付き合いで臨んだ入団テストにまさかの合格… 無名の存在から名選手になった「岡本伊三美さん」の人生
物故者を取り上げてその生涯を振り返るコラム「墓碑銘」は、開始から半世紀となる週刊新潮の超長期連載。今回は4月15日に亡くなった岡本伊三美(いさみ)さんを取り上げる。
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見出しの岡本
南海(現・ソフトバンク)の岡本伊三美さんは、全く無名の存在から名二塁手に躍り出た。全盛期の南海でレギュラーをつかみ取り、1953年には打率3割1分8厘で首位打者に輝き、最高殊勲選手に選ばれる。
現役時代を知る野球評論家の有本義明さんは言う。
「選手としての活躍は70年ほど前でも訃報の扱いは大きい。派手さはないがハングリー精神がにじみ出ていて記憶に残りました。名手の先輩に交じり、堅実な守備でファンをうならせた。打撃も個人成績より勝利につなげるため何とかせねばと責任を感じて打っていた」

活躍が新聞紙面を度々飾り、「見出しの岡本」と呼ばれたのは勝負強さゆえだ。
31年、京都市生まれ。バスケットボールが得意だったが、建築家を志していた。49年、洛陽高校(現・京都工学院高校)の卒業を前に野球部の友人から南海の入団テストを一緒に受けようと誘われる。全く興味はなく、付き合いで臨んだところ自分だけ合格。代わりに友人を採用するよう懇願したがかなわず、球界入りを決心した。その友人、種田訓久さんも後に入団を果たす。
翌50年、1軍デビュー。一塁、飯田徳治、二塁に監督兼選手の鶴岡一人、三塁に蔭山和夫、そして遊撃は木塚忠助と鉄壁の内野陣で、食い込む余地がない。
「親分と呼ばれ慕われた鶴岡監督は、豪快なようで繊細です。選手の性格もよく見ていた。コツコツ努力して負けん気が強い岡本さんを買っていた」(有本さん)
鶴岡さんが監督一本に専念すると、二塁のレギュラーに。親分の後継として名を汚すまいとさらに精進。打撃でも貢献する意気込みが首位打者につながる。
張本勲さんは述懐する。
「私の1年目(59年)当時、岡本さんは攻守とも度胸があるしぶとい名選手でした。むき出しでない静かな闘志で強さに余裕があった」
体験から具体的に指導
59年、日本シリーズで巨人と対決。4連勝で巨人を下す。岡本さんは初戦で本塁打を放つなど随所で活躍。
1歳年下で、日本シリーズでも対戦した広岡達朗さんは振り返る。
「あの頃の南海は強かった。よく守り、よく打つチーム。両方できる岡本さんを尊敬していました。真面目でね、巧くても見せびらかすような守備ではなかった」
63年引退。実働13年で1289試合に出場、1018安打、125本塁打、513打点、打率2割5分7厘。引退翌年からコーチに。
南海で活躍した後輩である藤原満さんは言う。
「データや技術論ではなく、体験から具体的に指導してくれました。苦労されてきた人ですが、精神論を語らず自慢話もしない。厳しさと褒める部分の両面があり、私が門限を破った時は怒鳴られて正座させられました」
84年、優勝と若手育成を期待され、近鉄監督に就任。
近鉄で捕手として活躍した有田修三さんは思い返す。
「おだやかな監督で、チームの劇的な変化は感じませんでした。コーチになってくれ、と言われて驚いた覚えがありますが、私は途中でトレードで出ました」
86年は西武と優勝を競うが2位。翌年は最下位に沈み、仰木彬監督に引き継ぐ。
「今の自分に満足するな」
1男2女を授かった。次女の久美子さんは80年代の日本女子テニス界を代表する名選手の一人で、88年のソウル五輪にも出場した。岡本さんはスポーツは基本が重要と一緒に走り込み、気合が入らないとの相談を受け、大声を出してラケットを振ってみろと助言。今の自分に満足するなとは、岡本さんが自分に言い聞かせ続けた戒めでもある。
プロ野球OBクラブの役職も務めたが、目立つことは好まない。鶴岡さんの遺志を継ぐように晩年は少年野球の発展に尽力していた。
4月15日、95歳で逝去。
若き日に、「野球が面白くなってきたか」と鶴岡監督に話しかけられた場面を生涯忘れなかった。師に恵まれ、偶然から天職を得た。
「週刊新潮」2026年5月7・14日号 掲載
