まだ文化人枠が少なかった90年代末から「ミス日本の女医」として芸能活動を開始し、20年にわたってテレビを賑わせてきた西川史子さん。4月に50歳を迎えたばかりの西川さんに、芸能界の第一線から距離を置く理由や、これまでのタレント業での思い出などについてじっくり伺いました。(全3回の1回目/#2に続く)

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西川史子さん

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50歳を迎え、運命に流されず、逆らわず

――4月に50歳のお誕生日を迎えられたとのこと、おめでとうございます。50歳になってみて心境の変化などありましたか。

西川史子さん(以下、西川) ありがとうございます。運命に流されず、逆らわずみたいな心境ですね。苦しんだり我慢したりするのではなく、楽しい時間を増やしていきたいなと、ゆるく考えています。ただ、勤めているクリニックの看護師さんがわざわざ、細木数子の六星占術を読み上げてくれたおかげで、自分が大殺界中であることを知りまして。細木さんいわく来年まで動くなということだったので、落ち着いて、穏やかに過ごしたいですね。

――2020年1月からタレント業を大幅に減らしはじめ、2020年3月には『サンデー・ジャポン』を卒業。本業である医師としてのお仕事へと軸足を移されたんですよね。これまでの生活とかなりギャップがあったのではないでしょうか。

西川 テレビの仕事は時間帯が普通ではなかったので、クリニックでの9時から19時勤務という人間らしい暮らしに慣れるのに時間がかかりました。普通の時間に帰ってきてココとしのぶ、2匹の犬にご飯をあげて、それから自分の夕飯を食べる……みたいなことがずっとできていなかったことに気がつきました。あとはまあギャップというか、目が見えなくなってきたという実感はあります(笑)。作業に応じて、老眼鏡を毎回替えなきゃいけない。

「やっぱり私は医者なんだ」と原点に戻った

――なぜ昨年のタイミングで医業をメインにするキャリアシフトを決断したのですか。

西川 それこそ50になる前に今後の人生をどうしていこうか、考えた結果でした。離婚後も以前と同じような生活を送っていたんですけど、もっと「自分の軸になるもの」は何だろうかと。自分は一体何者なんだろうという考えに立ち返った時、「やっぱり私は医者なんだ」と原点に戻った感じですね。医者になるのには大金がかかっていますから、その元を取らなきゃっていうのもあります。

医療についてわかりやすく情報発信する存在になれたら

――そもそも、なぜ医師である西川さんがテレビで活躍することになったのですか。

西川 直接のきっかけはホリプロの部長のスカウトでした。でも当時はバラエティに出たいとかタレントになりたいと思っていたわけではなく、医療についてわかりやすく情報発信する存在になれたらいいなと思っていました。でも結果的に、バラエティの方が楽しくなっちゃったんですね。

――つまり、芸能の仕事としてはまるっきり素人だったわけですよね。そのトーク力は一体どこから……?

西川 私はただただテレビが大好きで、起きたらリモコンのボタンを「ポチッ」と押してたから、家族に「起きポチちゃん」と呼ばれていたくらいテレビっ子だったんです。『欽どこ』や『ひょうきん族』、ドリフ、松田聖子さん……。70年代〜80年代に浴びるように見たテレビは全部がキラキラしていて。だから自分がそこに出させてもらうなら、何か役目を果たさなくちゃ、という思いはありました。

芸能活動は「趣味」。好感度なんか気にしなかった

――役目というのは、「毒舌キャラ」のことでしょうか。

西川 それはキャラというか、本当の気持ちを大げさに表現していただけで、全部本音だったんですよね。私には医者という本業があって、芸能活動やテレビに出ることは純粋な「趣味」なんです。だから好感度なんかを気にせず、正直に感じたことを話せた。同世代の女性たちが「これは変でしょ」と考えていることを「変だよね」とテレビで言えないと、私が出させてもらっている意味はないと思っていました。たとえば今なら小室圭さんの話題とかですね。

 ただその役目を果たさなきゃという気持ちが大きくなりすぎてしまった結果、ずいぶんキャラに食い殺されてしまったとは思います。

――心がけられていたのは、時代の空気を代弁する、みたいなことですか。

西川 そんな高尚な気持ちはないんですよ。ただ私が言いたいことを吐き出していただけで、私はたぶん普通の人なんです。有吉(弘行)さんからつけてもらったあだ名は「普通のおばさん」ですから。わあ、この人は本質を見てると思いました。

業界内、医者仲間から言われたこと

――「素人のくせに」みたいな業界内からのやっかみはなかったですか。

西川 「素人が出てくるな」というのはすごく言われましたね。タレントさんから「医師免許があるからいいわよね」という言葉を投げかけられたり。あとは医者仲間から、「同じ学校の出身者だと思われたくないから大学名を言わないでくれ」とか「医者を名乗るな」とか、色々言われました。

 でも、そんなことはなんでもないくらいテレビの仕事が面白かったんです。今はもう自分の出た番組を全然見ないようになりましたが、昔は番組ひとつにつき、300回は見返していました。どこを使われて、どこをカットされたのかとか……。

すごく嬉しかった爆笑問題・田中の言葉

――西川先生といえば、やはり13年にわたってレギュラー出演していた『サンデー・ジャポン』の印象がお茶の間に浸透していると思います。生放送だけに毎週プレッシャーも大きかったのでは。

西川 最初は病気の解説といった「医療情報を伝える文化人枠」みたいな形で呼ばれていたんですが、そのうちにレギュラーになって。私はずっと、画面から見て一番左はじの席に座るのが夢だったんです。自分の右側から見た横顔が好きだから、右から撮ってもらえる位置に座りたかったのね(笑)。でもその場所をもらったことで今度は「何か言わなきゃ」って自分で自分を追い込んでしまって、前日にお腹を壊すこともありました。

――メンバーに相談したりしたのですか。

西川 (爆笑問題の)田中さんにはよく相談していましたね。太田さんは全く知らなかったと思いますが(笑)。『サンジャポ』卒業、最後の日の放送で田中さんが、「ある時期、西川さんが日本中のタレントの中で一番テレビに出てた時代があったよね」とねぎらいの言葉をかけてくれて。この言葉はオンエアされてないと思うんですけど、「そっか、私頑張ったんだよね」と思えて、それはすごく嬉しかったです。

 一番忙しかった時期は、それこそ一日何時間カメラの前にいたんだろうっていうくらいで……週6稼働で一日2、3現場は当たり前でした。月曜日だけはクリニックの診察に出ていたのでお休みしましたが、マネージャーはタレントの仕事が入らない日に熱を出してくれるんですね(笑)。あまりに忙しくて、周りが倒れることはよくありました。

牙が抜けて、だいたいが「別にいいんじゃない?」

――そんなに多忙な中で、ご意見番としての情報収集はどうやって続けていたのでしょう。

西川 「週刊文春」はよく読んでますよ、本当に。これは自分自身が書かれる立場を体験したから言えますけど、他の週刊誌と比べて文春はものすごく正確なんです。何回か載りましたけど、ほぼ全部合っていましたから。裏取りがしっかりしているんだと思いました。写真が綺麗なのは「FRIDAY」ですね。本当の情報を求めるなら文春で、自分が撮られるなら「FRIDAY」だねって、山本モナちゃんと話し合ったことがあります。

 今も「これってどう思う?」って何か意見を求められる時、「『サンジャポ』的にお願い」って言われることがあるんです。でも私はもう牙(きば)が抜けてしまっているから、だいたいが「別にいいんじゃない?」なんです。「死ぬわけじゃないしさ」と。でもそうなるとテレビ的ではなくなってくるんですよね。

これからのテレビは本当に面白くてためになるものが残っていく

――西川先生がかつて出した本のタイトルは『女盛りは、賞味期限が切れてから』『年収4000万にこだわる理由(わけ)』などですが、今こういった発言は……。

西川 さすがの私も気をつけています。制作側が求めるものも、以前とは変わってきました。『年収4000万にこだわる理由』は、最初は全然違うタイトルだったんですけど、数字を入れたほうがインパクトがあるだろうとか、いろいろ考えた末に決めたものでした。やっぱり「こういう方が面白いじゃん」という時代だったんですよね。

 そもそも「4000万」という数字は、勤務先のクリニックの院長が「君の生活は4000万か、3000万にプラス経費がそうとう認められる相手なら大丈夫ではないか」と算出してくれた数字なんですよ。私は3000万円だと思っていたんですけど。だから事実には基づいているんですが、今は何でもかんでも事実を言っていいわけではないんだと思います。

 これからのテレビは本当に面白くてためになるものが残っていく。今はそういう時代に向けた過渡期なのかなって思っています。

写真=鈴木七絵/文藝春秋

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(小泉 なつみ/文藝春秋 digital)