司馬遼太郎「大阪人の自尊心は江戸時代から育ち続けている」…幕府に頼らず都市を運営する「大坂町人の矜持」とは?

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大阪のシンボル・大阪城を築いた豊臣秀吉。百姓の出自ながら天下統一を果たし、大阪のまちの礎を形づくったこの英傑を、大阪人は親しみを込めて「太閤さん」と呼び愛してきた。

「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」の句に象徴される知略家な一面を持つ武将、派手好きでコテコテな"大阪人気質”の元祖--。そんなイメージで語られがちな秀吉だが、その人物像は、実は時代とともに少しずつ姿を変えてきた。

大阪というまちの歴史とともに揺れ動いてきた「秀吉像」とは一体何なのか。その変遷を紐解く一冊『大阪人はなぜ太閤さんが好きなのか』より一部抜粋・再編集してお届けする。

大坂は「武士が極端に少ないまち」

領主がいないというだけではない。そもそも大坂では武士の数が絶対的に少なかった。大阪生まれの作家・司馬遼太郎の短編『大坂侍』は、幕末の大坂を舞台に下級武士の鳥居又七の悲喜交々を描いた作品だが、そのなかにこんな一節がある。

〈大坂の町は、町人の町だ。侍は居ても、人口六、七十万の大都会に、幕府直属の者がわずか百数十人。--そのほとんどが、代々大坂地生えの侍で、自分が幕府の家臣だとも思っていない。半分町人化している。いわば骨の髄からのサラリーマンである。ひどいのになると、侍の薄給の身分を恥じて、子供を町家の丁稚にやり、行くゆくは商人に育てようとしている者さえある〉

司馬は江戸時代の大坂を「町人の共和国」とも呼んだ。武士の存在感は希薄で、町人らは幕府権力に懐疑的。いわば権力に対して自由の申し立てをする近代的市民の萌芽がここにはあったとする。もっとも、この百数十人という数字には誇張があるようだ。あまりに少なすぎるというのだ。

例えば、関西大学名誉教授の藪田貫は著書『武士の町 大坂』で、大坂城代をはじめとして城内に居住する者、大坂のまちの治安維持などにあたる奉行や代官、さらにその与力や同心、そして全国の諸藩が大坂に置いた蔵屋敷に詰めている者、大坂にいた武士の数は合わせて8000人ほどだと推計している。

それでも江戸時代中期から後期にかけての大坂は、人口が35万人から40万人だったとされることから、武士の割合はわずかに2パーセント。100万人を超える人口のほぼ半分が武士だったとされる江戸に比べると、極端に武士が少ないまちだったということは言えるだろう。

天保14年(1843年)に大坂の西町奉行として江戸から着任した久須美佐渡守祐明は、大坂に到着して6日後に市内の町人地を初めて巡見している。堀江の和光寺で昼食を取り、船場の北御堂や南御堂などに立ち寄り、さらに幕府公認の遊郭街だった新町遊郭などを見て回った。

久須美は〈江都ニ准し候大都会之地(江戸に次ぐ大都会の地)〉と、その繁栄ぶりに驚きつつも、〈武家之往来ハ甚稀ニテ町人斗也(武士の往来は非常に稀で町人ばかりである)〉と日記に綴っている(『大坂西町奉行久須美祐明日記』)。

「権力の真空地帯」

領主のいない天領であり武士が極端に少なかったがゆえに、「権力の真空地帯」ですらあったと唱えるのは先の宮本又次だ。

〈大阪町人は各藩の城下町町人たとえば広島や岡山や熊本の商人のようにその領国を意識し、その領主や領内のためにつくすことのみを考えていたのではない。領国という「国家」への貢献を考えるよりも、より広い天地に生きぬこうとしていたのである。このようにして、つまり非領国の地帯には領国を超えた奔放自在さがあった〉(宮本前掲書)

広島や熊本の商人が藩という枠を意識してそのなかで行動したのに対し、大坂の町人はより自由で奔放だったというのだ。大坂人が権力を嫌ったのは、天領という権力の真空地帯によるところが大きかったのかもしれない。

司馬遼太郎が「大阪バカ」という文章のなかで書いているが、江戸時代の大坂では商人らが「デッチは江戸者にかぎる」と高言していたのだそうだ。

〈江戸ッ子のもつ封建的事大主義や自分の分際をまもる節度が、最下級の雇人にはうってつけだと思っていたからであろう〉

それに比べて大坂商人は身分意識が薄く、分際を守ろうとしない。他人をおそれるというところがない。「文句があったら稼ぎで来い」という大坂人の自尊心は江戸300年を通じて野放図に育ち、いまなお育ちつづけていると司馬はいう。

大坂は江戸の「八百八町」に対して「八百八橋」と謳われた。淀川の本流にあたる大川だけでなく、市内に張り巡らされた堀川に多くの橋がかけられたためである。実際にはその数は200ほどだったとされるが、そのうち幕府が建設費や維持費を負担した公儀橋は天満橋や天神橋、京橋、高麗橋など12橋に過ぎず、残りは淀屋橋をはじめ町人らが負担する橋だったという。インフラすらもお上の世話にならぬという発想が根づいていたのだろう。

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