「木箱から見つかったのは5体の死んだ赤ちゃん」169人が死んでいた⋯逮捕してわかった、資産家夫婦の【恐るべき貰い子ビジネス】(昭和23年の事件)〉から続く

「こっちは300円、器が良いのは500円」――。乳児をモノのように売りさばき、通常の半分以下の食事で169人もの命を奪った石川夫妻。

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 横領した養育費や闇市での横流しで巨万の富を得た2人の犯行手口、そして晩年に主犯のミユキが「冤罪」を主張した理由とは? 鉄人社の文庫新刊『戦後まもない日本で起きた30の怖い事件』よりお届けする。(全2回の2回目/最初から読む)


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「こっちは300円。あっちは器量が良いんで500円」

 このような女性に向け、石川夫妻が運営する寿産院は新聞に三行広告を掲載、当時としては大金の5千円〜1万円(現在の貨幣価値で約20万円〜40万円)の養育費とともに乳児を引き取った。

 そして、希望者が現れれば容赦なく売りさばく。実際に寿産院で貰い子を譲り受けた女性によれば、このときのミユキは店で品物でも売るように、ビジネスライクな言葉を発していたそうだ。

「欲しいのは女の子? こっちは300円。あっちは器量が良いんで500円」

 もっとも、これだけなら“がめつい人助け”を生業とする病院経営者に過ぎない。しかし、寿産院における乳児の扱いは虐待以外の何者でもなかった。

 食事は子供1人につき1日で粉乳2さじ、砂糖3さじ、6回の水分補給のみ。通常の半分にも満たない量である。当然、子供は栄養失調に陥るが、院長のミユキは気に留めることはなく、開業以来雇われた十数名の助産師たちがミルクの増量を訴えても、自分の指示どおりにすればいいと全く取り合わなかった。

 そんな寿産院の異常性は周辺にも知られていた。真夏でも、多くの赤ん坊は裸のまま床の間に転がされているだけ。

多くの赤ちゃんが「栄養失調」「凍死」

 彼らの体は開け放たれた戸から入ってくる蚊の格好の餌食となった。さらに肌は発疹だらけ。いくら汗をかいても入浴もおむつの替えも行われず、乳児は一日中泣き叫ぶ。心配した近隣住民が警察に通報したことは一度や二度ではなかった。

 引き取り手の見つかった乳児は幸運だった。が、「売れ残り」の大半は栄養失調で死亡。一部は冬期に保温されることもなく凍死し、その数は最終的に169人にのぼった(年別の死者数は1947年が最多の53人)。

 これは寿産院で引き受けた乳児の約85%に該当する。死亡診断書を書いた医師によれば、産院から診察を受けに来たときはすでに子供は手遅れで、投薬したことは皆無。夫妻の求めるままに偽りの死亡診断書を60枚近く作成したそうだ。

 また、遺体は全て葬儀屋に火葬を依頼し、1体500円で処理させていたという。

事件発覚までに4000万円を獲得

 石川夫婦は乳児をハナから育てる気持ちなどなく、その目的は養育費の横領にあった。加えて配給された粉ミルクや砂糖、死亡した乳児の葬祭用の清酒2升(3.6リットル)を闇市に横流しすることで、飢えて亡くなっていく乳児をよそ目に、事件発覚までに約100万円(現在の貨幣価値で約4千万円)の大金を手にする。

 さらには、その収入で当時はまだ高価かつ希少だった電話機を自宅に備え、また東京都内や茨城県内の土地を購入。発覚直前には、非常に高価だった自家用車まで購入しようとしていたそうだ。

 寿産院の悪行が世間に知れ渡ると、市民は怒りに震え、「鬼夫婦に一切、食事を与えるな」と多くの群衆が留置先の早稲田警察署に猛抗議に出向いた。対して、主犯のミユキは警察の取り調べに平然と答える。

「後の補給の目当てもないのに、母親は無理に預けていってしまうんですから、死ぬのは当然でしょう。私は誠心誠意の保育をやってきました。なんらやましいことはありません。親と私、いったいどっちがひどいんですか?」

 また、逮捕から6日後の1月21日には読売新聞の取材に筆談で応じ、改めて心境を述べた。

事件を知った子供の母親たちは⋯

「補給がないことから、食事を減らざるをえず、その結果、子供たちが死んでいくのはよくわかっていました。はじめのうちは恐ろしかったが、毎日のように死んでいくのを見ているうちに、だんだん慣れて別に何とも思わなくなりました。犯した罪のつぐないのためには、たとえ死刑にされても恨みません」

 開き直りとも言える発言だが、寿産院に預けられた子供のほとんどが「日陰の子」で捨て子同然だったのもまた事実。

 実際に我が子の安否確認に訪れた母親はごくわずかだった。その中の1人で、喫茶店経営の27歳の女性は寿産院の3畳間に並ぶ8人の乳児の中に我が子がいることを確認、子供を抱いて横浜の実家に戻ったという。

 ちなみに、この女性は交際していた男性との間にできた子供を出産したものの、男性に捨てられ、親にも相談できなかったため、事件発覚前日に寿産院に我が子を預けたばかりだったという。

 その後、寿産院とは別に新宿区戸山町の淀橋産院でも貰い子61人が栄養失調により死亡していたことが判明。さらに文京区本郷の長谷川産院で妊娠した子供の処置に困っていた女性十数人に堕胎手術を行っていたことがわかり、同院院長が戦後初の堕胎罪で起訴される。

 こうした実態が明らかになるにつれ、政治家や有識者から「問題を解決するためには、戦時中の“産めよ増やせよ”の思想から脱却し、堕胎を認めるしかない」との意見が多数出された。

 結果、政府は同年10月に堕胎罪の例外を認める優生保護法を施行、人工妊娠中絶が実質的に合法化されることになる。

懲役は⋯

 殺人罪で起訴された石川夫婦の裁判は1948年6月2日から東京地裁で始まった。罪状認否で両被告ともに殺意を否認、ミユキは助手に任せきりだったと監督不十分のみを認めた。

 8月20日、保釈が認められ夫妻は閉院となった寿産院の家屋に帰宅。9月3日、論告求刑公判が開かれ、検察は1946年4月から1948年1月まで84人が死亡、うち27人は殺人の証拠が明確と主張し、ミユキに懲役15年、夫の猛に懲役7年を求刑する。

 判決は10月11日。裁判所は検察が立件した27人の乳児のうち22人は証拠不十分で無罪としつつ、5人については石川夫妻が共謀のうえで栄養失調に至らしめて殺害した不作為犯と認定し、ミユキと猛にそれぞれ懲役8年と4年を宣告。

 その他、ミユキの助手として殺人に関与したとして起訴されていた助産師の女性(同25歳)については、度々ミルクの増量を訴えるなど最善を尽くしたと認め無罪を言い渡した。

「私は冤罪。よく考えてよ」

 夫婦は控訴し、1952年4月28日、東京高裁は一審判決を破棄しミユキを懲役4年、猛を同2年に減刑。上告審でも最高裁は高裁判決を支持し、刑が確定した。

 その後、ミユキは石鹸・クリーム・魚の行商を始め、1969年(当時73歳)には東京都内で不動産屋を経営(夫の猛とはこの時点で死別)。

 同年6月発行の『週刊新潮』の取材を受け、次のように語っている。

「まず言っておきたいのが、私は冤罪です。その汚名を晴らすために今まで頑張ってきたんです。絶対に子供を殺したりはしなかった。殺すというのは、自分で子供の首を絞めるとか手を下すということでしょう。そんなこと絶対にしてませんよ。

 いや、子供は確かに死にました。しかし、できるだけ食事もやったんです。医師にも診せた。それでも死んだんですよ。なにも当時うちの産院だけで乳児が死んだんじゃないでしょ。あそこの家でもこっちの家でも、食べる物がなくて死んだんじゃないですか。

 まして、捨て子同然に預けた子供じゃないですか。預けっぱなしで産院をのぞきに来た親なんて1人もいやしませんよ。それを、事件だと騒がれるようになってから、私の子をひどい目に遭わせてなんて言ったりする。不義の子を産んで、しようがなくて捨てるように持ってきた子ですよ。どっちがひどいんですか。私は冤罪。よく考えてよ」

彼女はその後⋯

 記事には「億万長者になっていた『寿産院の鬼婆』」というタイトルが付けられていた。

 ミユキが亡くなったのは1987年5月。享年90だった。

(鉄人ノンフィクション編集部/Webオリジナル(外部転載))