『ユージュアル・サスペクツ』TM & ©2003 by Paramount Pictures Corporation. All Rights Reserved.

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 星の数ほどある「どんでん返し映画」の中でも、1995年公開の『ユージュアル・サスペクツ』は別格だ。ミステリーの定石を知り尽くし、目の肥えた現代の観客すらも心地よく罠にハメてしまう、サスペンス映画の金字塔である。

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 物語の幕開けは、カリフォルニアの港で起きた麻薬密輸船の爆破事件。生き残った詐欺師キント(ケヴィン・スペイシー)は、関税局のクイヤン捜査官(チャズ・パルミンテリ)からネチネチと執拗な尋問を受けるハメになる。特赦をチラつかせて自白を迫る捜査官に対し、彼は6週間前に出会った悪党たち――キートン(ガブリエル・バーン)、マクマナス(スティーヴン・ボールドウィン)、フェンスター(ベニチオ・デル・トロ)、ホックニー(ケヴィン・ポラック)、そして裏で糸を引く伝説の犯罪王“カイザー・ソゼ”について語り始める。

 この映画を生み出したのは、当時まだ20代だったブライアン・シンガー(監督)とクリストファー・マッカリー(脚本)の幼なじみコンビ。わずか600万ドルの低予算ながら、その緻密なシナリオが世界を熱狂させ、アカデミー賞2部門(脚本賞・助演男優賞)をかっさらった。

 公開から30年以上が経過した本作は、現在劇場でリバイバル公開中。ネット上には、伏線や謎解きに関する考察記事が山のように溢れている。だからこそ本稿では、結末に至るまでの“完全ネタバレ”を大前提とした上で、あえて「映画の構造」という視点から、本作がなぜ今なお傑作として語り継がれるのかを見つめ直してみたい。

※以降、『ユージュアル・サスペクツ』に関する決定的なネタバレを含みますので、未見の方はご注意ください。

 本作の最大のトリックは、映画というメディアが根源的に抱える「回想シーンとして提示された映像は、揺るぎない客観的事実である」という観客の無意識のルール(映画文法)を逆手に取ったことだ。

 ミステリー小説の世界には古くから「信頼できない語り手」という手法が存在する。しかし、これを映像作品で成立させるのは至難の業。なぜなら、スクリーンに映し出された映像は活字以上に強烈な説得力を持ち、観客の目に疑いようのない真実として映り込んでしまうからだ。本作は、まさにこの映像に対する盲信を最大の武器として利用している。

 我々が2時間ハラハラしながら目撃してきた鮮やかな強奪劇や、悪党たちの友情は、客観的な出来事などではなく、1人の詐欺師が口から出まかせに語った嘘を視覚化したものに過ぎなかった。つまり観客は、カメラという神の視点を通じて事件の全貌を目撃しているつもりで、実は最初から最後まで「カイザー・ソゼの脳内で即興で生成された作り話」に釘付けにされていたのである。

 ここでもう一歩踏み込んでみたい。実は、脚本を手掛けたクリストファー・マッカリーは20代の無名時代、探偵事務所や法律事務所で事務員として働いていた過去を持つ。劇中に登場するクイヤンやフェンスターといったキャラクターの名前は彼のかつての職場の同僚から拝借したものであり、あのオチの要となる「イリノイ州スコーキーのカルテット社製」の掲示板も、彼が法律事務所で実際に眺めていたものだったという。

 この背景を知ると、映画の真の姿が浮かび上がってくる。取調室の椅子に座り、背後の掲示板のメモや手元のマグカップのロゴといった日常のディテールを拾い集め、即興で物語をでっち上げていくキントの姿。それはそっくりそのまま、退屈なオフィスの片隅で、限られたアイデアを繋ぎ合わせて物語を紡ぎ出した若き脚本家の自画像と重なる。つまり本作は、単なる犯人探しのミステリーではなく、「映画(虚構)とはいかにして無から作られ、いかにして人を騙すのか」というメカニズムそのものを描いた、知的なメタフィクションといえるのだ。

■捜査官と観客を同時に操る二重の心理的トラップ いかに見事な作り話であっても、受け手側の共犯関係なしに嘘は成立しない。ではなぜ我々観客は、彼の語るでっち上げをあっさりと信じ込んでしまったのか。それはキントが、映画ファンが好む「悲劇的なフィルムノワールのお約束」を完璧に提供してくれたからだ。

 元汚職警官のキートンは、裏社会から足を洗い、愛する女性のために真っ当に生きようと苦悩している。これはハリウッド映画における美しきアンチヒーローの完璧なテンプレだ。クイヤン捜査官は「キートンこそが事件の黒幕だ」と疑ってかかるが、逆に我々観客は、冒頭で殺された彼を悲劇の主人公として物語の主軸に据え、そのドラマチックな生き様に感情移入してしまう。

 キントが恐ろしいのは、このキートンという駒を使って、捜査官と観客の両方に別々の罠を仕掛けていることだ。彼は自分から「キートンが犯人だ」と名指しすることは決してない。ただ取調室の隅で無害な弱者の仮面を被り、陰に隠れる。そうすることで、クイヤンには「悪を裏で操る黒幕」としてのキートンを推理させ、観客には「見えない悪魔に立ち向かう悲劇の主人公」としてのキートンを差し出したのだ。

 つまり彼は、エリート捜査官の「手柄を立てたい先入観」と、観客の「主人公の物語に酔いしれたい欲望」を同時に満たす極上のエサを与え続けていたのである。我々はキートンの悲劇に涙し、見当違いの推理に夢中になるあまり、目の前の語り手キントから完全に意識を逸らされていた。マッカリーがハックしたのは、我々観客の知的優越感だったのである。

 伝説の犯罪王ソゼ(Söze)の名が、トルコ語で「言葉」を意味する語源に由来する説は、極めて示唆に富んでいる。実体を持たず、物語によって恐怖を伝播させる彼は、まさにスクリーンという虚構を通じて観客を支配する「映画そのもの」の擬人化といえるだろう。

 虚構によって我々の欲望と慢心を存分に満たした本作は、終盤に至ってさらなる残酷な牙を剥く。クライマックスでは、麻薬船の強奪という極上エンターテインメントが展開された。しかし事後捜査により、船には最初から麻薬など積まれていなかったことが判明する。真の目的は、ソゼの顔を知る唯一の密輸業者を確実に暗殺すること。宝石強奪も、派手な銃撃戦も、すべてはたった一人の男を消すための壮大な目くらましだったのだ。

 つまり、我々が手に汗握って見つめていた2時間の映画体験は、実は本筋とは何の関係もない「完全に空っぽの箱」だったのである!

 だがよくよく考えてみれば、エンターテインメント映画自体が、空っぽの箱を魅力的な嘘で塗り固め、観客を熱狂させる壮大な手品だ。マッカリーは本作を通じ、「エンタメとは所詮、美しい虚像である」という残酷な本質を、冷徹なメタ視点から突きつけてみせた。我々が最後に味わうカタルシスは、謎が解けた快感などではない。「自分たちの知性がいかに安っぽい物語に支配されていたか」を自覚させられる、心地よい敗北感である。

 『ユージュアル・サスペクツ』は、人間の思い込みや映画文法への盲信を容赦なくハックし、観客を偽りの物語を信じ込む共犯者へと仕立て上げた。その企みは、公開から30年以上を経た今でもまったく色褪せていない。リバイバル公開という絶好の機会に、ぜひ劇場で、自らのジャンル信仰が心地よくへし折られる快感を味わってほしい。

参照※ https://www.imdb.com/title/tt0114814/trivia/※ https://www.creativescreenwriting.com/christopher-mcquarrie-the-screenwriters-journey/※ https://scriptmag.com/screenplays/the-usual-suspects-unreliable-narrator※ https://collider.com/the-usual-suspects-unreliable-narrator-subversion/※ https://www.scriptslug.com/script/the-usual-suspects-1995(文=竹島ルイ)