浅間山荘(事件当時)

写真拡大

 いわゆる「連合赤軍 あさま山荘事件」が起きたのは、1972年2月のこと。この2月で54年の歳月が流れたことになる。警察当局に追われた極左過激派集団「連合赤軍」のメンバー5名が、長野県軽井沢の河合楽器保養所「浅間山荘」に逃げ込み、女性管理人を人質に取って籠城したのが2月19日。10日間の銃撃戦の末に鎮圧され、全員が逮捕されたのが2月28日。その間、警官2名と民間人1名、計3名の死者が出ている。警察当局が巨大な鉄球を用いて山荘の壁を破壊、強行突入した日のテレビ中継は、各局合わせた視聴率が90%近くに上ったほど。いまなお、戦後を代表する事件のひとつとして人々の記憶に深く刻まれている。

 この事件を巡っては、昨年、大きな出来事があった。10日間の間、人質となった牟田泰子さんが11月13日、85歳で亡くなったのである。牟田さん夫婦は事件当時、同山荘の管理人を務めていた。夫・郁男さんが愛犬の散歩中にメンバーが館内に乱入。泰子さんが人質に取られたのである。泰子さんを巡っては、救出されて以来、半世紀以上にわたり、おびただしい数のメディアが取材に訪れたが、そのほとんどに沈黙を貫いたことでも知られる。事件直後の会見には応じた彼女だが、なぜその後、口をつぐむようになったのか。

浅間山荘(事件当時)

「週刊新潮」では、事件から8年後の1980年、夫の郁男さんに取材し、その理由を詳細に報じている。以下、当時の記事を再録し、泰子さんを“苦しめたもの”、その正体を探ってみよう。

【前後編の前編】
(「週刊新潮」1980年2月21日号記事を一部編集し、再録しました)

 ***

【写真を見る】事件前は明るい笑顔を…半世紀の間、沈黙を貫いた牟田泰子さん 鬼の形相で警官に抵抗する実行犯の姿も

いまも管理人

 8年前の2月、長野県軽井沢の「浅間山荘」に逃げこんだ「連合赤軍」の残党5人は10日間の銃撃戦のあと鎮圧され、全員逮捕された。人質にとられた牟田泰子さん(当時31)は、10日間まったくその消息がつかめず、安否が気づかわれていた。そして大方の予想とちがって、泰子さんは無傷で救出されたのだったが……。

 牟田泰子さんと夫の郁男さんは、いまも「浅間山荘」の管理人をしている。

 事件後、泰子さんは退院してから2カ月ほど、同じ軽井沢で別荘の管理人をしていた泰子さんの父親のもとに身を寄せていた。その後、豊橋の「河合楽器」の健保会館で牟田さん夫婦は事務の仕事についたりしていた。山荘が5000万円かけて再建されたのは昭和48年10月。事件後1年8カ月たっていた。牟田さん夫婦は泰子さんの希望で、再び山荘の管理人として軽井沢に戻ってきたのだった。しかし、再建なった軽井沢の山荘に戻ってきた泰子さんには、事件前の陽気なところがまるで見られなかったという。

すっかりマスコミ嫌いに

 当時、「2人は離婚したらしい」とか、「泰子さんは再婚で2人は九州から駆け落ちしてきたんだって」とかいう噂や情報が流れていた。中には、無責任にも「二人の離婚の原因は、泰子さんが人質にされている間、犯人たちに乱暴されたから……」というものまであった。被害者であるはずの牟田さん夫婦を見る世間の目は、なぜか冷たかった。牟田さん夫婦は、いわれなくてもいい噂や、昔の古傷をあばかれたりで、すっかりマスコミ嫌いになってしまったらしい。事件以後、泰子さんは報道関係者には、いまだに“完黙”を通しているほどである。

 それもこれも、どうやら、事件直後の泰子さんのあのひとことがすべての発端らしいのだ。

 事件は10日間におよぶ銃撃戦、といってもアメリカとちがって撃つのは犯人ばかりで、その結果、機動隊員2人が顔面を撃ち抜かれ死亡、重軽傷者多数という犠牲者を出し、民間人1人も後頭部に散弾銃を受けて死亡するという、公安史上まれにみる大事件だった。

 しかも、その場で撃ち殺されていても当然といえる5人の犯人たちが、いずれも無傷のまま逮捕されるという“民主警察”のお手本みたいなおまけがついたりした。強行策をとって人質の泰子さんまで傷つけた……ということもなく、警備陣は点数を稼ぐ一方だったのである。

軽井沢の律子さん

 当然のことながら、逮捕され連行される犯人たちに機動隊員や見物の群衆から罵声がとんだ。

“この野郎、ブッ殺してしまえ!”
“死刑だ!”

 連日、ブラウン管に釘づけされていた国民の多くも、同じ気持ちで犯人逮捕のシーンを見ていたといっていい。新聞も「狂気集団」「ひきょうだぞ連合赤軍」という調子で書きたてていた。たしかに、連合赤軍の犯人たちは、残虐非道、鬼のような連中にちがいなかった。

 いっぽう、人質になった牟田泰子さんは、「軽井沢の律子さん(注=女子プロボウラーで美人といわれた中山律子さんのこと)」といわれたりする、陽気で色白の美人。犯人たちが泰子さんに危害を加えないという保証はまったくなかった。

 10日間というもの、夫の郁男さんの必死の呼びかけにもかかわらず、泰子さんが無事でいることの証拠を、犯人たちはついに一度も出してこなかった。郁男さんの心配はもちろん、警備陣も、焦りと不安を濃くしていった。当時、警備に当たった最高幹部の一人が述懐する。

「実をいいますと、泰子さんは乱暴されたうえ殺されたのではないか、生きていても危うい精神状態になっているんじゃなかろうか、という想定までしていたのです」

 事件を注視していた大方の心配も、つきるところそうしたものだったといえよう。

「だいじにされていました」

 その泰子さんが、救出された直後にこういった。

「(犯人たちは)よく話をしてくれました。我々のいうことを聞けば最後まで守ってやる。どうしてこんなことをするのか、など政治的な話も聞かされました。きつくしばりすぎた手首を、もんでくれたこともあります」

「警察が攻めこんで来た時も、そこのベッドは放水でぬれるから、奥のベッドへ行くようにいわれました。私を保護しようと気を使っていたようです」

 そして、「だいじにされていたんですか?」の質問に、はっきり「ええ、だいじにされていました」とこたえたのである。

みんなと一緒に遊びたい

 要するに、「狂気の残虐集団」であるはずの犯人たちは、「善光寺のお守りをくれた」りする“紳士”の集団だったと泰子さんがいったのである。

 入院3日後の記者会見でも、泰子さんの話は同じだった。

「早く元気になって家族みんなと一緒に遊びたい」とも答えた。2度の記者会見中、泰子さんの口からは、とうとう最後まで殉職警察官へのおくやみの言葉が聞かれなかった。これが牟田さん夫婦を今にいたるまで、世間に対してかたくなな態度をとらせる原因になったのである。

 ***

 この発言を受け、泰子さんのもとには、全国から電話や手紙が殺到したという。その信じがたい内容とは――。【後編】で詳述する。

デイリー新潮編集部