2003年12月5日、早大の学生だった鳥谷(右)は岡田監督の就任記念パーティーに出席した。強い絆で結ばれていた…

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【球界平成裏面史 阪神・鳥谷編(2)】阪神・鳥谷敬内野手の存在感は並のルーキーとは違っていた。早大時代には2度の首位打者に輝き、遊撃手としてベストナインに選ばれること5度。4年時には日米大学野球で日本代表に選出されるなどアマチュアでの実績も申し分なかったが、何かと“色目”で見られることが多かったのは、プロで直属の上司となった岡田彰布監督が早大の大先輩であったことと無縁ではない。

 入団1年目の平成16年(2004年)、岡田監督はオープン戦中の3月15日にファン注目の開幕オーダーについて「1番の今岡、4番の金本にはもう言ってある」と切り出し「2番は赤星、3番はキンケード…」と9番まで次々と名前を挙げてスタメンを公表した。その中で「7番は決めているけど今は言えない」ともったいぶって明かさなかったのは、心に決めていたのが鳥谷だったからだろう。

 シ烈な正遊撃手争いでは、前年に初の規定打席到達で打率3割1厘をマークした藤本敦士がオープン戦でチームトップの打率3割6分を残していた。一方の鳥谷はパッとせず、キャンプ中から他球団のスコアラーに「攻守にバランスが取れている素晴らしい選手だが、開幕からいきなり出てくる即戦力という感じはない」と評されていた。

 選手を含めたチーム関係者の多くは藤本に軍配が上がるとみていたが、最終的には“指揮官の一存”で決まった。岡田監督は「実力のある者を使う」から一転して「数字だけでは判断しない」と言い、4月2日の巨人との開幕戦(東京ドーム)には「7番・遊撃」で鳥谷を抜てきした。

 この決断にはチーム内から「えこひいきやないか」などと不満の声が噴出した。岡田監督が首脳陣ミーティングの場でコーチたちに「お前ら、鳥谷を壊したら責任取ってユニホーム脱げよ」などと“クビ通告”したことも火に油を注ぐ格好となった。

 チーム内では「やっぱり“アレ”があったからか…」との声もあった。「アレ」とは、自由枠での獲得を目指す中で、阪神と早大・鳥谷サイドとで交わされたとされる“密約説”のこと。阪神側が鳥谷の開幕スタメンを保証し、最低30試合の起用を確約するといった内容で、スカウトの間ではまことしやかにささやかれていた。

 前任の星野仙一監督が「力で勝負ならいいが、無条件でレギュラーを与えるとは何事や」と怒ったとの情報もあったが、当時のドラフトは逆指名や自由獲得枠を導入してから“無法地帯”と化していた。協約破りの裏金は公然の秘密で、起用に関するサイドレターも珍しくなかった。そのため鳥谷に“疑惑の目”が向けられた格好だが、早大側はこれを真っ向から否定し、阪神側も球団幹部が「口説き文句で出た可能性はあるが、契約条項の事実はない」と断言して火消しを図った。

 確かに鳥谷の処遇を巡っては腑に落ちない話が多々あり、その分だけ周囲のヤッカミもきつかった。関東育ちで早大出身のエリート、おまけに岡田監督の“寵愛”まで受けている。ルーキーの鳥谷は「まだまだ自分に余裕がないです。頑張るしかないですよ」と多くを語ろうとしなかったが、心技体ともに大変だったと思う。

 ここで白旗を振っていたら並の選手で終わっただろう。だが、そうならないのがこの男のすごいところでもある。

=続く=