「野球やめるしかないな」。王貞治はスランプの柳田真宏に冷たく言った
「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第7回 柳田真宏・後編 (前編から読む>>)
平成の世にあっても、どこかセピア色に映っていた「昭和」。まして元号が令和になったいま、昭和は遠い過去になろうとしている。そんな時代に活躍したプレーヤーの貴重な過去のインタビュー素材を発掘し、個性あふれる「昭和プロ野球人」の真髄に迫るシリーズ。
柳田真宏さんは、西鉄から巨人に移籍したばかりでケガにみまわれ、寮長に「クビ」を予告されてしまう。まさに野球人生の大ピンチから、どのようにして〈巨人史上最強の五番打者〉と呼ばれるまでになれたのか。そこには「世界のホームラン王」との不思議な言葉のやりとりがあった。

1971年の日本シリーズ・阪急戦で本塁打を打った柳田(36番)を柴田、土井、王らが迎える(時事フォト)
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一度はクビを覚悟したから必死で練習し、結果が出たからこそ契約してもらえた、と思っていた若手に対して「来年ダメだったらクビ」は厳し過ぎる。「そのときの自分がどうだったかは、ちょっと言葉にできないです」と言う柳田さんの眉間に深いしわが刻まれていた。
「西鉄で1年目のときも、俺、クビになんのかな、と思ったときありました。ある試合でベンチ入り25人枠のなか、まだプロでヒットを打ってない選手が3人いました。新人の僕と、2年目のジャンボ尾崎こと尾崎将司さんと浜村孝さん。そしたらスタートで出た浜村さんがまず打って、ジャンボも途中出場で打った。僕は8回にピンチヒッターで出たんですが、中西太監督から『おまえだけだ、打ってないの。打てなかったらもうやめて帰れ!』って言われたんです。
高校出たばっかりの選手だったら、監督直々の言葉はなんでも本気に聞くものでしょ? 『クビかよ……』と思ったら、打席で足が震えました。でも、そこで僕、ホームラン打っちゃったんです。プロ初ヒットがホームランで、しかも決勝打でね。翌日、中西さんにお小遣いをいただきました。ははっ。打席でドキドキしたぶん、うれしかったですねえ」
“本家マムシ”毒蝮三太夫にそっくりな笑顔になっていた。ふと、ここまでの話に通底する事柄が浮上する。「首の皮一枚がつながった」という一打もそうだが、柳田さんの場合、切羽詰まった状況になると、かえって力を発揮できているように思える。
「あっ、それはあるかもしれません。僕ね、カツーンときたり、カーッとしたときは意外と打てるんですね。高校のときも、1打席目に三振したら監督に怒られて、2打席目にホームラン打ったり。巨人が9連覇したとき、ここで阪神に負けたら8連覇で終わり、っていう試合でもそうでした。8回表に自分の守備のミスで1点勝ち越されて、その裏、打席は僕からだったんです。
そしたら、あるコーチに『打って還せー!』って鬼の形相で怒鳴られた。本人、言われなくても百も承知ですよね。だから、これは幹部批判で絶対にいけないんですけど、カーッときて『何が打って還せだ、こら』ってなっちゃった。それでもう『この野郎』って思いながら行ったら、僕、同点ホームラン打っちゃって、結局負けなかったんです」
1973年のV9達成時に、柳田さんの貴重な一打があった。その一打が、コーチに食ってかかるほどの熱い性格から生まれたことは知らなかった──。思えば、まだ若手だった頃の亀井善行も、緩慢な守備を指摘されたコーチに反発して、一触即発の事態になりかけたことがある。しかし、そんな共通項を持ち出す間もつかめないほど、柳田さんの語りは勢いづいている。
「カーッときたときは打席で何も考えないし、何の怖さもない。だから逃げることがないんです。顔のあたりにバーンとこようが、どこでもほうってこい、ぶつけるならぶつけろ、当てりゃいいじゃないか、って感じで」
ささやくようだった声がにわかに野太くなり、束の間、鋭い目つきになった。「打席で何も考えない」とは長嶋監督との特打にもつながる。そのときの監督はバッターの本能というより、柳田さん本来の性格を呼び覚ます練習によって、自信をつけさせようとしたのではないか。
「確かにそれも言えます。ただ、僕が最初に自信をつけたのは、王(貞治)さんの何気ない言葉でした。まだピンチヒッターばっかりで出ていた頃、『お前、よく1打席でいきなり打てるな。俺はダメだ』って言われたんです。僕はその一言を聞いて、『世界の王』っていわれる人にもできないことを俺はやってるんだと。そう考えたら、すごい自信になったんですよ。
素晴らしい理論を持った指導者以上に、一緒に戦ってる超一流の先輩に褒められたらもっと自信になる。まして王さんは超一流の上に超がつく方ですから──。で、僕はこれ、今の野球でも変わらないと思うし、亀井君もね、原(辰徳)監督に認められて、その上で小笠原(道大)とか、あのクラスの先輩に褒められて自信になった、ってことは絶対あるはずですよ」
不意に亀井の名前が出てきた。ずっと頭の片隅に入れてくれていたのだろうか。改めて、どう見ているのか、聞いておきたい。
「去年の実績を自信にして、今年もやれるでしょう。ただ、僕に言わせると、そこで亀井君があんまり驕(おご)っちゃったら、怖い部分がある。人によっては、自信を持つまでに10年もかかりますけど、自信をなくすのは1日でなくしちゃう。本当に1日でなくします」
昨年=09年8月、亀井が打棒爆発の後、スランプに陥ったことが思い出された。ただ、「本当になくします」と聞いて、むしろ柳田さんの「自信喪失」について知りたくなった。
「僕は何回も自信なくしてます。いちばんひどかったのは、やっぱりピンチヒッターの頃。ボールは見えてるのにバットが出てこなくなって、ずいぶん悩みました。コーチに相談しに行ったら、『王に聞いてこい』と。僕はすぐに聞きに行ったんですけど、王さん、『バットが振れないんだったら、野球やめるしかないな』って言うんです。すっごく、冷たい言い方でしたよ」
またしても「やめる」話だ。しかも今度は、自信になる言葉をもらった超・超一流の先輩から、逆に引退を勧告されるとは……。クビを覚悟して戦いに臨むよりもつらい状況だろう、
「ええもう、僕はそこで『ああ、そうすか……』って言うしかなかったですから。でも実際、バットが振れない選手は野球なんてできない。じゃあ、続けるためにはどうすればいい? そのときに僕が気づいたのは、レギュラーの人が4打席立つのと、ピンチヒッターが1打席立つのと、スタート時点で行くときは同じ。レギュラーの1打席目と同じだということだったんです。
ピンチヒッターはレギュラーより力が劣ってるから控えなんだけど、同じ打席に立つ以上は劣ってるなんて思うことはない。でも、レギュラーと違って1打席しかない。だったら1球目から、ファーストストライクから、曲がろうが落ちようがバーン! と。真っすぐがこようが何しようが全力でパーン! と振れる状態を作っていかなきゃいけない。それでダメだったらもうやめよう、っていう気持ちになったんです」
バットを持つように拳を握り、右腕を力強く動かす様を見ていたら、王の言葉が頭に浮上した。「1打席でいきなり打てる」柳田さんの力を認めていたからこそ、1打席で勝負する代打が積極的に振れないでどうする、という思いがあってのアドバイスだったのではないか。
「いや、そこまではわかりません。だって、アドバイスなら『やめるしかない』なんて冷たく言わないでしょ? ふふっ。でも、王さんはいい加減なことは言わない方だから、自分なりに、ピンチヒッターのことにつながってるって解釈しました。そうして気持ちを入れ替えて打席に立ったら、本当にファーストストライクからパーン! と打てたんです」
ここまで、柳田さんは一貫して「代打」とは言わずに「ピンチヒッター」と言い続けている。今やマスコミ上でもほとんど「ピンチヒッター」は使われないだけに、耳に新鮮に響いていた。実際、何度も「ピンチ」に追い込まれながら生き残った柳田さんの野球人生を顧みると、「代打」と言うのは全然ふさわしくないと思える。そもそも最初に聞いたとおり、〈巨人軍史上最強の五番打者〉は、「全部ピンチヒッター」の意識のもとに生まれたのだ。
「僕はどっちかといったら、タイプ的にピンチヒッターが合ってたのかもしれません。今と違って、どんなに打っても『ピンチヒッターは控えだ』ということで給料は上がらなかったですけど。どんなに結果がよくても次の日はスタメンじゃなくて、何度もがっかりしましたけど。でも結局、全部ピンチヒッターのつもりで行って、5番としてなんとかやれたんですからね」
話題はそれから77年のシーズンへとつながり、3割4分の高打率を残しながら首位打者を逃した反省、80年に阪急(現・オリックス)に移籍するまでの顛末、引退後の歌手活動の思い出へと移行。すると、歌のレッスンには現役時代の経験が生かされたということで再び話は野球に戻り、V9時代とその後の巨人野球との比較論が展開された。すでに2時間が経過していた。
ふっと対話が途切れたところで、柳田さんは姿勢を正して「もう、よろしいですか? ほかにまだ、何かございますか?」と言った。突然の丁寧過ぎるほどの口調にうろたえつつも、僕は最後のつもりで矢野顕子の『行け柳田』の話を持ち出した。
「聴いたことありますよ。きっかけはね、宮崎キャンプに矢野さんご本人が来られたんです。広報の方に『お前のファンだっていう歌い手さんが来てるぞ』って言われて、変わった歌い手さんもいるもんだな、と思って。それで話をしたときに、『柳田さんって、10日間ぐらい煮込んだスープみたいな人なんですね』って言われたんです。
いきなりナンだ? と思って、僕、『それ、褒め言葉ですか?』って聞いたんですよ。そしたら『そうです。スープって煮込めば煮込むほど味が出ますから』って。『ああ、そうなんだ』と答えたら、『柳田さんの歌、作りたい』って言われたんですね」
こんなふうにして誕生した野球応援歌、ほかにあるだろうか。そして、その「味」とは、柳田さんのピンチヒッター人生を象徴しているように思えた。気がつけば、柳田さんは小首をかしげ、やや背中を丸め、『行け柳田』を口ずさんでいた。77年の巨人、ベストメンバーが1番から歌われていく歌詞。5番は当然「柳田」だ。
「今思い出すと、なつかしいですよね。あのときのオーダーが歌に出てくるから──。ほかに、まだ、何かありますか?」
聞きそびれていた。亀井は〈新・最強の五番打者〉になれるだろうか。
「去年は去年で忘れて、去年の成績がよかったから驕るんじゃなくて、自信じゃなくて確信。より一層、確信の持てる努力をすれば、もう本物の5番になれると思うし、僕としては、亀井君に5番を打ってほしいです」
(2010年1月7日・取材)
取材当時の柳田さん。引退後は歌手としても活躍した
