1982年6月、京急・生麦駅近くにある45坪の倉庫。会社を立ち上げたばかりの男は、角材とベニヤで手作りした事務所で部下にこう発破をかけた。

【画像】「女っ気はなく、とにかく剛毅」若かりし頃の小川会長

世界一になろう」――。

 後に「外食王」と呼ばれる小川賢太郎氏、その人である。


すき家・小川賢太郎会長(享年77)

 ◆◆◆

「女っ気はなく、とにかく剛毅」

 4月6日、心筋梗塞で亡くなったゼンショーホールディングスの小川会長。享年77だった。

「昨年6月、次男の洋平氏に社長職を禅譲してからは表舞台に立つ機会が減り、今年1月から療養を続けていた」(経済部記者)

 石川県小松市に生まれた小川氏。「父は航空自衛官で、小松市出身の小川氏の母と出会った」(知人)。

 都内の中学を経て、都立の名門・新宿高校に進学した。高校の同級生が語る。

「女っ気はなく、とにかく剛毅。『腕立て伏せを千回やれば、日本は戦争に負けなかった』が持論でした」

革命戦士の妻と結婚したが…

 東大に進学したが、当時は全共闘運動の真っ只中。小川氏も“革命戦士”となった。友人には「揉み合いになった機動隊員を首投げした」と誇ったが、自衛官の父には敵わなかった。

「当時、木更津の部隊に所属する父から、『お前、「地獄の黙示録」を観たか? 変なマネしたら俺が出撃するぞ。覚悟しとけよ』と脅され、震え上がっていた」(前出・知人)

 妻を見初めたのも学園闘争の場だった。

「奥さんは東大の後輩で、愛知県の裕福な医者の家系。実は彼女も革命戦士で、当時は丸太を抱えて当局側に突っ込んでいた」(同前)

 だが、安田講堂攻防戦で敗北すると、運動に挫折。東大を中退して、港湾労働の会社で働いた。

ナンバー2が証言「社員に筋トレを義務付けて…」

 30歳の時、後にライバルとなる𠮷野家に入社するが、4年後には部下3人と独立した。「全勝」にかけて社名はゼンショー。発足当初は弁当店だった。

「事務所の2階にあったアパートに住む日雇い労働者によく食材を盗まれていた。それでも小川さんは、『フード業世界一を目指す』と宣言したのです」

 そう語るのは創業メンバーの一人で、ナンバー2だった織岡陽一郎元常務だ。

「事務所ではミット打ちで体を鍛え、ガタイの良い労働者を腕相撲で次々となぎ倒した。ベンチプレスは最高で135キロ。社員にも筋トレを義務付けるので、私も同じ重さを上げられるように(笑)」(同前)

 不器用な面もあり、酒は飲むが接待は苦手。カラオケで妻が好むザ・ブルーハーツの「リンダ リンダ」を練習するも上達しなかった。

絵画も愛し、自分で描いた作品を社長室に飾っていました。学生時代は展覧会に出品したことも」(同前)

「ココス」や「ロッテリア」などを買収…国内外食トップに

 1982年11月に1号店がオープンしたすき家は、「歩く時は1秒に2歩以上」など、小川氏が掲げるモーレツ経営で急成長を遂げた。2000年代にはM&Aに力を入れ「ココス」や「ロッテリア」などを買収。11年に売上高で日本マクドナルドを抜き、国内外食トップに。昨年3月期に日本の外食産業で初めて1兆円企業となった。フォーブスの「日本長者番付2025」によれば個人資産は5660億円だ。

「若い頃は政治家の秘書もやっていた」(前出・同級生)という小川氏。経営の傍ら、「国民生活産業・消費者団体連合会」(生団連)の会長として、積極的な政策提言も行ってきた。交流のある国民民主党玉木雄一郎代表が語る。

「スケールの大きい人で、途上国の生産者と直接取引を行うフェアトレードを推進するなど世界的な課題にも取り組んでいました。日本の国家財政への提言もされ、まるで選挙演説を聞いているようだった。ただ、政治家には厳しく、決して権力に溺れませんでした」

 弟分の織岡氏は「早く生まれ変わって日本のために働いてほしい」と悼む。だが、「また一緒に働きたい?」と尋ねると「それはしんどいかも」と笑うのだった。

(「週刊文春」編集部/週刊文春 2026年4月23日号)