とても静か、けれどセンセーショナル。世界の老若男女に、幅広く名を知られている俳優が田中裕子だ。能面のような校長を演じ衝撃を与えた映画『怪物』、ジブリ映画『もののけ姫』での凛々しいエボシ御前の声。そして、いまだ破られない、日本歴代ドラマ視聴率ランキング第1位に輝くNHKの連続テレビ小説「おしん」の主役も田中裕子である(全297話のうち189話)。なんと最高視聴率は62.9%!

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 海外68の国と地域で放送され、日本以上に熱い支持を集めたのがイラン。「おしん」が放送されたのは1983年。イラン・イラク戦争の真っ直中、イランの国営放送での視聴率はなんと80%以上を記録していた。当時28歳だった彼女は、4月29日で71歳を迎えた。


田中裕子(2006年撮影) ©文藝春秋

「おしん」では演技中に倒れ、そのまま入院

 ただ、日本では、「おしん」の視聴率の高さに比べると田中裕子の印象は薄く、子役時代の小林綾子のイメージが強烈だった。2003年までは、「おしん」の再放送は少女編と総集編のみだったというのも影響しているだろう。これには、田中裕子が所属していた文学座が許可しなかったという背景がある。田中裕子は「おしん」フィーバーから早く抜けたかったのかもしれない。

 というのも、「おしん」の脚本は、橋田壽賀子。「渡る世間は鬼ばかり」シリーズでも有名だが、そのセリフは長文であることも有名で、それに苦労させられたのは田中裕子も同じ。貧しい生活から苦労と我慢を重ね、根性で人生を乗り切っていくというヒロイン像も重い。様々な点で気力体力を使い、演技中、夫の竜三役を演じた並樹史朗の前で倒れ、救急車が来て田中はそのまま入院。撮影は1カ月ストップしたというのは有名な話だ。

 脚本の橋田壽賀子は、「女性セブン」(2009年12月19日号)のインタビューにて、田中裕子とは「言葉はもとより目礼さえも交わさずに終わった」と回想している。

「私が思うに、田中さんは、この役も、作者の私のことも嫌いだったんじゃないでしょうか(笑い)。にもかかわらず、あんなに細かい芝居を立派にやり遂げて、名女優だなあと心から尊敬しているんです」(橋田)

 橋田壽賀子と馴れ合わず、けれど完璧な芝居を見せ、リスペクトされた田中裕子。まさに生まれながらの役者といえる。この「おしん」が放送された1983年には、田中裕子の名を世間に知らしめた松竹映画『天城越え』も公開されている。

厳しい尋問で“失禁シーン”が話題に…

 田中は14歳の少年・建造が天城峠に行く道中で出会った女・大塚ハナを妖艶に演じたが、特に土工殺しの疑いをかけられ、渡瀬恒彦演じる田島刑事の厳しい尋問で失禁するシーンが話題に。「仕掛けはいりません、自前で行きます」と彼女が本当にしてみせたという伝説の逸話がある。

 前年の1982年には映画『ザ・レイプ』で、性暴力を受け、苦悩しながらも加害者を告訴する女性・路子という難役に挑戦しているのだ。ヌードシーンもあり、メンタル的にもハード。役者としてのイメージも左右しかねない。ヌードに関しては、映画『北斎漫画』(1981年)でも、あっけらかんと披露しており、ドラマ「想い出づくり。」(TBS)でお茶の間の人気が上昇していた時期、こうしたオファーに応えていることに驚く。

 いい映画になるなら、なんでもする――そんな壮絶な覚悟が見える田中裕子。ところが実は、彼女は最初から俳優を目指していたわけではなく、「文学座」を受けたのも、照明の仕事をやりたかったからというから驚きだ。

 なるほど、確かに「野心」は感じない。あるのはむき出しの風情と涼しげな目元に宿る寂しげでいて、毒を含んだような色香。

 近頃は「女優」と書かず「役者」「俳優」と表現することも多いが、20代の田中裕子を見ると「女優」と書かずにはいられない。女という性(さが)を細やかに演じ、物語に艶と緊張感を与えていた。映画『夜叉』(1985年)での、高倉健をめぐっての、いしだあゆみと田中裕子の睨み合い演技はすさまじい迫力である。

沢田研二との“略奪婚”のウラに「数々のけじめ」

 田中裕子は「おしん」の前後を挟み『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』(1982年)『カポネ大いに泣く』(1985年)で共演した沢田研二と交際に発展。当時、沢田は既婚だったため略奪愛と騒がれ、「魔性の女」とスキャンダラスに騒がれた。

 しかし、その裏にあったのは数々の“けじめ”。1985年には沢田がデビュー時から在籍してきた渡辺プロダクションを、田中は所属していた文学座を辞め、1987年には沢田の離婚が成立。18億円ともいわれる全財産をすべて相手側に渡したともいわれている。

 そして1989年に沢田と田中は結婚。周りの評価も批判も興味なし、と言わんばかりに、二人はナチュラルに年を取っていく。映画『大阪物語』(1999年)で夫婦役をしたのには、結婚から10年経ってはいたが、それでも世間は驚いた。役どころは池脇千鶴が演じるヒロイン・若菜の親で、夫婦漫才師だ。そしてこれが出色。「ジュリーと田中裕子」だということを忘れ、池脇演じる若菜に同情してしまうような、おもろうて疲れた芸人の二人がそこにいた。漫才の脚本を担当した構成作家の本多正識によると、二人は舞台のシーンの撮影でも、観客に本当の漫才師だと思われていたという。

「NGKでの本番収録前には、3人でのネタ合わせを済ませて舞台へ。お客さんには『映画の撮影』だけしか知らされておらず、お2人が舞台へ出られても誰も気づかず、5分あたりで田中さんがセリフを忘れられて『すいませ〜ん』と止まられたところ助監督がお2人を紹介して大歓声に!」(「日刊ゲンダイDIGITAL」2022年9月22日)

老けたかった田中裕子と沢田研二

 その後、2000年には「キリンラガービール」のCMでも共演。今ではすっかり共演作はなくなったものの、どちらも意欲的に活動中だ。そしてお互い「おとうちゃん」「おかあちゃん」と呼び合っているという。「婦人公論」(2005年2月7日号)のインタビュー記事には、田中裕子が「しょーもない段差」で足をひねった際、沢田がお姫様抱っこをしてタクシーまで運んでくれた、というエピソードが書かれていた。結局くるぶしを骨折していたそうだが、微笑ましくユーモラスに語る彼女からは、どこか年を取る楽しさも感じられた。

 沢田研二も田中裕子も、「かっこいい」「美しい」と呼ばれることにこだわるどころか、若さの特権にうんざりし、さっさと皺と白髪を手に入れた、という風にすら見える。

SNSで「怪物は田中裕子だった」の声も

 田中裕子はジブリ映画『もののけ姫』のエボシ御前の声でも世界的な人気を集めている。公開は1997年だったが、昨年3月に4Kデジタルリマスター版が北米で公開、同年10月には日本国内のIMAXシアターでも公開され、世界的リバイバルヒットとなっている。

 エボシ御前もそうだが、田中裕子は、何かとてつもなく重いものを過去に置いてきた役が抜群にうまい。映画やドラマで彼女の姿が映ると、彼女自身が“秘密”そのものに思えることがある。作品が始まると田中裕子は消え、「ひとり何か抱えながら生きてきた人」が映りこむ。

 第76回カンヌ国際映画祭において、脚本賞および日本映画史上初のクィア・パルム賞を受賞した大ヒット映画『怪物』(2023年)もそうだった。彼女が演じた、感情がなくなったような校長のインパクトが強すぎて、SNSに「怪物は田中裕子だった」という書き込みも相次いだほど。是枝裕和監督は田中と仕事をするのが憧れだったとしながらも「(田中)裕子さんを撮るというのは、やはり覚悟がいる。樹木希林さんとはまた別の意味で試されている感じはありました」とインタビューで語っている。(「CINEMORE」2023年6月5日)

 まさに「老ける」を「更ける」と書きたくなるほど、静かに年を取り熟練した演技を見せている田中裕子。かつて“魔性”と呼ばれたその佇まいは、今、すべてを包み込むような慈愛と、失われつつある大切なものへの喪失感を「ぬるっ」と漂わせる。

 最新作は2024年11月に公開された映画『本心』(石井裕也監督)。舞台は近未来2040年、田中が演じるのは、死んだ母親・秋子と、仮想空間上に蘇らせたVF(ヴァーチャル・フィギュア)の秋子との二役だ。Netflixで配信されているが、少し怖い未来と同時に、彼女の姿から自分の中に閉じ込めた本心が覗けるかもしれない。

 確かに、田中裕子を観るのは、覚悟がいる。

(田中 稲)