「読書の90%」はしんどい…忙しくて「本を読めなくなった人」が読み始めのしんどさを乗り越える「意外な方法」
「本を読みましょう」と言われても、仕事や生活で忙しいと読書を続けるのは簡単ではない。さらにSNSや動画で情報は事足りてしまう時代。本を読む効能とは何か? 「読書の90%はしんどい」と小川公代さん(上智大学教授・英文学者)は断言する。だからこそ、そのしんどさを乗り越えるための「技法」が必要なのだと。介護する母に物語を語り続けた経験、そして「読み始めのしんどさ」を乗り越える読書術。「100分de名著」スピンオフとして話題の新刊『血肉となる読書 なぜ読むことだけが人生を変えるのか』(あさま社)より一部抜粋してお届けします。
文学だけが持つ、魂を癒す力
他者を理解したい。その強い思いを得た私のエピソードをお話しさせてください。
私は8年ほど前から、母の介護をしています。母は、パーキンソン病を患っています。
その苦しみを理解したいといっても、他人の苦しみを自分のものにできることは絶対にありません。どんなに想像力を働かせても、相手に寄り添おうとしても、そこには限界があります。
「どうせ、あんたにはわからん」
そう言われたら、そこで対話がプツンと切れてしまう。でもそれは、あまりにもったいない気がする。少なくとも母の立場に立って言葉を紡ぎたい、そのためにはどうしたらいいのか、母が診断を受けてからの8年間、ずっと悩んできました。
いくら私が母の身になれないとしても、一緒にその空間を共有している限り、少しでも母が楽になる方法を探したい。少しでも多幸感を感じられるような方法を探っていきたい。
そう思ってたどり着いたのが「語り」でした。
「そういえばお母さん、こんな本があってね、こんなことが書いてあったんよ」
と、私がこれまでに本で読んだことを、そのまま母に語るのです。
特に、母がどうなるかわからない未来を意識して不安に駆られるとき、気弱になったとき、「このシチュエーションならこの話がいいんじゃないか」と必死で考え、語って聞かせる。もちろん、いつもそれがうまくいくわけはなくて、物語がまったく母の心に届かず、きょとんとされるときもあります。
逆に、どうしてかはわからないけれどうまく母の魂に響いて、少し母の気持ちが楽になったんじゃないか、と感じられるときもある。
たとえば『日蓮の手紙』について語ったときがそうでした。
病気が進み、身体の自由が利かなくなっていくと、母は逃げるようにこう言い始めました。
「きみちゃん、ここまで頑張ってきたつもりだけどもうこれ以上は生きられへん」
「(亡くなった)お父さんのところに行きたい……早くお迎え来てくれへんかなあ」
私は、それにどう答えていいのかわからずにいたのです。
そんなときに、「100分de名著」のプロデューサー、秋満吉彦さんに勧められたのが『日蓮の手紙』でした。法華宗の開祖・日蓮が信徒たちに送った手紙をまとめた本ですが、読んでいると、生と死がまったく別のところにあるものではない、地続きのものなんだと感じられてきます。
日蓮は、死ぬと霊山浄土に行くけれど、それはどこか別のところにあるわけではない。信者は死後に霊山浄土で釈迦牟尼仏や日蓮自身と再会し、成仏できると言います。
母は、今の苦しみから脱するために、死にたいと言う。でも、そうじゃないんじゃない? と思いました。生と死が地続きなのであれば、これから苦しみながらも母がどう生きていくかが、そのまま「死ぬこと」と直結しているんじゃないか──。そんな気がしてきたのです。
母ともそんな話をしました。そして、
「最期まで生き切ったお父さんに会いたいと思うなら、そんな生き方を思い出して、できることをやってみないことには霊山浄土には行けへんのとちゃう?」
と言ってみたのです。
ただ「お父さんに会いたいんやったら、もっと頑張ろうよ」と言うだけだったら、とても意地悪に響いたかもしれません。でも、日蓮の思想が私を後押ししてくれた。仏教徒の母にとってはわかりやすい死生観でもあったのでしょう、とても腑に落ちたようで、やがてこう、つぶやいたのです。
「なんか、まだまだやれることあるかもしれへんな」
もちろん、母の日々の苦しみがそれでなくなったわけではありません。でも、少なくとも日蓮の言葉に触れる前と後では、母の心持ちは大きく変わったようでした。おそらく、母の心に私の「語り」が届くというのは、母のほうもそれを求めていて、受け入れる態勢があるからなのでしょう。もともとは文学を読む人ではなかったのですが、今の母は本に書かれたさまざまな思想に助けられながら生きている。文学作品について私と語り合う時間が、母に「もうちょっと生きていこう」「少しだけ気持ちが楽になった」と思える力を与えてくれているのだと思います。
ふだんは「あのお店のごはんおいしかったね」といった何気ない日常会話もするのですが、「死って何だろう」「生きるってどういうことだろう」といった根源的な話になったときには、思いつきで何を言っても誤魔化しにしかならない。文学、あるいは魂のこもった物語がどれほどの威力を発揮するか、何度も目撃してきました。
ルイス・キャロルやボルヘスなどなど、この8年間で、おそらく数百もの物語を母に語ってきました。ああ、これは母に届いたなと感じるたびに、改めて文学ってすごいと思わずにはいられない。母の魂を癒すことができたのは、文学をおいて他にはありませんでした。
小川流・本を血肉にする読み方
血肉の読書技法1 マインドセット「読書の90%はしんどい」から始める
さて、「もっと本を読みましょう」と言っても、ほぼ例外なく誰もが毎日仕事や家のことに追われている現代、「忙しくて読む時間がない」という人も多いと思います。
ただ、私自身、歩きながら仕事のメールを書いていて階段から二度落ち、二回とも足を骨折した人間ですが、そこまで追われる生活をしていても、なんとか月に数十冊は読むことができています。その秘訣を最後にお伝えしたいと思います。
まず、前提としてお伝えしたいのは、一般に言われている「読書は楽しいことだ」というのは大きな誤解だということです。
難しい本を読むこと自体が楽しいという人もいないとは言いませんが(そういう人は、放っておいても勝手に読み続けるでしょう)、たいていの人にとって、読書の90%はしんどい行為。それを乗り越えてようやく、10%の楽しさや感動が得られるのです。それなのに、そこを誤解して「読書は楽しいはずだ」と思い込んでいると落とし穴にはまります。実際に読み始めてみると「あれ、思ったより楽しくない」となる。申し訳ないのですが、しんどいが90%で楽しいは10%。読書のイメージをいったん壊してみましょう。
そうすると、回を重ねるごとに、読書のしんどさは少しずつ軽減します。90%だったしんどさが、80%、70%……と減って、楽しい割合が増えることも。
小説の読み始めがしんどい理由として、「物語の中途」から語られるということが挙げられます。これはラテン語で「イン・メディアス・レス」(in medias res)と言われる文学技法で、登場人物のことを知らないのに「物語の真っ只中」から始まります。読者は何もわからないところから読み始めるわけです。
職業柄、人より長い時間を読書に費やしてきた私自身、読書のしんどさは織り込み済みです。それでも、「イン・メディアス・レス」の何もわからない状態から読み始めるしんどさを乗り越えるのは容易ではありません。では、どうやってその何ものにも代えがたいラストの恍惚の瞬間まで到達するのでしょうか。
血肉の読書技法2 読み始めの「しんどい」を乗り越えるには
私自身、読書そのものを目的に本を読んでいると、最後まで読めずに挫折したり、読んでも頭に残らなかったりということがよくあります(他の文学研究者もみんなそうに違いない! と勝手に思っていますが、真偽のほどはわかりません)。
では、どうやったら「読める」のか。もちろん、メアリ・シェリーやウルストンクラフト以外にも、私の脳に相性のよい本がたくさんあります。ここには書ききれませんが、一部紹介すると、ハン・ガン、ブロンテ姉妹、トニ・モリスン、オスカー・ワイルド、中井久夫、石牟礼道子、多和田葉子、小川洋子、小林エリカ、井戸川射子、谷崎由依、石沢麻依、大前栗生、平野啓一郎、松田青子、尾崎世界観、柴崎友香、西加奈子、東畑開人、勅使川原真衣、岩川ありさ、中村佑子、斎藤真理子、鳥羽和久など、これまで批評やエッセイに取り上げた作家たちは、文体も思想も元々親和性があり、読むときにしんどさはほとんど感じません。どんどんページをめくって、内容を吸収していきます。
もっとわかりやすく表現すると、小説より漫画のほうが読みやすいとか、少年漫画より、少女漫画に共感できる……など、自分がより読み慣れているジャンルは読みやすいですよね。
ただ、あまり読んだことのない作家、文体、ジャンルの作品は、ときに拒絶反応を起こすことがあります。何か「異物」を脳に入れていくような感覚でしょうか。
そういう読書を始めるとき、私はなるべく食わず嫌いをせず、読むことそのものではなく、読んだ本について誰かに語ることを目的にすることで、「しんどい」と感じる「読み始め」のパートを乗り越えています。
小説だけに限らず、読書はあるところまで来ると、「なるほど、そういうことだったのか」と腑に落ちることがあります。あるいは、恍惚とした気持ちになるほどに物語の世界に入り込むことがあります。しんどいのは、その段階に至るまでなのです。要するに、そこまで読み続けるために、自分にモチベーションを与えてやればいいのです。
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本稿は『血肉となる読書--なぜ読むことだけが人生を変えるのか』(2026年4月28日発売)p.115〜123より抜粋・構成しました。
小川公代(おがわきみよ) 上智大学外国語学部英語学科 教授
1972年和歌山生まれ。ケンブリッジ大学政治社会学部卒業。グラスゴー大学博士課程修了(Ph.D.)。専門はロマン主義文学、および医学史。著書に『ケアの倫理とエンパワメント』『ケアする惑星』『翔ぶ女たち』(以上講談社)、『世界文学をケアで読み解く』(朝日新聞出版)、 『ゴシックと身体』(松柏社)、『ケアの物語 フランケンシュタインからはじめる』(岩波新書)、『ゆっくり歩く』(医学書院) などがある。訳書に『エアスイミング』(シャーロット・ジョーンズ著、幻戯書房)、 『メアリ・シェリー』(シャーロット・ゴードン著、白水社)など。100分de名著では、ブラム・ストーカー『ドラキュラ』を解説。
