35年前の出来事をNIBのアーカイブ映像と新聞の紙面で振り返る「プレイバック長崎」。

43人が犠牲となった雲仙・普賢岳の「大火砕流」を振り返ります。

こちらは1991年5月21日の読売新聞です。

見出しには『地獄跡火口に溶岩塊』とあります。

1990年11月、198年ぶりに噴火活動をはじめた普賢岳で、山頂付近に溶岩ドームが確認されたことを伝えています。

『流出、当面なさそう』とあるように、当時はまだこの変化が後に起きる大災害の前触れになるとは多くの人が想像していませんでした。

しかし、その6日後となる35年前のきょうの新聞には『火砕流多発 集落へ600メートル』と大きく掲載されています。

火砕流は集落へ迫り、北上木場地区や深江地区の住民へ避難勧告が出されるなど、島原半島では緊張感が高まっていきました。

1990年11月に始まった普賢岳の噴火活動。

山頂付近では、地下から押し出された溶岩が徐々に盛り上がり始めます。

その後、不安定になった溶岩の一部が崩れ、高温の火山灰や岩石、火山ガスが高速で流れ下る『火砕流』が発生。

作業員がヤケドを負うなど被害が出始め、付近住民3500人に避難勧告が発表されました。

そして…。

1991年6月3日。『大火砕流』が発生。

火砕流と熱風は山の麓まで一気に流れ下り、当時、山の調査をしていた火山研究者や消防団員、報道関係者など43人が犠牲となりました。

翌日の紙面には『火砕流31人不明』と当時の緊迫した状況が大きく伝えられています。

突然奪われた日常に、多くの人が忘れられない記憶を抱えることになりました。

そして、35年経った今もあの日の記憶が風化することがないよう継承の取り組みが続いています。

大火砕流で大きな被害を受けた、安中地区にある島原市の第五小学校。

総合学習の一環で小学4年生がおこなっているのは…。

(児童)

「噴石や火山灰について調べている。噴石の大きさが数メートルあることにびっくりした」

(児童)

「火山の恵みについて調べている。怖い一面もあるけど、いいことをしていることもあると思った」

雲仙普賢岳の大火砕流を経験した家族や近所の人に取材したり、火山の活動についてインターネットで調べた内容をグループごとに模造紙にまとめます。

(児童)

「お父さんは普賢岳災害のときに山に住んでいたので、自分の家が無くなってとても悲しい避難生活を送っていたと話してくれて、とても怖くなり、今がとても幸せだなと思った」

(児童)

「今私たちにできることを取り組んだら、噴火も起きないかもしれない」

(児童)

「下級生に、すぐにわかってもらえるような内容にしたい」

(児童)

「大人になったとき、子どもや小さい子にこんなことがあったんだよと言いたい」

発表内容は6月3日のいのりの日に向けて、校内の廊下や階段に掲示されるということです。

一方、雲仙市の南串中学校では1年生が「いのりの日」に向け、キャンドルづくりに取り組んでいました。

6月3日に行われる追悼行事『いのりの灯』。

生徒たちは犠牲者への思いを込めながらキャンドルを作ります。

(生徒)

「平和が1番と思い書いた。悲しい気持ちになって、今度から噴火しないようにキャンドルを作って祈ろうと思った」

火山防災エキスパートとして防災教育に取り組む、雲仙岳災害記念館の杉本 伸一館長。

(雲仙岳災害記念館 杉本 伸一 館長)

「198年ぶりに噴火した時は、みんな噴火するとは思っていなかったので、山火事だと消防署に電話をした」

毎年、いのりの日に向けて島原半島内の小中学校 約20校に自ら出向き、災害の教訓を語りかけています。

(雲仙岳災害記念館 杉本 伸一 館長)

「もう1回普賢岳の災害を思い出してもらう。風化させないための取り組み。だんだんと実際に噴火を体験した人がいなくなってくる。その中で当時の苦労した思い、復興に向けてみんなで頑張った思いを伝えていきたい」

(生徒)

「火山の噴火で被害だけでなく、野菜や温泉などの贈り物があったことが印象に残った」

(生徒)

「平和が続いてほしい思って作った。いろんな人が亡くなったことなどを伝えていきたい」

35年前の出来事ですが、今の子どもたちにもちゃんとつながっています。

当時の災害のことを知らない世代が増える中でも、記憶だけではなく学びとして受け継がれています。

こうして過去を振り返ることも、記憶を次の世代へつないでいくひとつのきっかけになるのかもしれません。

「プレイバック長崎」ではこれからも35年を振り返り、“長崎のいま” をお伝えしていきます。