3月29日、七回忌を迎えたザ・ドリフターズの志村けんさん(享年70)

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 3月29日、七回忌を迎えたザ・ドリフターズの志村けんさん(享年70)。昭和、平成、令和と一線を走り続け、天国へと旅立って6年が経った今もお茶の間に笑顔を届け続けている。

【写真】志村けんさんと弟子・乾き亭げそ太郎氏のツーショットほか、現在は取り壊されてしまった志村さんの自宅など

 そんな笑いの神様を「本当に人見知りな師匠でした」──と振り返るのは、多忙を極めた1990年代の7年間、志村さんと過ごした弟子・乾き亭げそ太郎氏(55)だった。時に厳しく怒られながら、さりげないやさしさを知るげそ太郎氏が"師匠"の素顔を明かした──。

人見知りだった志村さんの弟子との向き合い

 志村さんの弟子を務め上げたのち、現在は、故郷・鹿児島で情報番組『かごしまDO』と『鹿児島わが町自慢』(KTS鹿児島テレビ)のレポーターとして活動しているげそ太郎氏。志村さんとの最後の会話は、亡くなる約半年前の舞台公演だった。

「大阪に『志村魂』の舞台を観に行ったときに、本番前に楽屋へ挨拶に向かいました。志村さんは普段からとても人見知りで、何度も会ったことがあるスタッフさんにも『あ、どうも』と、ちょこんって頭下げる感じなんです。長年、弟子をしていた僕にでさえ、久しぶりに会って挨拶をしても、毎回『おぉ……』ぐらいでした。

 それでも、最後に会ったそのときは笑顔で『お、鹿児島から来たのか』と、話し掛けてくださってとても驚きました。ただ、嬉しい半面ちょっと、普段ないことだったので戸惑いを感じたのが印象に残っています」

 志村さんが亡くなって6年。げそ太郎氏の生活も変わり、結婚して娘を授かった。生涯独身を貫いた志村さんは子ども好きだったという。

「志村さんは『子ども向けにコントを作っても子どもは笑わない。大人が笑う姿を見て子どもが笑うんだ』というのがポリシーでした。地方ロケなんかに行くと、子どもたちが志村さんのもとに寄って来て『サインください』ってお願いするんです。すると、志村さんはカタカナで"サイン"と書いて渡す。そんなイタズラもしますが、実際はあとでしっかりサインして、親しげに接していました」

 げそ太郎氏の自宅には志村さんの祭壇があり、1日は師匠への挨拶から始まる。

「志村さんの写真とグラスに入れた焼酎をお供えしていて、今はお世話になった上島(竜兵)さんも亡くなってしまったので一緒に横に並べてあります。ときどき、志村さんが夢に出てくることがあるんです」

 げそ太郎氏には志村さんの逆鱗に触れた下積み時代のエピソードがある。突然、髪を緑色に染めて「そんな髪で(コントで)どんな役をやるんだ」と怒らせ、朝の送迎で寝坊すると『オレは"すみません"から始まる1日が嫌なんだ。調子に乗ってんじゃねえぞ!』」と、深夜から朝7時までファミレスできっちり絞られたことも。なかでもコントでの怠慢には厳しく、『お前が俺の弟子なんて恥ずかしいわ』と、ブチギレさせてしまった過去もあるという。

「志村さんの舞台に出演していたときは、皆さんがいたカラオケボックスなどで『お前の演技がなっちゃいない!』『気持ちが全然入ってないからそういうことになるんだ!』と、よく怒られました。

『俺は酔っ払いでも、どういうことがあって酔ってるのかを考えて作ってる。毎回同じように見えるかもしれないけど、気持ちは全然違うんだ』といったお話をされて。悲しいのか、嬉しいのかで言葉や表情も変わると教えていただきました」

志村けんさんが禁酒した日

 志村さんがコントで見せる演技力には大物俳優らも舌を巻いた。しかし、稀代のコメディアンは過酷なコント作りの裏で、命を削るような日々を送っていた。

 げそ太郎氏は、一時期、志村さんが大好きなお酒を止めていた時期があったと語る。1998年、フジテレビ系で放送された特番『加ト・けん・たけしの世紀末スペシャル!!』収録の数か月前だった。

「ある日、志村さんが特番と『バカ殿』のネタを考えなければいけない時期が重なって、『胃が痛い』と話していて、相当なプレッシャーを感じていたようでした。

 近寄りがたい雰囲気でネタ作りに没頭されていたのを覚えています。かかりつけの病院で診てもらったら、胃潰瘍が8個もできていました。先生から『お酒は一回やめなさい。このままだと倒れるよ』と、言われて飲みの席ではホットミルクを頼んでいました」

 志村さんは笑いの空気感にもこだわった。『バカ殿』に仕える腰元には、多くのアイドルやタレントを起用。その意外な才能を開花させるうえで、志村さんが重要視していたのは、"素"のリアクションだった。

「志村さんは『バカ殿』などで新しい腰元の女性タレントさんが来た時に、本番前に出演者が集まる前室で、あえてオナラをしてその子の反応を見るんです。

 大笑いする子であれば『あ、この子大丈夫なんだな』と。でも逆に『えっ……』って引いてしまう子は、『ちょっと、俺の番組に合わないかも』という見極めをしていたそうです」

 弟子時代、げそ太郎氏は三鷹にあった志村さんの自宅から自転車で2〜3分の場所にあるアパートに住んでいた。365日、7年間、毎日のように通った自宅も昨年に売却され、取り壊された。現在は新たな戸建て住宅が建っている。「(自宅には)ほとんど入ったことがなかった」というげそ太郎氏だが、忘れられない思い出があった。

「その日はゴルフに行く予定で、いつも通りに志村さんの自宅の車庫から車を出してエンジンをかけて待機していました。しかし、約束していた出発時間になっても志村さんが出て来られない。電話しても家のチャイムを鳴らしても反応がなく、時間も迫っていて、こんなことは初めてでしたので"何かあったんじゃないか"と不安になり、玄関のカギを開けて家の中に入りました。

『志村さーん! 志村さーん!』と大声を出しても反応がなく、急いで寝室のほうへ向かうとベッドで仰向けになっている姿を発見しました。呼吸をしているかどうかわからず、まさかと思い、耳元で何度か声を掛けていたら『おぉ、すぐ行く』と。珍しく深酒して起きられなかったようで……自宅に入ったのはそれが最初で最後でした。あの慣れ親しんだ自宅の景色がなくなったのは寂しいです」

 志村さんのもとで数々の失敗を繰り返し、何度も怒らせたが、志村さんがげそ太郎氏に『辞めろ』と、言ったことは1度もなかった。むしろ、弟子入り3年目で「辞めたい」と申し出た彼を止めたのは志村さんのほうだった。

「当時の僕は芸人としてライブ活動をしたいと思っていたのですが、そういった時間がつくれず悩んでいました。そのときに志村さんから『おまえは付き人としての仕事、身の回りの世話のことはやってるけども、芸人として最高の環境にいるのにまったく芸のことをやってないよな』と、話をされました。

『俺はドリフターズのボーヤ(付き人)をやってたときも、常に周りの人を笑わせてた。お前はそれすらもやってないじゃないか。俺のところでベストを尽くしてないやつが、環境変えたところで絶対何もしないぞ』って言われて何も言えませんでした」

 それから約30年──。現在、ひとり立ちしたげそ太郎氏は鹿児島で舞台に立っている。志村さんがコント以外で魅せた「三味線」の芸事を意識して、師匠と共演した『志村魂』の舞台でよく披露していた「タップダンス」を舞台に取り入れている。その存在は今も自身のなかに生きていると語る。

「鹿児島でいろんなところに仕事行って、今でも初めて会う人とかにも『志村さんのところにいたんでしょ』って言われます。緻密に練られた笑いは令和の時代も老若男女を幸せにして、改めて志村さんの偉大さを感じます。

 あの経験をできた人って本当に稀有だと思います。すごく貴重で贅沢な時間でした。今も講演会などで弟子時代のことを話しますが、志村さんと出会ってもう30年以上経ちますけど、いまだに師匠の脛をかじってます」

 亡くなって6年経った今も洗練されたコントで人々を笑わせる志村さん。師弟関係はこれからも続いていく。