外食が思うようにできなかった、2021年。

外で自由に食事ができる素晴らしさを、改めてかみ締める機会が多かったのではないだろうか。

レストランを予約してその予定を書き込むとき、私たちの心は一気に華やぐ。

なぜならその瞬間、あなただけの大切なストーリーが始まるから。

これは東京のレストランを舞台にした、大人の男女のストーリー。

▶前回:「東京はなんでも、やたらに高い…」そう嘆きながらも、女が東京にしがみつくワケ




Vol.8 果穂(25歳) 一番近い距離


太輔は、ずっと私のとなりにいる。

なんの比喩表現でもない。本当に、物心ついたときからずっと私のとなりにいるのだ。

家はお互い目黒駅近く。幼稚園は白金幼稚園。小学校も一緒の白金小。なんの因果か中受の志望校も同じ一貫校で、二人とも大学まで一緒に通った。

太輔は営業で有名な広告会社、私は大手の化粧品会社。就職した会社は違ったけれど、交流は大人になった今もずっと続いている。

二人の定番の店、ここ『白金バル』のカウンター席で、こうしてしょっちゅう集まってはくだらない話をする関係。

今夜もまた太輔は、私のとなりでゲラゲラ笑いながらバカスカとビールを飲んでいる。

今年でお互い25歳。22年間も友達。少なくとも、太輔の方はそう思っているはず。

…私の方は、そんなふうには思ってないんだけれど。


太輔とは、ただの友達。でも、果穂の本音は…


「なあ果穂。アヒージョふたつ追加していい?海老のやつと白魚のやつ」

「ええー、にんにく食べ過ぎじゃない?ここのアヒージョ、にんにくゴロゴロ入ってるし。太輔それぜんぶ食べるし。口臭くなるよ」

「いいじゃんか、好きなんだから。口が臭くなったって、どうせ相手はお前なんだし」

「ひどっ。せめてひとつにしなよね。白魚はまた今度にして、海老のほう頼も!」

傷ついていないふりをして、昔からのノリで会話を交わす。

こんな太輔のいつも通りの軽口に、胸がチクリと痛むようになったのはいつ頃からだろう。

覚えていない。いつから太輔のことを好きだったのか。でも、気がついた時にはもう、気持ちを伝えるタイミングなんてとっくの昔に過ぎ去っていた。

太輔が私に感じているのは、男女を超えた友情だけ。幼稚園のころ、男だとか女だとか意識せずに手を繋いでいた感じ。そんな関係のまま、私と太輔は後戻りできないほど大人になってしまったのだ。

馬肉のタルタル。鱈白子のガーリックオイル焼き。真っ黒なイカスミのパエリア。所狭しと並んだ好物のタパスたちを見ながら、太輔がしみじみとつぶやく。

「あ〜、好きなものばっか食べられて最高!やっぱこうして果穂と飲むのが一番気楽だな」

またしても、締め付けられるような胸の痛みが走る。誰と比較して楽なのか。私には、それがすぐにわかってしまうから。

太輔がマリさんと別れてから、もうすぐ3ヶ月が経とうとしていた。




マリさんは、太輔の会社の先輩の女性だ。

そして、学生時代はずっとラグビーに夢中だった太輔が、初めて本気で好きになった恋人でもある。

「果穂。俺、やっと本気の彼女ができたわ。マリさんっていうんだけどさ…」

いままで見せたことのない笑顔でそんな報告をしてきたのも、この店のこの席だった。

「お前も早く彼氏作って、いつかこの店に4人で来ようぜ。

あ、でもマリさんの前でにんにくは厳しいか!?イカスミもやめといたほうがいいよな!?」

大はしゃぎする太輔を前にして、私は必死に笑顔を浮かべながら「うざー」と笑うことしかできなかった。

そして、心のどこかで「うまくいかなければいいのに」と考えてしまったことを、ほんの少し後悔している。

私がそんなことを考えてしまったせいなのかもしれない。マリさんは、ちっとも太輔を大切にしてくれなかったのだ。

太輔を、試して、束縛して、突き放して…。ときには他の男性のところにフラフラしてしまうマリさんの奔放さに、太輔が振り回されているのを見るのはつらかった。

そして、3ヶ月前。ついに耐えきれなくなった太輔が、マリさんに別れを突きつけた夜。

いつものように呼びだされたこの店で、私は初めて太輔が泣くのを見た。

ガヤガヤとした店内の喧騒の中、ラグビーで鍛え上げた太輔の大きな背中が小さく震えていた。

私はただそんな太輔の隣で、そのクマみたいな背中に手を置きながら、無言でシェリー酒を飲んだ。

― もし太輔が別れたら、今度こそ気持ちを伝えよう。

マリさんと太輔が付き合っている2年間、ずっとそんなふうに考えていたはずだった。

でも、太輔の背中に手を当てながら、その時の私が考えたことは…自分でも意外なロジックだったのだ。


ずっと片想いをしてきた太輔が失恋。大チャンスに感じた意外なこととは


『白金バル』のカウンター席は、肩が触れ合いそうなほどに近い。

ただの友達だから手は繋げないけれど、今のままの関係でいれば、太輔がつらい時にいつでもこうして背中に触れて慰めることができるのだ。

― 私、ずっと太輔のとなりにいたい。そのためにはこのまま、親友でいるのが一番なんだ。

恋はいつか終わりが来てしまう。でも、友達ならずっと一緒にいられる。

そんなふうに考えて、私はこうして変わらず太輔のとなりにいることを選んだ。だって、いつまでも太輔とふざけ合っていたいから。

「ねえ、サングリア頼まない?デキャンタで頼んでいいよね。どうせ太輔が9割飲んじゃうし」

「逆だろ!」みたいなツッコミが入ることを期待しつつ、私はメニューを指さす。…だけど、太輔は何も言ってこない。

拍子抜けした私がメニューから視線を上げると、太輔は急に口をつぐみ、振動するスマホを食い入るように見つめていた。

『白金バル』の席は、肩が触れ合いそうなほどに近い。否が応でも、スマホの画面が目に入ってしまう。

着信を告げるその画面には、「マリ」と表示されていた。




無言の私たちの間で、着信のバイブだけがずっと振動し続けている。

「マリさんだね」

「うん」

「出なくていいの?」

「ん」

「『ん』じゃわかんないし。出なよ。私トイレ行ってくるから」

いてもたってもいられなくなった私は、慌てて化粧室へと逃げ込む。そして、鏡に映る自分自身を見ながら、心の中で泣き叫んだ。

― ばか。ばか。ばか。親友のままでいいだなんて、ただ気持ちを伝えるのが怖かっただけ。マリさんと太輔のヨリが戻ったら、ずっとそばにいることなんて無理なのに!

でも、こうして心の中でどれだけ叫んだって、現実は変えられない。私は、張り裂けそうな胸の痛みをどうにか平常心で取り繕うと、化粧室からゆっくりと席へと向かう。

でも、私が席に戻った瞬間だった。

太輔が、入れ違いに席を立ったのだ。

「太輔!」

気がついた時にはもう、言葉の方が先に出ていた。

「マリさんのところに行っちゃやだよ。あんたが失恋した時は、私がこの店で慰めたんだよ。私がいま失恋したら、誰が私を慰められるのよっ」

私の奇妙な告白を受けて、太輔は目を丸くする。

いたたまれなくなった私は、これから受け止めなくてはいけない悲しみの衝撃に耐えるために、カウンターに突っ伏した。

ガヤガヤとした喧騒だけがしばらく聞こえたあと、おもむろに、太輔が口を開く。

「果穂…、ごめん」

胸の痛みはひどくなるばかりだ。涙が滲んで、顔があげられない。

こうなること恐れて気持ちを抑えてきたのに。今日から太輔は、私のとなりからいなくなってしまう。

…でも、太輔の言葉は、予想外の方へと続いていた。

「ごめん。…勝手に、白魚のほうのアヒージョも頼んだ。あと、俺もトイレ行きたい」

「…はぁ?」

あまりに予想外の返答に、私は思わず顔を上げる。

「え?マリさんは?」

神妙な表情を浮かべた太輔は、ゆっくりと指を差す。その指の先には、熱々の白魚のアヒージョの下に鍋敷よろしく敷かれたスマホがあった。

「ちょっとっ!何してんのっ!(笑)」

思わず吹き出す私の隣に、あらためて座りなおした太輔は、ぶっきらぼうに言葉を続ける。

「ずっと前さ、『お互い彼氏彼女作ってこの店に4人で来よう』って言ったじゃん。

…でも俺、最近考えてたんだよね。カウンター席の店だし、やっぱりずっとお前とふたりだけの方が良くねー?って」

肩が触れ合いそうなほどに近いカウンター席の下で、太輔はそっと、幼稚園ぶりに私の手を握った。

「果穂。もうトイレ行っていい?」

おどけてそう尋ねる太輔の手をギュッと握り返しながら、私は涙声で答える。

「ダメ。ずっと私のとなりにいて」

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