【エンタがビタミン♪】蛭子能収、芸能界入りきっかけは柄本明。一度の舞台で『笑っていいとも!』にスカウトされる。
ついに看板店勤めに堪えられなくなった蛭子は、1970年に「大阪万博を見に行く」と噓を言って会社から休暇をもらい、逃げ出すようにそのまま上京。東京では脚本の勉強がしたい―と1年間、シナリオ教室に通っていた。だがこのシナリオ教室では一人も友達ができなかったばかりか、「誰とも喋った記憶が無い」ほど孤独な毎日を過ごしていたらしい。“これではダメだ!”と奮い立った蛭子が、東京で勤めた先がなぜか再び看板店だったのが彼らしい。その看板店には寮があり、毎日の食事が提供された。その寮で暇さえあれば、漫画を描く日々が始まったのだ。
描き上げた作品をある漫画専門の出版社に持ち込んだところ、すぐに入選。26歳で漫画家デビューとなったが、その出版社は金銭的に苦しかったため原稿料を入れてもらえず、バイトをしながら漫画を描き続けたという。芸能界デビューのきっかけは蛭子の漫画のファンだった劇団『東京乾電池』の柄本明からポスターを依頼され、劇団に出入りするようになったことからである。彼のキャラクターを気に入った柄本から、「ウチの劇に出てみないか?」と誘われ1回だけ舞台に立った。その舞台を観ていた『笑っていいとも!』の初代プロデューサーが、蛭子をスカウトしたのだ。そして40歳で『笑っていいとも!』に出演した彼のもとには、ドラマやバラエティ番組への出演依頼が殺到。1980年代後半から1990年代前半まで、第一次“蛭子能収”ブームとなったのだ。

