吉川英梨氏『犯罪前夜』インタビュー「その人がどう生きてきたかを書くために、登場人物の履歴書はきっちり作るタイプです」
舞台は万博開催を翌年に控えた2024年の大阪。まずは10月12日未明、阿倍野区と住吉区に跨る高級住宅地・帝塚山で、闇バイトの犯行と思われる強盗未遂事件が発生。その直後、今度は隣接する西成区玉出の町工場に賊が押し入って社長を殺害し、さらに港区海岸の天保山客船ターミナルに乗り捨てられたトラックでは運転手が遺体となって発見された。そんな大阪府警捜査一課の〈高城明信〉が〈どういうこっちゃ。なんて一日や〉と嘆くのも頷ける怒涛の1日から、吉川英梨氏の『犯罪前夜』は幕を開ける。
が、発端はあくまで発端であり、西成の現場で犯人らしき5人組と出くわし、惜しくも取り逃がした彼を待ち受けるのが、第1部の章題でもある〈大阪湾観光帆船シージャック事件〉だ。湾内を周遊する〈カティ・サーク号〉の乗客らを人質にとり、〈府知事に告ぐ。大阪万博を即刻中止せよ〉と要求した犯行グループの確保を巡って、高城や海上保安庁の特殊警備隊、通称SSTの〈岸本波敷〉らが奔走し、一応の事件終結を見てなお、それらが単なる発端に過ぎなかったことを、読者は2部「加害者家族」以降で思い知るのである。
先頃映像化された「新東京水上警察」シリーズなど、近年は警察小説のみならず、海のイメージもある吉川氏。
「私自身は海とは何の縁もゆかりもない埼玉の出身で、それこそ『新東京……』がわりと売れてくれたお陰で、海保の方に声をかけられたんですね。もう少し沖まで出てきませんかって(笑)。
もちろんこの中に書いた事件や訓練内容は全て創作ですけど、例えばSSTはSATに比べると知名度も低いし、自分がいつどこに出動したかも、〈秘匿事項〉だから報道はほぼされない。だからこそ話したいことも内心はあるんだろうなあと、時々思ったりはします」
実は日本ではシージャック事案そのものが少なく、直近でも1970年の瀬戸内シージャック事件が最後だとか。
「それほど逃げ場がなくて、効率が悪いってことなのか、少なくとも一般的に身近な犯罪ではないと思います。
一方で本書の構想を練り始めた2024年頃は闇バイトが物凄く発生していた年で、そういう『うちにも強盗が入るかもしれない』という恐怖って私は初めて感じた気がして。しかも知らない間に息子が犯罪に加担していた親御さんの話を何かで読んで、私も息子を育てているので、いつ自分が加害者側や被害者側になってもおかしくないという事実に、物凄く衝撃を受けたんです。
その闇バイト事件と組み合わせることでこの架空のシージャック事件を少しは身近に感じてもらえそうに思ったし、だとすれば私は加害者や親側の視点を書きたかった。それで第1部で事件自体はほぼ終わらせるこの構成になりました」
その第1部からして陸と海とが人工的にせめぎあうベイエリアの地理的描写や逃走劇の疾走感が圧巻だ。強盗団の足取りを追う中で遊覧船が航路を逸脱していることに気づいた高城と、全国各地に出没中の不審船、通称〈ゴーストアッシュ〉の拿捕を想定した訓練中に異変を報告された岸本では、動き方も強みもまるで違う。そんな2人が事件の前夜に新世界のスナックで鉢合わせ、大阪弁の流暢なママに〈あきちゃん〉〈なみ君〉と呼ばれたりするのも一興だ。
「大阪府警と兵庫県警とか、警察同士は仲が悪いけど、海保とは合同訓練をしたり、仲は結構いいみたいです。舞台を大阪にしたのは、大阪湾は東京湾に比べると意外と書く人が少ないし、府警の泥臭さと海のスタイリッシュさをミックスさせたらどうなるかなあという、これも好奇心の一種です」
が、事態は交渉人の説得もむなしく膠着し、犯人や人質の身元が明らかになることでより複雑化。乗客の中には万博に大口出資する関西財界人の孫娘もおり、突入計画は二転三転しながらも、SATの狙撃失敗を受けて突入したSSTが無事制圧に至る。
最初のアウトプットまでが一番楽しい
さて第2部以降、本書は関与が疑われた乗客の父で海保官の〈森下浩平〉や、制圧直後の記憶がない岸本。また実行犯達の実家を一軒一軒訪ね歩く高城に視点を移しながら、事件の背景や驚愕の真相に迫っていく。
「元々私は登場人物の履歴書をきっちり作るタイプで、岸本が母親に似た特徴のある容姿の女性が好きとか、使わない話も設定する(笑)。闇バイトと一口に言っても事情はいろいろでしょうし、たぶん私が本格ミステリや密室劇を読むのは好きでも書くのは苦手で、その人がどう生きてきて、なぜそうなったかを書く方が好きで、自分も気になるから、そっちを書くんだと思います」
任務中は二児の父親からコールサイン〈スロウ〉に人格さえ変える岸本のように、そうでもしないとできない仕事への敬意や共感が、エンタメでありながらリアリティには徹底的に拘った吉川作品の端々に滲む。
「私の場合、資料を読んだりして現地を歩いてみたり取材したことをプロットや第一稿にアウトプットするまでが一番楽しくて。特に海は地に足がつかないから沖に出るだけで危ないのに、水深10何メートルの海底まで一旦潜って浮上して突入する。こんな常人離れしたことをできる組織があるなんて知的好奇心をくすぐられるし、みんなに知ってほしい」
その旺盛な好奇心は作中でもページをぐんぐん繰らせる牽引力として現出し、手に汗握る事件譚がやがて炙り出すのは、〈こんな万博前夜はないな〉とある人が55年前と比べて嘆くように、絶望と希望が境を一層失くした今の時代そのものだ。
【プロフィール】
吉川英梨(よしかわ・えり)/1977年埼玉県生まれ。大妻女子大学短期大学部日本文学科卒。出版社勤務の傍らシナリオを学び、2008年『私の結婚に関する予言38』で第3回日本ラブストーリー大賞エンタテイメント特別賞を受賞しデビュー。「女性秘匿捜査官・原麻希」シリーズを始め、「新東京水上警察」「警視庁53教場」「十三階」「埼玉県警・奈良警部補」「海蝶」「感染捜査」シリーズなど、数々の人気作品群を持ち、映像化作品も多数ある。海上保安友の会理事。162センチ、B型。
構成/橋本紀子
