない」と言っていましたし、当時にすれば大金を、何かあったのだろうと、何も聞かずに出してくれたことは強烈に覚えています。

 社長を目指して社長になったわけではなく、巡り合わせで今こうなったとしか言えないのですが、高校時代、歯車が狂っていたら、今のわたしはないだろうと思います。どんな人生かはわかりませんが、野球を続けていたら、違う人生になっていたのは間違いないと思います。

 今、ここに自分があるのは、人との巡り会い、人を大事にし、縁を大事にすることの結果のように感じています。

 会社のために間違っていないと思ったら、躊躇せず、アクションに移すのがわたしの得意技です。間違っていたら、やり直せばいいのです。これがいいと思ったら、突き進んでいく。とにかく早くアクションを起こすことで、自分なりの流れを止めたくないという思いがあります。

 母は8人兄弟の長女として、人の話をよく聞く、嘘はつかない、常に誠実に、やれることは一生懸命やってあげるという信条を持っていました。

 わたしも自分の行動パターンに〝軸〟みたいなものがあるのですが、その1つに人から助けを求められたら逃げないということがあります。去るものは追わず、来るものは徹底的にできる限りのことはしてあげたいと。これは母を見ていて学んだことで、それが自分の周りの環境を良くしていくと感じています。

 情けは人の為ならず、ではないですが、人に良くすることで、最終的には自分に返ってくると感じています。

 経営においても、部下が何かに困って来たときは逃げずに最終判断する。そして、正解のない解を求めなければいけないときは、自分も一緒に責任を取って解を出すようにしています。

 時代も環境も変化する中、母の教えを活かし、この環境変化に対応していきたいと思っています。

三菱ケミカルが進める【環境経営】

おどう・しんいち
1954年鹿児島県生まれ。77年専修大学商学部を卒業し、日本特殊陶業入社。
ドイツ、オーストラリアの駐在を経て、2005年米国現地法人社長に就任。
07年取締役、10年常務、11年社長、16年会長兼社長、19年4月会長に就任。
20年から日本自動車部品工業会会長も務めている。