アカデミー賞で話題の映画「ハムネット」に、幻の「新作」刊行も…没後410年を経て世の中を騒がせる「シェイクスピア」の魅力
いま、書店の「海外文学」コーナーで、シェイクスピア関連の“不思議な本”が2点、目に入る。
【写真を見る】没後410年…まだまだファンを楽しませるシェイクスピアの魅力
1点は、『ハムネット』。現在公開中の映画の原作として、あらためて注目されている小説だ。だが、一瞬『ハムレット』の誤記では? と思った方もいたのでは。
そしてもう1点が、角川文庫の新刊、シェイクスピアの『新訳 タイタス・アンドロニカス/ファヴァシャムのアーデン』である。2作収録だが、後者の『アーデン』は、「そんなシェイクスピアの芝居、聞いたことないよ」の声が聞こえてきそうだ。
この春、出版界で静かな注目を集めているこの2点、どんな本なのだろうか。まずは、映画公開で話題の『ハムネット』から。

『ハムレット』と『ハムネット』のちがいとは
『ハムネット』は、アイルランド系のイギリス人作家、マギー・オファーレル(1972〜)が、2020年に発表した小説である(小竹由美子訳、新潮クレスト・ブックス、2021年邦訳刊)。
ひとことでいうと、名作戯曲『ハムレット』の誕生秘話である。主人公は、シェイクスピアの妻、アグネス。この夫婦には、長女と、その下に男女の双子がいた。この男の子の名前が〈ハムネット〉なのだが、11歳で亡くなっている(おそらくペストで)。家は、ロンドンから遠く離れた地で、シェイクスピア本人は、ロンドンに“単身赴任”中である。
……と、以上は史実なのだが、実は、この一家については、これ以上に詳しいことは、あまりわかっていない。邦訳を刊行直後に読んだという、シェイクスピア好きな編集者の話。
「一読、呆気にとられました。あまりに筆致がリアルなので、もしかしたら、最新研究にもとづく“新説”でも参考にしているのかと錯覚したほどです。しかし、はっきりいって、ほぼ全編が“完全創作”です。つまり、歴史ファンタジーなのです。なのに、違和感も不快感もないどころか、これが真実であってほしいといいたくなる、感動的な小説でした。現在進行形のような詩的な文体ですが、翻訳者・小竹由美子さんが、美しい日本語に移しかえています」
アグネスの結婚相手は8歳年下の男だが、作中では、名前は語られず〈夫〉〈彼〉などと記される。
「自然豊かな地で生まれ育ったアグネスは、薬草に通じており、啓示や運命を感知する不思議な能力があります。最初の子は女子だったので、次に生まれてきた双子の、片方の男子ハムネットに、家の今後を託そうと決意します」(前出・編集者)
〈この小さな子が外の、寒い霧のたちこめる荒れ地で、母親なしで暮らさなくてはならないなんて、考えられない。この子を死なせはしない。(略)今や彼女にはわかっている。あり得るのだ、十二分に可能性があるのだ、子どもたちの一人が死んでしまうということは、何しろ子どもというのはひっきりなしに死んでいるのだから。だが彼女はそうはさせない。させるものか。この子を、この子たちを、生命力でいっぱいにしてやる。〉(前掲書より)
しかし、期待もむなしく、ハムネットは幼くして亡くなってしまう――〈アグネスは囁いている。お願い、お願い、ハムネット、お願い、わたしたちを置いていかないで、いかないで。〉(同)
息子ハムネットの死後、呆然と過ごすアグネスだが、やがてロンドンで“単身赴任”中の〈夫〉が書いた新作芝居のタイトルが『ハムレット』であることを知る。
〈なんだって息子の名前がロンドンの芝居のチラシに? 何かおかしな、とんでもない間違いがあったのだ。あの子は死んだ。この名前は息子の名前だ、でもあの子は死んだ、まだ四年にもならない。〉(同)
当時、人名表記はあいまいで、〈ハムネット〉も〈ハムレット〉も、おなじ名前だった。そもそも〈アグネス〉も、通常は〈アン〉〈アニェス〉が多かったのだ。日本でも、むかしは〈ゆき〉〈おゆき〉〈ゆき子〉など、人名の読みや表記は“自在”だったが、それに近いようだ。
感動的な映画のクライマックス
「混乱するアグネスは、我慢できずにロンドンまでその芝居を観に行きます。当時、住んでいたストラトフォード=アポン=エイヴォンから、185キロも離れたロンドンへ、女性が芝居を観に行くなど、ありえないことです。しかし著者オファーレルは、小説のなかで、アグネスを馬に乗せ、3日かけてロンドンまで行かせるのです。ここでアグネスが初めて出会う大都市ロンドンの描写は見事で、17世紀初頭のこの町の匂いまでが伝わってくるようです」(前出・編集者)
果たしてアグネスが観た『ハムレット』とは、どういう芝居だったのか。〈夫〉は、死んだ息子の名を、どこに、どのように使ったのか……。
「ラスト約10ページは、圧巻としかいいようがありません。特に、芝居『ハムレット』をご存じの方は、涙がにじむと思います。映画館でも、このラスト部分では、すすり泣きが聞こえました」(同)
その映画「ハムネット」(クロエ・ジャオ監督、2025)は、2026年の米アカデミー賞に8部門でノミネートされ、アグネスを演じたジェシー・バックリーが主演女優賞を受賞した。映画ジャーナリスト氏の話。
「正式刊行前のバウンドプルーフ(試読本)で原作小説を読んだプロデューサーのリザ・マーシャルが、すぐに映画化権を獲得しました。サム・メンデス、スティーヴン・スピルバーグといった人気監督をプロデューサーに迎え、脚本・監督は、2020年の『ノマドランド』で、米アカデミー賞作品賞、監督賞、主演女優賞(フランシス・マクドーマンド)の3冠受賞を達成した、クロエ・ジャオが起用されました。原作者オファーレルも脚本に参加しています」
この映画は、昨年秋の東京国際映画祭でクロージング作品に選定され、上映後は拍手喝さいとなった。
「17世紀初頭のイギリスの地方や、ロンドンの芝居小屋などが見事に再現されており、特に、気が強いながら、どこか神秘的なおもむきのあるアグネスを、ジェシー・バックリーが見事に演じています。彼女は、米アカデミー賞主演女優賞を受賞しましたが、クロエ・ジャオ監督作品から2人目の主演女優賞となったわけで、ジャオ監督の名伯楽ぶりも話題となっています」
先述のように、アグネスがロンドンまで行って『ハムレット』を観るクライマックスは、圧倒的な感動を呼ぶ。
「ここで、マックス・リヒターの楽曲《On the Nature of Daylight》が流れます。この曲は、すでにいくつかの映画で使用されている有名曲ですが、まるでこの映画のために書かれたと思えるほどピッタリ合っているので、ちょっと驚きました」
シェイクスピア本人が登場する映画といえば、米アカデミー賞で作品賞など7部門を受賞した「恋におちたシェイクスピア」(ジョン・マッデン監督、1998)が有名だ。最近では劇団四季が舞台上演している。
「そのほか、シェイクスピアの晩年を描く『シェイクスピアの庭』(ケネス・ブラナー監督、2018)は、息子ハムネットの早世が断筆につながったとの設定でした。『ハムネット』とあわせて観ると、またあらたな感慨をおぼえると思います」
〈正典〉37作に、新たに加わった“新作”とは
シェイクスピア関連の“不思議な本”、もう一点は、角川文庫、3月の新刊『新訳 タイタス・アンドロニカス/ファヴァシャムのアーデン』である。シェイクスピア学者で、『謎ときシェイクスピア』(新潮選書)などで知られる東京大学教授(この3月で定年退職)の河合祥一郎氏が手がけている新訳シリーズの最新刊だ。“不思議”なのは、後者の『アーデン』である。ふたたび、シェイクスピア好きな編集者の話。
「シェイクスピアが生涯に書いた芝居は、一般に37作といわれており、それらは〈正典〉(キャノン)と呼ばれています。この『アーデン』は、『タイタス』とおなじ版元が刊行しており、作者名がないものの、次第にシェイクスピア作ではないかとの声が出はじめました。すでに1970年代から、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが舞台上演していますが、あくまで作者不明作品としての上演でした」
角川文庫の訳者あとがきに詳しいが、2000年代に入ってコンピューターによる分析がはじまり、ついに2016年の「新オックスフォード版シェイクスピア全集」に、正式におさめられた。
「本国の全集に加わったわけですから、これでシェイクスピア作品は、全部で38作となったわけです。いままで37作の正典すべてを単独翻訳したのは、坪内逍遥、小田島雄志さん(白水社Uブックス)、松岡和子さん(ちくま文庫)の3人です。このままいけば、おそらく河合先生は、日本で初めて38作全作を翻訳したひとになるでしょう」
実は『アーデン』は、東京経済大学名誉教授・川井万里子氏によって、2004年に邦訳が刊行されている(成美堂刊)。ただし、表紙には「エリザベス朝 家庭悲劇」「作者不詳」と明記されていた。これに対し、今回の河合新訳は、シェイクスピア特有の原文の韻や響きにこだわり、日本初の「舞台上演台本」として翻訳されている点が画期的だ。
さてさて、そんなシェイクスピアの“新作戯曲”『ファヴァシャムのアーデン』だが、いったい、どんな芝居なのだろうか。
エリザベス朝「黒い報告書」
シェイクスピアのほかの作品同様、本作もネタ本があるようで、おなじ話が当時の「年代記」に記されているという。
「舞台はロンドンから80キロ近く離れた地方都市ファヴァシャム。この地の紳士アーデン氏の妻アリスは、モズビーという若い男と不倫関係にあります。この2人が、じゃまになったアーデン氏を殺害する話です。ところが、なかなかすんなりとは殺せず、そのあたりは、ブラックコメディのようでもあります。しかし最終的にアーデン氏は殺され、アリスやモズビーも逮捕され、死刑となります。因果応報の教訓を説いたとも読めますが、演出次第では、喜劇風にもなりそうで、いろんな解釈ができる芝居です」
「アーデン」と聞いて、シェイクスピアのファンなら、ピンとくるだろう。『お気に召すまま』には「アーデンの森」が登場する。シェイクスピアの母親の旧姓も「アーデン」だった。また、豊富な注釈と現代英語表記で編纂された全集シリーズ〈アーデン版シェイクスピア〉などもある。
「ところが、この芝居は実在の事件を、ほぼそのまま劇化しており、人物名もほとんどが実名。実際の被害者はファヴァシャムの元市長、トマス・アーデン氏です。つまり現実の殺人事件がリアルに舞台化されたわけで、まさに週刊新潮の人気連載『黒い報告書』もかなわないストレートな芝居でした。おそらく当時の観客は、びっくりしたでしょう。現に河合先生の解説によると初演は好評で、これを機に家庭内殺人事件を描く模倣作が続出したそうです」
さすがに初めて文庫に収録された“新作”ということで、河合氏の解説は、実に読み応えがある。注釈も微に入り細を穿つ内容だ。
「実は、この“新作”が、『ファヴァシャムのアーデン殺人事件』と題し、11月に東京・調布市せんがわ劇場で、日本初演される予定なのです。河合先生自らが演出するKawai Projectシリーズの一環です。ある意味、2026年の日本演劇界、最大の話題作といえるのではないでしょうか」
映画では名作『ハムレット』の誕生秘話が描かれ、舞台では幻の作品『アーデン』が日本初演される――逝って410年たつというのに、シェイクスピアは、まだまだ、わたしたちを楽しませてくれるようである。
森重良太(もりしげ・りょうた)
1958年生まれ。週刊新潮記者を皮切りに、新潮社で42年間、編集者をつとめ、現在はフリー。音楽ライター・富樫鉄火としても活躍中。
デイリー新潮編集部
