山口組元幹部が「山口組を解散させるため」にヤミ米を買い占めて警視庁に乗り込んだワケ
かつて20万人もの構成員を擁した暴力団。
覚せい剤の輸入や賭博、みかじめ料の徴収で莫大な収益を上げ、1980年代の年間収入は推計8兆円に達したと言われる。だが平成に入って以降、暴対法の制定や警察の行き過ぎた捜査、メディアによる批判的な報道が原因となり、暴力団は衰退の一途をたどってきた。
では、暴力団が社会から消えていくことは、我々一般国民にとって「良いこと」だけなのだろうか?しばし「必要悪」として語られてきた“やくざ”の実態を、『やくざは本当に「必要悪」だったのか』より一部抜粋・再編集してお届けする。
ヤミ米をタテに警視庁に乗り込む
実は山本は1966年、山口組の解散を意図して一度国に働きかけている。米の配給制度の欠陥を突くデモに山口組の解散をからめたのだ。
前年、山本は京都刑務所を仮釈放で出た。2年の刑期を残しての仮釈放だったから、罰金刑以上の刑を受ければ、刑務所に逆戻りしなければならない。そのため自宅に戻ってから、母親に自分だけには配給米を炊いてくれるよう頼んだ。当時は米の通帳制度が残り、配給米ではなくヤミ米を買えば、表向きには3年以下の懲役か3万円以下の罰金刑だった。母親は、「家族はみなヤミ米を食べている。お前だけ配給米にはできない」といった。実際、当時、配給制度は形骸化し、どこの家でもヤミ米を食べていたし、それで罰せられることもなかった。
これで山本は思いついた。食糧管理制度(配給制度)の不備を突き、それをとっかかりにして、やくざの更生策を用意させる。そうすれば暴力団の解散ばかりを言い立てる警察行政に一泡吹かせることができるのではないか。
当時は警察庁が第1次頂上作戦を始め、山口組の田岡一雄に対しても兵庫県警がしきりに解散、解散と急き立てていた。事実、関東の暴力団は軒並み偽装解散ではあったが、解散に踏み切り、警察の顔を立てる程度のお付き合いはしていた。田岡だけは断固、解散を拒否して取り合わなかった。
山本は近くの米屋から1升ずつヤミ米を買っては領収書をもらい、それを買った米の袋に貼り始めた。この通りこの米屋でこの値段でヤミ米を買いました、という証明である。彼は神戸の米屋で100軒、大阪の米屋で100軒と買い集めた。翌1966年、「俺をヤミ米を買った罪で逮捕しろ」と東京の警視庁に乗り込む計画を固めたのだ。
大津の日吉神社で鎧兜を借り、「非理法権天」と書いた楠木正成の旗印を掲げてトラックに乗り込み、東京に進んだ。その道々、京都、滋賀、奈良、名古屋、横浜と米を買い増して東京でも買い、合計500升、50斗の米になった。
目的地として警視庁を目指したが、着いた先は関東管区警察局だった。
警察局は「米なら農林省の扱いだ。農林省に行ってくれ。今電話しておくから」とたらい回しにした。
農水省も米を預かりたくない
農林省に向かうと、4、5人の役人が待機し、「持参の米はとりあえず農林省で預かる、どう扱うか、後日連絡する」と言った。と、後から出てきた課長が「その米に触るんじゃない。これはあんたの米だから持って帰ってくれ」と叫んだ。
米を預かれば後が面倒になる。
山本はこのくだりを『むちゃもん』の中で、こう記している。
もちろんおれも言い返した。
「なに眠たいこと言うとんのや。おれはヤミ米を買うてきたんや。おれを捕まえるなり、米を没収するなりせんかい」
課長は黙っている。
「ヤミ米を売った者は7年以下の懲役、50万以下の罰金。買った者は3年以下の懲役、50万以下の罰金だ。米はおまえたち農林省が預かれ。米を売った者にも罰を与えろ。おれは仮釈放中だから刑務所に2年間帰る」
ここまでやるからには万全の準備をしておいた。神戸新聞の記者が同行して一部始終を見ていたし、「狂人のしわざ」と片づけられないよう精神科医の診断書も用意していたのだ。引き下がる気はまったくない。
米は強引に農林省預かりとし、残ったチラシも置いてきた。
家に着いてすぐ農林省の課長から電話があり、「明日から新潟に転勤になるのでよろしく」と言ってきた。次に兵庫県警の課長が家にやってきた。
「米の件について東京に行くときは必ずわたしに連絡してくれ。連絡がなければわたしたちは東京から怒られる」
山本にはやくざ更生計画があったから簡単には引き下がれない。以降、何度も「おれの米はどうなった。返せ」と農林省に詰め寄った。
そのたびに中野文門の息がかかった地元政治家が懐柔に来たり、同じく地元米穀商組合のボスで「赤富士米」の社長が現金、商品券、米30俵、50俵と送ってきたが、全部突っ返した。
【後編を読む】山口組の組員が「国を脅して」まで「山口組の解散」を熱望した、理屈では考えらえない行動
