「今夜は夫を無視しよう」結婚生活の理想と現実。イライラする妻に対して、温和な夫は…
キャリアが欲しい。名声を得たい。今よりもっとレベルアップしたい。
尽きることのない欲望は、競争の激しい外資系企業のオンナたちに必要不可欠なもの。
しかし、ひとつ扱いを間違えると身を滅ぼしかねないのも、また欲望の持つ一面なのだ。
貪欲に高みを目指す、ハイスペックな外資系オンナたち。
その強さと、身を灼くほどの上昇志向を、あなたは今日目撃する──
▶前回:「時短で楽してるくせに…」ワーママを目の敵にするキャリア重視の女が、不本意な業務を割り振られ…

File8. 綾乃(29)外資系消費財メーカー マーケティング職
「理想的なワーキングマザーのワタシ」を目指す女が忘れていたものとは
「あーあ、朝から康介と喧嘩しちゃった…。昨日の取引先トラブルから全然ついてないなぁ…」
今朝の夫の康介との喧嘩。原因は、明らかに綾乃にあった。
昨日、部下の不手際で取引先とのトラブルが発生したために、娘の真奈の保育園へのお迎えを夫の康介に頼まざるを得なくなったのだ。
夫婦の間では、「送り=康介、お迎え=綾乃」が基本ルールとなっている。そのため、この状況であれば綾乃は康介に「ありがとう」と伝えるべき立場だ。
しかし、仕事のトラブル、お迎えを康介に任せた後ろめたさ、家事のリカバリーなどで、昨日の綾乃はすっかりキャパオーバー状態。
そして今朝。
「真奈の保育園に持っていく着替えの服が見つからない」という、他人から見たら非常に些細な出来事をきっかけに、ヒステリー気味に康介に当たってしまったのだ。
いつも温厚な康介のことだ。少しくらい八つ当たりしてもさらっと流してもらえると、心のどこかで思っていたのかもしれない。しかし、今朝の康介は黙ったままではいなかった。
「そんなことくらい、俺に任せればいいだろう?綾乃は一体何に向かってそんなに頑張っているの」
ぐうの音も出ない綾乃は「もう、いい!」という言葉を残して、そのまま家を出てしまったのだった。
― あぁ、今日は家で何て康介に言おうかな…。こんな鬱々とした気持ちで謝っても、仲直りできそうもないなぁ…
ぼんやりと思いながらも、今日は彼にお迎えを任せるわけにはいかないと気合を入れる。
食べ終わったサラダ容器を捨て午後の仕事に取り掛かりはじめると、綾乃はポツリと呟くのだった。
「どうしてこんなことになっちゃったんだろう…」
理想とする「ワーキングマザー像」とのギャップに悩む綾乃
綾乃が康介と結婚したのは、2年前だ。
外資系消費財メーカーのマーケティング部門に新卒から勤務する綾乃の年収は、当時すでに1,300万円。1人で生きていくのに十分な収入を得ていた綾乃は、もともとそこまで結婚願望が強いわけではなかった。
しかし、そんな綾乃が「結婚しなければ…」と考えを変えたのには、ある理由があったのだ。
それは、会社のみならず世間にもある「ワーキングマザー礼賛」の風潮。
社内でメディア取材を受けたり、いわゆる「ロールモデル」とされたりする女性のほとんどが、結婚・出産して子育てをしているワーキングマザーだった。
― 外資系企業では、成果を上げるだけでは物足りない。これからは家庭も仕事も充実していないと、誰からも評価されない!
そう思い詰めはじめた矢先に、当時付き合っていた康介からちょうどプロポーズされた。
― ワーキングマザーとして輝くなら、出産適齢期から逆算して、いま結婚しておくのはアリかも…。
康介にはとても言えないが、そんな打算もあって、綾乃は結婚を決めたのだった。
◆
― 理想を叶えたくて結婚生活を送っているのに、何でこうもうまくいかないんだろう。私の努力が足りないのかしら…。もっともっと、頑張らないといけないのかなぁ。
モヤモヤとした気持ちが収まらない綾乃は、保育園のお迎え前の少しの時間を利用してショッピングフロアにあるブックストアに立ち寄る。
書籍は普段Amazonで購入することが多いが、モヤモヤした気分を変えるきっかけが欲しかったし、たまには紙の本を手にするのもいいかもしれないと思ったのだ。
店舗に入りはじめに目についたのは、「仕事・キャリア・自己啓発」のコーナー。
― 社会人になったばかりの頃は、こういう自己啓発系の本に勇気づけられていたっけ…
今から思えば肩に力が入りすぎていた若手の頃を思い出し、棚に並ぶ自己啓発本を前に、綾乃は1人苦笑する。
そんな時、1冊の本のタイトルが目に入ってきた。
『働く女性のための 仕事の教科書 ― 30代編』
― まぁ、何ともありがちなチープな題名だわ…
心の中でつぶやいたが、そのもうすぐ30歳の誕生日を迎えるからだろうか。「30代」というワードが無性に気になった綾乃は、思わずその本を手にしていたのだった。
本の目次には、“ワークとライフの両立を”、“10年後のキャリアを考えよう”、“女性こそ、次世代リーダーに”…、これまたありがちな言葉が散らばっている。
「まぁ、こんなものよね…」
そう思う反面、エネルギーに満ちていた若手の頃を懐かしく思い出せる気もした。
自己啓発本を卒業してかなりの月日が経っていたが、久しぶりにこういう本を読んでみれば、自分に喝を入れられるかもしれない。
それに、今日本を買って帰ることは、今の状況に適しているような気がしたのだ。
普段は、真奈を寝かしつけた後は、康介とふたりリビングでゆっくりと過ごすことが多い。
しかし今日に限っては、喧嘩したばかりの康介とリビングで一緒に時間を過ごすのはどうにも気まずくて避けたいと思っていた。
「本を買ったことで部屋に籠る言い訳もできるわ。今日は家事と育児を最低限した後は、部屋に籠って読書でもしようっと」
そう考えた綾乃は少し悩んだ後、手に取った本を購入することに決めたのだった。

今日は無事にお迎えも行くことができ、夕方からの家事育児もスムーズに回すことができた。
真奈を寝かしつけた後、綾乃はこう康介に言った。
「私、今日ちょっと本買ってきたら、部屋で読んでるね!」
後ろめたさを払拭するべく努めて明るくこう言うと、綾乃は本を購入した時の算段通り、別室に籠って買ってきた本を読み始める。
しかし、その矢先…。
「ちょっといい?」
しっかりと締め切ったドアを、康介がそう言いながらいきなり開け放つ。
そして、ズカズカと綾乃の元へと歩いてきたかと思うと、次の瞬間。
読んでいた本を綾乃の手元から、有無を言わせず取り上げたのだ。
康介がとった驚く行動とは…
「ちょっと!何するのよ」
康介の突然の行動に驚きを隠せない綾乃は、思わずうわずった声を上げる。
そんな綾乃の目をじっと見ながら康介は言う。
「あのさ、今朝のこともだけど…」
立っていた康介が、綾乃に視線を合わせるように椅子に腰かけた。
― あぁ、今朝のことやっぱりぶり返されるのか…
今朝のことは自分が悪いのもわかっている。
だからこそ気まずくて別室に籠っていたのに、正々堂々と戦おうと挑まれたような気がして、綾乃は康介から目をそらしたくなった。
何を言われるのだろう。
漂う緊張感に、思わず身構える。表情が強張るのが自分でもわかる。
しかし、康介が発した言葉は綾乃の予想を裏切るものだった。

「綾乃、すごく頑張っていると思うよ。でも、家族で協力してじゃなくて、綾乃1人が勝手に頑張っている。
自分の理想の姿に近づきたいのはわかるけど…綾乃が思い浮かべている理想は、俺と一緒に描いたものかな?」
「え…?」
1人で、勝手に頑張っている。
康介の言った言葉に、綾乃は衝撃を受けた。
― 理想の姿。理想の生活。すべて私だけが、1人であがいていた…?
綾乃が目指し続けていた理想。
外資系企業で業務の成果を上げるだけではなく、オンもオフも充実したい。
出産後も子供がいてもしっかりと働ける女性でいたい。
夫が、「いい奥さんを持って幸せだね」と評価されてほしい。
「外資系のオンナは可愛くない」と言われないよう、夫に愛される理想的な妻でいたい…。
そんな“理想のワーキングマザー”になるために、綾乃は結婚生活のすべてを、まるで仕事のようにタスクとして徹底的に実行していった。
でも…。
― 康介も同じことを求めていたのか?と考えてみると、分からない。そもそも私、康介の考えをきちんと聞いたことも、話したこともなかった…?
“完璧”を追い求めすぎていた綾乃の理想は、もはや“理想”ではなく“呪い”のようなものに変わってしまっていたのかもしれない。
少しでもうまくいかないと、苛立ちを募らせる毎日。
夫婦であるにもかかわらず綾乃は、康介のすぐ隣でひとり、溺れるようにもがいていたのだ。
「自分の理想や他人の経験ばかり追い求めるんじゃなくて、俺と会話しようよ。時には頼ったって、すがったっていいんだよ。結婚生活ってそういうものだろ?
もっと肩の力を抜けよ、頑張っているのはわかってるからさ」
そうたしなめる康介の瞳は、優しい。
もがきつづける綾乃の隣で、康介はいつでも綾乃を受け入れてくれていた。
しかし綾乃はというと、康介と向き合えていなかったし、向き合おうともしていなかった。
康介と理想の家庭像。
康介の理想の子育て。
綾乃は、何一つ思い浮かべることができない。
生き馬の目を抜くような外資の世界に生きてきて、結婚生活も仕事と同じように自分の力で自分の理想を実現しようと躍起になっていた綾乃にとって、康介の言葉は衝撃だった。
― 私に必要なのは、“頑張る”ではなくて…“向き合う”だったってこと…?
自分がどれほどあたりまえの世界から遠ざかってしまっていたのか。
その事実を嫌というほど理解した綾乃は、ただ何も言えずに、康介の目の前で言葉をなくしていた。
そんな綾乃の手に、そっと康介の手が重なる。
自己啓発本の冷たく硬い感触とは正反対の、あたたかく柔らかなぬくもり。
まるで凍りついていた体が指先から溶けていくような感触に、綾乃の心もゆっくりと柔らかく解けていく。
「こんな本を1人で読むよりさ、リビングで一杯ビールでもどう?…俺と綾乃、ふたりで一緒に」
穏やかな康介の言葉が、今の綾乃の胸にはしっかりと届いた。
綾乃は康介の手を握り返すと、会社にいる時とは全く違う、優しい微笑みを久しぶりに浮かべる。
そして、自分が選んだ夫の目をまっすぐに見つめながら言った。
「うん、そうだね。ふたりで一緒に!」
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