秀吉と秀長は「戦国時代では異例の関係」「二人の女性関係は正反対」 『豊臣兄弟!』を楽しむための七つの視点を専門家が解説
放映中のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、秀吉と秀長という、対照的なキャラクターの二人の活躍が人気を博している。そんな同作で、戦乱の世を駆け抜けた英傑たちの姿をより身近に楽しむための「七つの極意」を、歴史評論家の香原斗志氏がお伝えする。【香原斗志/歴史評論家】
***
【写真を見る】自らを「醜い顔」と語っていた秀吉と、弟・秀長の容姿を比較すると
戦国の世ほど命の価値が軽かった時代はない。宿敵はもちろん、昨日の仲間とも殺し合うのが日常で、一歩間違えば女子供もろとも皆殺しにされた。庶民はなおさらで、そんな状況に翻弄されるしかなかった。
だから、戦国の世に生まれ変わりたい、という人には出会わないが、その割には戦国好きは多い。そんな時代だからこそ、大名や国衆、その家臣らに、生き抜こうという意志が漲(みなぎ)っており、多くの人はそれに引かれるのだろう。

NHK大河ドラマが、たびたび戦国時代を舞台にするのもこのためだと思われ、豊臣秀吉(池松壮亮)の弟の秀長(仲野太賀)を主人公に据えた、今年の「豊臣兄弟!」も人気は高い。初回の平均世帯視聴率は、昨年の「べらぼう」や一昨年の「光る君へ」よりも高い13.5%(関東地区)で、現在も12%前後を維持。配信を視聴する人が増えている中、上々の数字である。
内容も、同じ時代を描いた2023年の「どうする家康」が、登場人物を戯画化し過ぎ、最新の研究成果に無頓着だったのと比べ、歴史ドラマとして真っ当に制作されている。
ともかく、せっかく視聴する以上、できるだけ濃く、深く楽しみたいものだ。そこで、秀吉と秀長の兄弟の特徴や、二人の違い、主要人物の実像から、戦国時代はこうではなかった、という描写への違和感まで、「豊臣兄弟!」を10倍楽しむための七つの極意を、以下にお届けする。
戦国武将が弟を高く評価した珍しい例
秀長は天文9年(1540)生まれという説が有力で、そうであれば、同6年生まれの秀吉の3歳下になる。二人の実家は、尾張国愛智郡中々村(名古屋市中村区)の農家で、父は村に住みながら織田家に被官していたが、死後、一家は貧困を強いられたようだ。異父兄弟だという説もあるが、秀吉の父が死んだ年が、複数の史料で天文12年とされているので、父親は同じだったと思われる。
さて、秀長の名が同時代の史料に初めて見えるのは、浅井氏が滅んだ天正元年(1573)8月で、それまでの行動はよく分からない。ただ、そこには「木下小一郎」という署名の下に「長秀」という花押が書かれており、当初の名が「長秀」だったことが分かる。「長」はご想像のとおりで、信長から偏諱(へんき・貴人の2文字以上の名の1字)を与えられたと考えられる。
これまで秀長は、兄の秀吉に引き立てられたと見られていた。だが、信長の偏諱をもらったということは、当初は信長の直臣だったのだろう。実際、天正2年7月、信長が伊勢(三重県東部)長島の一向一揆と決戦した際、秀長は中央軍の先陣を務めている。この時点では、秀吉より評価が高かった可能性もある。
天正3年ごろから、秀吉の与力(有力武将に従う中級武士)を務めたが、信長が高く買うほどの人物だから、秀吉も右腕にしたのだろう。天正7年8月、秀吉は黒田孝高(よしたか・官兵衛)に宛てた手紙に、「我らおとゝの小一郎めとうせんに心安く存候間(自分の弟の小一郎=秀長=同然に心を許せるので)」(「黒田家文書」)と書いて激励したが、戦国武将が自分の弟を、これほど高く評価した例はほかにない。
戦国に異例過ぎた兄弟
前置きが長くなった。七つの極意の1番目は、戦国時代には極めて異例の兄弟二人三脚である。
そもそも武将は、血を分けているがゆえに自分に代わりうる兄弟を警戒する、と相場は決まっていた。戦国以前も、源頼朝は周知のとおり、弟の範頼や義経を粛清した。足利尊氏は弟の直義と共存したが、しまいには対立し、直義は失脚して謎の死を遂げた。
戦国時代は兄弟の対立は枚挙にいとまがないが、中でも織田信長の例が分かりやすい。「豊臣兄弟!」でも描写されたが、信長は桶狭間合戦の2年前の永禄元年(1558)11月、清洲城(愛知県清須市)に対立する弟の信勝を呼び出し、謀殺した。
兄弟の危うさを知っているから、自分の息子も長男の信忠以外は、次男の信雄(のぶかつ)を北畠家、三男の信孝を神戸(かんべ)家、四男の秀勝を羽柴家、五男の勝長を遠山家へ、それぞれ養子に出した。
それでも信長と信忠が本能寺の変に斃(たお)れた後、信雄と信孝は対立し、信孝は腹を切らされている。
戦国武将の間では、信長のような事例こそ一般的で、秀吉と秀長の例はまれである。農民出身の秀吉には譜代の家臣がなく、一族を重用するしかなかった。また、秀吉はゼロから出世したので、当初は兄弟で奪い合うものがなかった。だから、優秀な弟と心置きなく二人三脚を組めたと思われる。
秀吉と大大名を結ぶ接着剤
そこで2番目だが、稀有(けう)な二人三脚の中で果たした秀長の、大き過ぎるほどの役割に目を向けたい。
「豊臣兄弟!」では、秀吉がその場の勢いで、信長に大言壮語を吐き、秀長が後始末に追われるような場面がよくある。これは、この兄弟の役割分担をよく表しているように思う。
とくに天正10年(1582)6月2日、本能寺の変の勃発後、秀吉が政権の簒奪にまい進し始めると、秀長は兄の名代(代理)として、有力な大名たちを従属させる「取次」と、その状態を保つ「指南」で大車輪の活躍をし、兄の政権基盤を固め維持する上で、大きな役割を果たした。
同年、秀吉と対立後、いったん和睦を申し入れてきた柴田勝家の元へ、使者として派遣されたのは秀長で、以後、重要な局面での名代は常に秀長だった。
信長の次男信雄および徳川家康と争った小牧長久手合戦後の天正13年(1585)1月、かつての主君である信雄の元に赴き、秀吉に臣従するよう「取次」したのは秀長だった。その翌年、家康がついに秀吉に臣従すると決意して大坂に赴いた際、秀長の屋敷が宿所になったが、これも秀長が家康の臣従を「取次」したからだと考えられる。
ほかにも、天正13年の四国出兵は秀長が自ら総大将を務め、長宗我部元親を降伏させると、「指南」を務めた。豊後(大分県)の大友義鎮(よししげ・宗麟)が大坂に来て秀吉に出仕したときも、秀長が接待し、「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相存じ候(私的なことには千利休が対応し、公儀の事案、つまり軍事や政治に関する指南は、秀長がよく分かっている)」(「大友家文書録」)と伝えたという。
要は、秀吉の政権と外様の大大名との連絡は、秀長が一手に握っていたわけだ。秀長はいわば、秀吉と大大名を結ぶ接着剤だった。だからこそ、天正19年(1591)1月に秀長が亡くなると、政権の雲行きが一気に危うくなったのだろう。
「食えない男」
3番目だが、徳川家康との関係にも注目しておくと面白いと思う。秀長と家康は後に、秀吉の政権を支える「兄弟」になるからである。
「豊臣兄弟!」では実直な秀長に対し、松下洸平演じる家康は、腹に一物ある「食えない男」として描かれている。彼らが「兄弟」になるのは、家康が秀吉に臣従する直前で、家康が希望して秀吉と秀長の妹の朝日を正室に迎えたからだ。
天正14年(1586)10月27日、大坂城で家康が秀吉に臣従を誓うと、その前後に、家康も秀長も朝廷から、同じ正三位権中納言を授けられた。以後、二人は秀長が死去するまでずっと同格で、秀吉の次に高いポジションにいた。
秀吉は天下人たる自分を二人の「弟」が支え、政権の基盤は固いと世間に示したかったのだろう。もっとも、秀吉を実質的に支えたのは秀長だが、その死後には「食えない男」の存在感が高まっていく。少し先の話だが、頭の片隅に置くと、人間関係が立体的に見えてくるはずだ。
度が過ぎた女好き
続いて4番目は、豊臣兄弟の女性関係の違いに注目したい。ドラマでは、秀吉は若い頃から女遊びが派手で、正妻の寧々が苦労するのに対し、秀長は奥手として描かれているが、史実に近いと思われる。
「豊臣兄弟!」では、秀長は同郷の直(白石聖)と将来を誓い合い、直の死後は信長(小栗旬)の命で、斎藤家の旧臣、安藤守就(もりなり・田中哲司)の娘の慶(ちか・吉岡里帆)と結婚する。
だが、秀長の妻が同時代の史料にやっと登場するのは、本能寺の変から3年後で、その出自は分からない。ただ、秀長の死後、彼女が生前供養した際、法名が「慈雲院芳室紹慶」と書かれているので、ドラマ同様、慶だった可能性はある。
ともかく彼女が正妻で、秀長も戦国武将だから、ほかに別妻が何人いてもおかしくない。だが、秀長の妻はほかに1人、「摂取院光秀」という法名が伝わるだけで、史料にはそれ以外、女っ気が見られない。
一方の秀吉は、浅井長政と信長の妹「市」の娘である茶々、すなわち淀殿はもちろん、京極高次の妹の松の丸殿、信長の娘の三の丸殿、前田利家の娘の加賀殿をはじめ、セレブの別妻だけでもぞろぞろいた。
だが、秀吉の女好きはその程度ではない。イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの「日本史」には、次のような記述がある。
〈聞くところによれば、関白は大坂城内だけで、日本全国の諸侯貴顕の娘たちを三百名も側室としてかかえており、それ以外に第一夫人と認められる人がいる〉
〈彼は政庁内に大身たちの若い娘たちを三百名も留めているのみならず、訪れて行く種々の城に、また別の多数の娘たちを置いていた〉(松田毅一・川崎桃太訳、以下同)
戦国時代は一夫多妻だが、さすがに妻の数には限界があり、残りは「妾」だったと思われる。いずれにせよ秀吉には何百人もの妾がいたという証言で誇張があっても、当たらずとも遠からず、だろう。兄弟間で差がもっとも激しいのは、女性関係かもしれない。
自分は醜いと認めていた秀吉
5番目は、史料に見る登場人物のルックスに焦点を当てたい。だが、秀長に関しては、有名な肖像以外に手掛かりがないので、秀吉と信長を見ておこう。
容姿や外貌を記すのははばかられたのか、同時代の史料には、ほとんど記録がない。だが、宣教師にはそんな遠慮はなかった。前出の「日本史」には、信長についてこう書かれている。
〈彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、髯(ひげ)は少なくはなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった〉
細身で甲高い声だったのだろう。片や秀吉のルックスだが、フロイスが通訳を務めた際の逸話がある。
〈関白はフロイスに言った。「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と〉
秀吉は自分が醜いと認めていたのだ。また、フロイスはこうも書く。
〈彼は身長が低く、また醜悪な容貌の持主で、片手には六本の指があった。眼がとび出ており、シナ人のように鬚が少なかった〉
指が6本という記録はほかにもあり、史実と考えられる。多指症といい、現代では幼少期に手術され、戦国時代も切り落とすことが多かった。秀吉は幼時に貧しかったので、その機会を逸したのかもしれない。
精密に再現された城
外貌について、もう一人取り上げておく。浅井長政である。長政は「戦国一の美人」ともいわれる市の夫だからか、ほとんどのドラマで細身のイケメンが演じ、今回の中島歩も同様だ。しかし、肖像に描かれた長政は恰幅(かっぷく)がかなりよく、二重あごが特徴的で、大柄の力士か、それ以上の巨漢にしか見えない。
身長や体重は分からないが、姉の見久尼(けんきゅうに)は、身の丈が5尺8寸(約176センチ)、目方が28貫(約105キロ)だったと伝わる。男の長政はそれより一回りは大きかったのではないだろうか。
6番目には、登場する城のCGがリアルに作られている点を挙げる。
例えば織田信長の岐阜城(岐阜市)。信長の居館跡は山麓の谷筋にあり、最下段から最上段まで30メートルほどの高低差を利用して、宮殿と庭園が複雑に入り組み、最高層の建物は、後の安土城天主の先駆というべき先進的な4階建てだった。それが発掘調査やフロイスの記述などに基づき、精密に再現されている。
録画で見る場合、一時停止して細かく観察するといいと思う。今後、安土城や大坂城など、さらに豪華な城がCGでどう再現されるか楽しみだ。
信長には平身低頭
さて、いよいよ7番目となったが、最後に、ドラマの描写が史実と異なる点を指摘しておきたい。
「豊臣兄弟!」では、信長臨席の評定(会議)で、重臣たちがすぐに立ち上がったり刀を抜いたりするが、自身の権力の絶対性を誇示しようとした信長の前で、そんな態度が許されたとは考えられない。フロイスは岐阜城を訪問したときのことを、こう書いている。
〈彼が内から一人を呼んだだけでも、外で百名がきわめて抑揚のある声で返事しました。(中略)都では大いに評価される公方様の最大の寵臣のような殿も、信長と語る際には、顔を地につけて行うのであり、彼の前で目を上げる者は誰もおりません〉
もう一つは戦闘場面である。例えば姉川合戦でも、みな刀を抜いて突進していたが、武将たちにとって刀とは、むしろ強い生命力がこもる祭祀(さいし)の道具で、戦場で使われるのは弓矢や鉄砲でなければ、長い柄があるやりが中心だった。
刀が抜かれるのはよほどの接近戦で、それも主として短い脇差しだった。相手との組み討ちで、よろいのすき間から突き刺したり、仕留めてから首を切り落としたりするのに使われた。
刀を抜いてのチャンバラは、近代に考案されたフィクションなのである。
秀長や秀吉、信長らの実相を知るほど、ドラマの味付けをいろいろな角度から堪能できるだろう。史実と違う点を知るのも悪いことではない。「違う」とケチをつけるのではなく、「あれ、本当は違うんだよね!」などと言いながら、フィクションならではの迫力を味わえば、楽しみが増すのではないだろうか。
香原斗志(かはらとし)
歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本古代史から近代史まで幅広く執筆し、特に戦国時代精通する。ヨーロッパの歴史や文化にも通じ、オペラを中心にクラシック音楽の評論家としても知られる。著書に「教養としての日本の城」(平凡社新書)、「お城の値打ち」(新潮新書)など。
「週刊新潮」2026年5月7・14日号 掲載
