日米通算4367安打。アジア人初の米国野球殿堂入りを果たした不世出の天才・イチロー。しかし、オリックス入団当初の「鈴木一朗」のプロ生活は、決して順風満帆ではなかった。

【画像】「次のスーパースターが出てきたじゃないか」日本の首脳陣は評価しないのに…イチロー(18)の“恐ろしい才能”に気づいた“三冠王助っ人外国人”

 ここでは中溝康隆氏の著書『プロ野球1年目の分岐点』(PHP新書)の一部を抜粋。入団1年目のイチローをめぐるエピソードを紹介する。


シアトル・マリナーズ所属時代のイチロー ©文藝春秋

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ブーマーの慧眼

 球団関係者は「将来は福本さんのような選手に育ってほしい」と新人の鈴木一朗に期待をかけ、5月22日まで二軍で打率4割台を維持するも、本人は「二軍だから通用している。一軍ではこうはいかない」といたって冷静だった。

 身長180cm、体重75kgの細身の身体だったため、1年間は体作りでウエートトレーニングに励みながら二軍の試合で鍛える首脳陣の事前プランも、ファームであまりに打ちすぎたため、6月2日の一軍40人枠の入れ替えで急遽登録。しかし、1年目はじっくり基礎を作りたいと考えていた鈴木は、一軍昇格の知らせにも「まだ早すぎる。なんとか断ってください」とマネージャーに懇願するほどだった。

 まだあどけなさの残る童顔の新人は、当時流行ったトレンディー俳優・吉田栄作ばりのサラサラヘアーで女性人気も高く、『週刊ベースボール』の読者交流コーナー「レターキャッチボール」では、「オリックス・ブルーウェーブの鈴木一朗選手に関するものを譲ってください」という熱心な女性ファンのメッセージが頻繁に確認できる。

 神戸の選手寮・青濤館の406号室に住む若者は、理想のタイプには鈴木つながりの「鈴木保奈美」を挙げ、欲しい物を聞かれると「NBAのパトリック・ユーイングのTシャツ」と答える普通の18歳の素顔があった。

 7月11日のダイエー戦で初出場するとプロ初打席は本原正治から二ゴロ、翌12日には「9番・左翼」で初スタメンを飾り、5回の第2打席で木村恵二からライト前へ記念すべき初安打も放った。なお、当時ダイエーでプレーする元三冠王のブーマー・ウェルズは、鈴木が試合前の打撃練習を始めるとランニングをやめ、打撃ケージの真後ろから食い入るように見つめた。しばらくすると、古巣オリックスの球団関係者に「よかったなあ。次のスーパースターが出てきたじゃないか」と祝福の声をかけて回ったという。

 そして、鈴木はジュニア・オールスターに選出され、同点で迎えた8回に中村紀洋(近鉄)の代打で登場すると、ライトスタンドへ決勝のソロアーチを叩き込むのだ。ぺろりと舌を出してベースをまわる18歳の背番号51。驚異の新人は9回にもセンター前ヒットで出塁するとすかさず二盗を決めてみせ、文句なしのMVPに選ばれた。パ・リーグの露出が少なく、動画配信もYouTubeもなかった時代、この試合はテレビ東京で中継されており、いわば多くの野球ファンが「鈴木一朗」という逸材を初めて映像で確認した夜でもあった。

 日常生活も、常に野球と隣り合わせだった。先輩たちが、飲みに出かけて寮に深夜に戻ってくると、室内練習場からマシン打撃の音が聞こえてくる。納得するまで、ひたすら打ち続ける鈴木がそこにいた。プロ1年目、一軍では40試合の出場で打率・253。ウエスタンの打率ランキングでは2位以下に4分以上の大差をつけて、トップを独走し続けた。終わってみれば、238打数で87安打を放ち、打率・366で1960年の高木守道(中日)以来の高卒新人での首位打者を獲得する。ベースボール・マガジン社選定の「ビッグ・ホープ賞」にも、巨人のドラフト1位右腕・谷口功一とともに選ばれた。

振り子打法を貫いて

 だが、ウエスタン・リーグでどれだけ頭抜けた結果を残そうと、土井正三監督をはじめとした一軍首脳陣は、鈴木のフォームを改造しようとしていた。土井監督は「太くて短いバットで地面に叩きつけろ」と俊足を生かして内野安打を狙うダウンスイングを求めたが、二軍の河村健一郎打撃コーチは「俺が責任を持つから無視しとっていい」とアッパー気味のレベルスイングを続けさせた。

 2年目の3月にオープン戦の阪神戦でホームランを放つも、当時の一軍打撃コーチは「鈴木は一番にピッタリだと思っていたんだが、どうもあっさりと凡退するケースが目立つ。今の状態だと、一番は苦しいね」と四球が少ない打撃スタイルに苦言を呈した。1993年の開幕戦は、「九番・中堅」でスタメン出場。2戦目には「一番・中堅」で起用されたが、やがて左投手がマウンドに上がるとまったく出番がなくなり、代走での途中出場が多くなっていく。

〈「入団二年目のオープン戦で一応三割は打っていました(※オープン戦最終成績は打率・273)。開幕9番、スタメンは当然と思っていたんですが、3打数無安打だったのに次の試合はいきなりトップ。びっくりした。それで第2打席で左中間の二塁打を打ったけど、次の打席は三塁ゴロ。結局12打席立っただけで二軍行き。あれではどうしようも納得が出来なかったですよ。なぜ僕が二軍に落ちなければいけないんだ、と思いました。納得がいきません。二軍で好成績を出して、誰が見ても一軍に上げなければいけないという状況を作ろうと、必死で結果を出していましたからね」(『イチロー 素顔の青春』/吹上流一郎/ワニブックス)〉

河村打撃コーチと作り上げた、のちの代名詞「振り子打法」

 そして、二軍降格したイチローはその言葉通りに打ちまくり、ウエスタン・リーグで4月25日の広島戦から8月7日の阪神戦まで、リーグ新の30試合連続安打を記録してみせるのだ(前年の6月20日から2シーズンにわたり46試合連続安打の快挙だった)。たまに一軍に呼ばれて、土井監督から「体の芯が流れてしまっているから打てない」と酷評されようが、もはや聞く気はなかった。7月にはグリーンスタジアム神戸のロッカーで二軍行きを通告され、鈴木は人目もはばからず号泣したという。

 それでも、若者は腐らなかった。ファーム暮らしの屈辱の日々で、二軍の河村打撃コーチと作り上げていくのが、のちに代名詞となる「振り子打法」である。

〈「(振り子打法は)ピッチャーが投げたボールを長くとらえるイメージ、あとはピッチャーに対してお尻を向ける目的がありました。股関節を入れて向かってくるボールにお尻から入っていくと力が伝わります。僕はパワーヒッターではないので、どうすればより力が伝わり、打球を遠くに飛ばせるかを考え、試していました」(『ベースボールマガジン』2025年4月号/1992─2000「イチローとオリックス・ブルーウェーブ」)〉

 2年目は打率・188に終わったが、6月12日の近鉄戦では野茂英雄からプロ初アーチを放っている。一軍と二軍を行き来したためウエスタンの規定打席にはわずかに足りなかったものの、48試合で186打数69安打の打率・371、8本塁打、23打点、11盗塁という図抜けた成績を残したのがせめてもの意地だった。10月13日から約2カ月にわたり、同期入団の田口壮らとハワイのウインター・リーグへ。ヒロ・スターズというチームで背番号5をつけた。振り子打法は理想の形に近づき、鈴木は3割を超える打率を残し、日本人選手では唯一のベストナインにも選ばれた。

オリックスの新監督に仰木彬が就任

 このハワイで20歳の誕生日を迎え、同じ頃、土井に代わるオリックスの新監督には仰木彬の就任が決まる。打撃コーチは新井宏昌を招聘するという。そして翌春のオープン戦、新井は鈴木の才能と飛躍を確信して、「イチロー」への登録名変更を仰木に進言するのである。そのあとの男の人生は、あえてここで語るまでもないだろう─。NPBで9年、MLBで19年の計28シーズンの現役生活。2019年3月、東京ドームで現役引退を表明した45歳のイチローは記者会見で、オリックスの「鈴木一朗」としてプレーした2年間をこう振り返っている。

「最初の2年。18、19の頃は一軍に行ったり、二軍に行ったり……。そういう状態でやっている野球は結構楽しかったんですよ」

 2025年夏には、アジア人で初めて米国野球殿堂入り。なお、日米通算4367安打を放ったプロ人生で、本名の「鈴木一朗」として一軍で放った安打数は「36」。そして、その通算記録には含まれない、まだ無名の背番号51が二軍で積み重ねた安打数は「156」だった。

入団1年目の古田敦也に最悪の評価を下していた野村克也が手のひらを返した“一瞬のきっかけ”とは…「眼鏡のキャッチャーはいらん」「何でこんなサイン出すんだ、ボケ!」〉へ続く

(中溝 康隆/Webオリジナル(外部転載))