故・衣笠祥雄氏(向かって右)とライバル・山本浩二

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 プロ野球12球団で一軍の監督になれる人は、ほんの一握りだ。現役時代に輝かしい成績を残したからといって就任が保証されるものではない。故・衣笠祥雄氏(享年71)も選手としての実績は抜群ながら、ついに監督に縁がなかった一人であった。「広島カープ」の英雄は、なぜ古巣の指揮官になれなかったのか。8年前、2018年4月23日に衣笠氏が没した際、スポーツジャーナリストの吉見健明氏は、自らのスポニチ記者時代の取材を基にその理由を考察している。その生い立ちゆえに衣笠が抱いていた差別とコンプレックスについて記した【前編】に続き、【後編】では、チームメイトにしてライバル・山本浩二氏への“秘められた思い”について詳述する。

故・衣笠祥雄氏(向かって右)とライバル・山本浩二

【吉見健明/スポーツジャーナリスト】

【前後編の後編】

(「週刊実話」2018年5月31日号記事を一部編集し、再録しました。文中の年齢や肩書は当時のままです)

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【写真を見る】大投手でもある「盟友」と語り合う衣笠氏。実にリラックスした表情だ

涙の抗議

 私がスポーツニッポンの遊軍記者から広島番記者に抜擢されたのは、1979年のこと。法政大学野球部で山本浩二や田淵幸一と同級生だった筆者には、すでに「ミスター赤ヘル」として広島の主砲となっていた浩二の記事が期待されていた。

 この年、私は広島の主力5人(1番高橋慶彦、2番山崎隆造、3番衣笠祥雄、4番山本浩二、投手池谷公二郎)をピックアップした連載記事を執筆している。中でも、かなり突っ込んだ内容を書いたのが衣笠のパートだった。

 衣笠の父親は在日米軍人で日本人の母親との間に生まれたハーフであること。小さい頃から差別され石を投げられるようなイジメに遭っていたこと。車の事故で免許を剥奪され、木庭教(きにわさとし)担当スカウトを悩ませた話などを次々と書きまくった。そんな私に衣笠が付けたあだ名が“野球界の梨元”だった。芸能リポーターとして有名だった梨元勝氏(故人)のような突貫小僧的な取材方法は、多くの球界人から恨まれていた。

「吉見さん! なんで豊(江夏)と私には厳しい記事ばっかりなんですか!」

 ある日、衣笠が目にうっすらと涙を浮かべながらこう訴えて来た事がある。そんな時ですら、どこか本気で人を怒れない優しさを感じさせる表情だったことはよく覚えている。

付いて回った暴れん坊のイメージ

 ただ、衣笠の怒りはもっともだった。私は衣笠や江夏の記事では遠慮なく書きまくったが、個人的に親しい同級生の山本浩二には“配慮”していたからだ。

 浩二も衣笠に負けないぐらいのヤンチャで、“飲む・打つ・買う”の三拍子が揃っていた。若手のエース格だった池谷公二郎や北別府学らを引き連れては、銀座や六本木を朝まで飲み歩いており、私もよく同席した。

 古葉監督は「サチは1人で飲みに行くし、グラウンドでは結果を出すから」と門限破りを黙認していたが、浩二に関しては言いたいこともあったようで、「おい吉見、浩二にも、サチみたいに1人で飲みに行くように言っといてくれ」などと頼まれることもあった。

 にもかかわらず、浩二は美化された姿が一面トップを飾り、衣笠にはいつまでたっても暴れん坊イメージが付いて回った。スポーツマスコミ全体がそうだった。今考えれば、こうした積み重ねが衣笠の繊細な心を傷つけてしまったのかもしれない。

 同じ広島のスターでありながら扱いに差が付けられるのは、「自分がハーフで高卒だからではないか」という思いもあったはずだ。当時の社会はまだまだ差別には鈍感で残酷だった。もちろん、私に差別の意識などまったくなかったが、記者としては決してフェアだったとは言えず、衣笠はそんな空気を敏感に感じ取っていたのだろう。

「浩二さんには勝てない」

 引退後の衣笠がこう語るたびに複雑な思いだった。

 それでも不満を声高に叫ぶことなく自らを律し続け、国民栄誉賞に輝いた衣笠は、私の知るどんなスター選手よりも洗練された優しさを持つ男だった。

江夏の21球

 この頃、衣笠がチーム内で親しくしていたのが、南海ホークスから移籍してきた江夏だった。

 筆者が江夏に話を聞きに行くと「おまえはブチ(田淵)と浩二(山本)を書いて飯食えばええやろ!」と一喝されることが多かった。それでも、「原稿を書く以上、本人のコメントを平等にとらないと読者に失礼なんだ」と粘り強く迫れば、ちゃんと質問には答えてくれる。そんな男だった。

 それは衣笠も同様で、圧倒的な実力を持ちながら世間からはヒール役を背負わされることの多かった2人のウマが合ったのは必然だったように思う。

 2人を語るうえで欠かせないのが、79年の日本シリーズで、近鉄バファローズと繰り広げた有名な「江夏の21球」だろう。

 ブルペンで投手を用意するよう指示したベンチを見た江夏が「ここで代えられるくらいならユニホームを脱いでもいい」とキレかけた。そこに衣笠が「オレもおまえと同じ気持ちだ。おまえが辞めるならオレも辞めてやる」と声をかけた。冷静さを取り戻した江夏は一死満塁からのスクイズを見破ってピンチを切り抜けてみせた。

「平等に行きましょうよ」

 死闘の末、カープは初の日本一に輝いたが、私にとってのクライマックスは試合終了後に待っていた。

 デーゲームで日本一を決めた広島は、地元で祝賀会を行うため、試合終了後にすぐ新幹線に乗り込んだ。他紙の番記者らと共に箱乗りした筆者は食堂車で浩二や池谷を囲み、ビールで乾杯していた。

 そこに入ってきたのが衣笠と江夏だ。同席していた誰かが「一緒に祝おう!」と言いかけたが、「この期に及んで差をつけるのか!」と江夏が鋭い形相でにらみつけ、衣笠も「梨元さん(私のあだ名)、平等に行きましょうよ」と口にした。語りかけるような柔らかい口調ではあったが、心臓が張り裂ける思いだった。

 2人ともそのまま食堂車を出て行ってしまった。あの苦い光景は今でもはっきりと覚えている。

 引退後も2人の友情は続いていた。江夏が覚醒剤に手を染めて逮捕(93年)され、実刑判決を受けた際も、衣笠だけは時間があれば刑務所を訪れ、盟友を激励し続けたという。

「サチ! いい友を持った。俺の宝物だった。すぐに追いかけるから待っていてくれ。野球談義しよう」

 通夜と葬儀には、合掌する江夏豊の姿があった。

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【前編】では、その生い立ちゆえに衣笠が抱いていた差別とコンプレックスについて詳述している。

吉見健明(よしみ・たけあき)
スポーツジャーナリスト。1946年、東京生まれ。法政一高、法政大で野球部に所属し、同期・田淵幸一の控え捕手を務めた。同じく同期の山本浩二、明治大・星野仙一らとも親交を深める。卒業後は銀行勤務などを経てスポーツニッポンの記者となり、野村克也氏の南海監督解任などをスクープする。報道部副部長を務めた後、1991年に独立し、以後はフリーのスポーツジャーナリストとして活動している。

デイリー新潮編集部