「ネット選挙」を取材し続けるITジャーナリストが「選挙にそこまでネットが必要か?」と考えるに至った理由…「選挙公報とニュースを読めば2〜3時間で争点は分かる」
第2回【結局「ネット選挙」とは“SNS”と“切り抜き動画”による一方的な印象操作のことだったのか 専門家は「ネットの長所である双方向性が失われ、対話と熟議が消えた」】からの続き──。スマートフォンは、確かに21世紀最初期の偉大な発明として記録されるべきだろう。しかし、偉大な発明たらしめているのは、SNSという別の偉大な発明のおかげである。かつて取材中、そう聞いたことがある。【井上トシユキ/ITジャーナリスト】(全3回の第3回)
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SNSは、情報を受発信するとともに画像や動画の視聴ができるメディアであり、そもそも通信手段であり、日記やアルバムに似た記録媒体でもある。その特性をひと言で言えば、生存に直接関わること以外の代表的な欲求、つまり「怠惰欲」「感楽欲」「承認欲」を見事に満たしていることだ。

怠惰欲とは、楽をしていたいと望むことである。ハッシュタグやレコメンドを追いかけるだけで、その場しのぎ的にすべてがわかった気になる。わざわざ外部の動画やサイトへのリンクが貼ってあったりもする。それらを次から次へとタップして周回するだけで、オールドメディアが報じていない情報がまとめて手に入る。
世の中を理解するとは、こんなに簡単で楽なことだったのか。繋がりのある他の連中にも教えてやろう。誰かがまとめた言説を真に受けて、義憤に駆られてウラも取らずに拡散する──すべてSNS上で指を動かすだけ。大切なことをやった手ごたえ、充実した時間を過ごした感覚が強烈に残る。
毎日「お気に入り」「いいね!」「ハッシュタグ」といった機能を利用し続ければ、アルゴリズムが好みや興味のある事柄をより濃厚にと日々フィルタリングしてくれる。手間暇かけず、一直線に自分好みの欲しい情報へたどり着けるよう、勝手にカスタマイズしてくれているわけだ。
「怠惰欲」の悪影響
わざわざ検索ワードを入力する手間もなく、検索結果をさらに絞り込むためのワードを考えるために頭を使うこともなく、知りたい、知っておくべき情報が手軽に入手できる。見たい動画は、放っておけば間もなく自動的に再生される。
そして、世の中のすべてを知る──SNSこそ、怠惰そのものだ。
感楽欲は読む、見る、聞くを通じて感覚的に楽しみたいと欲することだ。SNSなら、文字に加えて音声、画像、動画と、あらゆる方法で絶景から各分野の最新トレンド、新曲、果ては流行りの変な踊りまで、いつでもどこにいてもキャッチアップして楽しむことができる。
もちろんネット選挙も同じだ。自分が推したい候補者の主張の詳細や推すに足る愛すべき人柄、倒すべき相手候補の許し難い行動やおぞましい表情、推しの候補が行く先々で歓待される様子、誰も近寄らず冴えない相手候補の活動風景、既存マスコミが知らせてくれない真実の姿が指一本でわかってしまう。
これぞSNSの醍醐味だ。
承認欲は言わずもがな、SNSにおける諸悪の根源だ。だが、現実世界では希薄だったり避けていたりする人との繋がりのなかで、簡単には得られない承認が、SNS上ではひと言添えて拡散するだけ、何なら誰かの言葉や行動を切り取って拡散するだけで得られてしまう。
ネット選挙が奪った「良質な対話と議論」
ひと言添える、切り取る対象は、ポジティブでもネガティブでも何でも構わない。情動を刺激するものであればあるほど、アルゴリズムが食い付いてくれるから良い。度し難い卑劣な、非常識な言動を見つけた瞬間、ボーナスタイムに突入だ……。
朱に交われば赤くなるというが、こんな場所にいて良質な対話や議論が生じるはずがない。
2005年の衆院選、立候補したホリエモンを追って広島6区へ入り、対立する候補の事務所で話を聞いた時のことをよく思い出す。
大略、このようなことだった。堀江貴文氏にあまりにも注目が集まり過ぎていて、みんなが浮き足だっているから、どうにも話が通じている気がしない。直接、政策や訴えを聞きにきて、何でも質問してくれたらすべて答えられるように準備しているのに、反応が薄くて残念だ。
2009年、歴史的な政権交代が起きた夏の総選挙では、京都市役所前での民主党の第一声を配られたばかりのマニュフェスト片手に選挙カーの真正面で聞いた。民主党の現役議員は、どうぞ候補者の選挙事務所へ行って何でも質問してください、マニュフェストに書いてあることは何でもわかっていただけるまでご説明しますよ、と筆者に対して熱心に語りかけた。
一方的な情報の飽和攻撃
本来、有権者が選挙=政治にきちんと向き合おうとすれば、候補者や違う考えを持った人たちとの対話が不可欠だ。しかし、時間や物理的な制約がある。昔の浅沼事件のようなことが起きても困る。それらをうまく解決するのがネット=SNSであるべきだ。
難しい話ではない。寄せられた代表的な質問について、日にちを決めて動画やストリーミングで答えたり、演説会のなかで直接答えたり、SNSでやり取りをしたり、それだけのことだ。
一方的な情報の飽和攻撃でネット上を染め上げる、小賢しい陣取りゲームのようなSNSの使い方は、やはり間違っている。有権者の参政権に資するために解禁されたネット選挙なのに、SNSの選挙活用が候補者サイドに偏り過ぎているからだ。
また、兵庫県知事選の時の立花孝志氏のごとく、勝手に2馬力選挙に打って出て注目を集め、切り抜きを含めた動画の垂れ流しや拡散を積極的に行うことで、あたかも選挙戦を金儲けの機会にしてしまっている。このようなことが起こるのも、SNSとはより声を大きくして陣取りをした方が勝つ競技場である、といったイメージが定着していることが原因と考えるからでもある。
と、まあ、先般の選挙にあたってこのようなことを考えていたのだが、「選挙にそこまでネットが必要かね?」と率直に思う。
必要なのはデジタルデトックス
紙の選挙公報をゆっくり読み、気になった箇所にマーカーをひき、ネットで公式サイト等を少し調べ、ニュース記事を遡って見返せば、2〜3時間ほどでだいたいの状況や構図、争点は理解できる。国政選挙の場合、選挙公報は投票の前々日までには自宅に届くし、それこそネット上でも閲覧可能だ。
投票日の日曜日までの公示期間に、細切れになったとしてもどこかで2〜3時間が取れない人がいたとしたら、それはもう隙間時間にボートマッチ(編集部註:vote match=有権者が自分の政治思想に最も近い候補者や政党を見つけるためのサイト)や政策比較のニュース記事を参考にしていただくとして。
ネットを制する者が選挙を制す。だから、SNSを自分の情報とイメージで染め上げる。
政党や候補者がそうした小賢しいSNSの使い方をするのなら、有権者はネットを離れて現実世界で自分なりの方法で冷静に検討すればいい。情報の飽和攻撃から自衛する手段は、デジタルデトックスにある。デジタルからアナログへ。
問題はそれができるかどうかだ。簡単なことではないかもしれないが、毎日のことでもなし、投票前に少しぐらいはできるだろう。
そもそも、政治の身勝手な論理に有権者が付き合わなければならない理由など、何ひとつないのだ。
つまるところ、選挙とは推し活である、と思う。
必要な「アナログ選挙」との接触機会
自身や所属する集団の利権に沿うように選ぶ、人的な繋がりによって選ぶ、全体の利益を俯瞰的に考えて選ぶ、サンクコスト(埋没費用)を意識してトレンドや風向きに従って勝ち馬に乗ろうと選ぶ──それぞれの理由があって、それぞれの推しが決まるのだから、単純な人気投票とは似て非なるものなのだ。
投票所へ足を運ぶ有権者たちは、それぞれの推し活をそこまでの過程で勝手に繰り広げている。問題は、投票所へ行こうとしない有権者たち、無関心層や浮動層だ。彼ら彼女らを取り込み、競り勝つためにSNSという理屈はわからなくはない。
しかし、だからと言って、切り抜き動画の絨毯爆撃、それ一択なのか。単純過ぎやしないか。
いや、別にやってもらって構わないのだが、アナログな接触の機会も別で十分に確保しておく。それが、ゆくゆく全体のためにもなると思う。
とりわけ、プランナーだ、勝手連だと称する人たちには、ネットだSNSだと連呼する前に、よくよく考えていただきたいと願っている。
第1回【今やカバン、看板よりも「ネット地盤」だが…SNSが選挙の主戦場になるまで「ネット選挙」が全く盛り上がらなかったのはナゼか】では、ネット選挙前夜の状況をリアルに描き出す。
なぜ政治家も識者もネット選挙に幻想を抱いていたか、ところが安倍晋三首相がニコニコ超会議に出席してもネット選挙が盛り上がらなかった状況など、ネット選挙の“原点”について詳細に報じている──。
井上トシユキ(いのうえ・としゆき)
1964年、京都市生まれ。同志社大学文学部卒業後、会社員を経て、98年からジャーナリスト、ライター。IT、ネット、投資、科学技術、芸能など幅広い分野で各種メディアへの寄稿、出演多数。
デイリー新潮編集部
